1:なぜ,性を語るのか

 

精神科を受診する女性たちを診ていると,性に係わる心の傷は珍しくありません。初診の時に語ってくれることは少ないのですが,何回かの受診の後,信頼関係ができてくると,受診のきっかけとなった症状(抑うつ,不安,精神的不安定など)の背後にある心の傷を話してくれます。レイプ被害(既遂であれ未遂であれ),痴漢被害,子供のころの性的虐待,性に係わって投げ付けられた侮辱的な言葉(「不感症」,「やりまん」など)・・・・。

こんな話を聞くにつれ,臨床医として性の問題を避けるわけにはいかないという気持ちになります。

 

心の傷,というほどではなくても,性に係わる悩みを抱えていながら,それを誰にも相談できなくて心が晴れないまま日々を過ごしている女性は珍しくありません。性について,特に女が性についての疑問や悩みをまじめに,だけど深刻ぶらずに語るのは今でもかなり難しいようです。しかも,性について無知であるための被害(典型的には望まない妊娠)はほとんど女性に集中します。

 

精神科だけでなく婦人科の立場からも,さらに言えば臨床医という立場を離れても,一人の人間としても,性について,特に女の性にまつわるネガティブな影について,思うこと,語りたいことはいろいろあります。

 

というわけで,性について考えていることを書いていきます。

ただし,明確な結論に達したわけではありません。完成するのを待っていてはいつになるか分からないから,見切り発車的に書き始めます。

 

話の切り口として,性犯罪被害についての素朴な疑問を語りましょう。

 

性犯罪は奇妙な犯罪です。たいていの犯罪であれば,被害者は加害者を訴えるのをためらいはしません。「面倒臭い」と思うかもしれないけど,自分の被害を訴えることに後ろめたい気持ちはないでしょう。性犯罪はそうではありません。被害者は告発をためらいます。自分が被害に遭ったことを知られたくないと思います。他の犯罪であれば,加害者の方が自分の加害行為を知られたくないと思うのですが,性犯罪に限っては,被害者も,被害者の方こそ,自分の被害を世間に知られたくないと思います。

そう思うには,それなりの理由があります。他の犯罪であれば,世間は被害者に同情の視線を向けます。しかし,性犯罪の被害者に対しては,表面的には同情しながら,本心では冷ややかな,侮蔑とからかいのこもった視線を投げます。そして,加害者でなく被害者の方が,世間からつまはじきにされることさえあります。

それを知っていればこそ,被害者は自分の被害を告発するのをためらうのです。

そして,性犯罪は被害者の体だけでなく,心も傷つけます。心の傷の方がずっと深いでしょう。場合によっては,被害者が自殺するほどに。文字通りの自殺は少ないにしても,社会的な自殺行為,自分の人生を台なしにするような自暴自棄の行為をしてしまうことは,珍しくありません。

以前,『犯罪白書』を読んでいて,女子少年院についての記述の中で,収容者のほとんどは性体験があるとの記載の後に(それ自体は驚くことではない),「そのうちの約3分の1は,最初の性体験が強姦である」という文章を読んだ時,いたたまれない気持ちになったものでした。もちろん,彼女たちのすべてが,強姦されたことがきっかけで犯罪に走ったのではないにしても。

 

なぜ?

なぜ,性犯罪被害者は加害者からだけでなく,世間からも傷つけられるのか。そして,その傷を心の奥深くに抱えこまされるのか。

実は,一応の答えは出ています。

性のタブーが存在するから。そして性のタブーが女に対して一方的に重く抑圧的に押し付けられているから。

ただ,これだけでは,わたしは満足できない。そして,多くの人,とりわけ女性たち自身も心からの納得はできないでしょう。もっと詳しく,ていねい,手間ひまかけて考察し,説明したい。

 

                                                      

 

「性犯罪は被害者の体だけでなく,心も傷つけます」と書きました。これはまぎれもない事実です。この事実に係わって,わたしはもう一つの疑問,個人的な体験にまつわる疑問があります。

このホームページに公開している『摂食障害とたわむれて』の中で,わたし自身が性犯罪被害(あるいは性的虐待)を受けたことを書いています。その部分を引用します。

わたしが13(中学2年生)の頃,一人で山歩きをしていた時のことです。

 

「・・・・狭い山道を抜けて,自動車が1台通れるくらいの道に入り,しばらく歩いていると,バイクに乗った20歳くらいの男に声をかけられました。「後ろに乗せてやる」と言われたので,わたしは特に何の考えもなく乗せてもらい,自分の住所を告げました。バイクはわたしの家に向かって軽快に田舎道を走りました。あと10分くらいで着くと思うころ,道をはずれてそばの池のほとりに乗り付け,その男はバイクを止めました。「xxのまねごとをさせてくれ」,かなり露骨な方言でした。わたしは驚きました。不思議と恐怖感はなかった。言われるままに,パンツを下ろし,池のほとりの草の上にうつ伏せになりました。男は自分のペニスをわたしの尻に押し付けました。無理に入れることはしなかった。「もういいよ」。そう言われてわたしはズボンを上げました。男はわたしの見てる前でペニスをしごき始めました。そして,射精してみせました。」

 

今思い返しても,13歳の少年だったわたしは,目の前で自分のペニスをしごいている男をかなり冷静に観察していました。射精の直前,男は「うっ・・・・」というような声をあげました。その姿を見て,声を聞いて,わたしは,やはり冷静に,「射精というのは気持ちいいものなんだ」と考えていました。

心は傷つかなかった,と思う。わたしの記憶している限りでは。

なぜ,傷つかなかったのか?

同じような状況で多くの被害者は心に傷を負うのに,なぜわたしは傷を負わなかったのか?

 

予想される反論(説明)にあらかじめ答えておきます。

まず,「わたしが男だから傷つかなかった」という説明。

この説明は,一般論としては,成り立たない。

わたしのように,ホモセクシュアルの男の餌食にされた(餌食にされかかった)男性(多くは少年)の性犯罪被害者は,わたしのほかにもいます。そして,一般的には,男性の性犯罪被害者の方が女性の被害者より,深い心の傷を負います。

もう一つの説明は「被害の程度が軽かったから。未遂で済んだから」

これは一面の真理だと思う。

もし,4〜5人の男たちに押さえ込まれて,無理やりアナルに入れられて射精されていたら,わたしも深い心の傷を負ったかもしれない。

ただ,仮にそうだとしても,わたしが実際に遭遇した程度の被害であっても,心に傷を残す被害者もいるのです。であれば,なぜ彼女たちは傷つき,わたしは傷つかなかったのか,という疑問は残ります。

この疑問は,わたしの個人的な体験に基づく個人的な疑問に見えるかもしれません。でも,そうではありません。同じような性犯罪被害にあった女性たちでも,ある人は深く傷つき,別の人はさほどの傷を負わずに立ち直ります。その違いはどこから生じるのか?

 

性犯罪被の理不尽に対する憤りを込めた疑問と,わたしの個人的な体験にかかわる疑問は,どこかでつながっているはず・・・・わたしの直感です。

 

2:性の抑圧と性犯罪

 

性の抑圧,性のタブー化と性犯罪の関係について,紹介したい本があります。川田順造『アフリカの声』の一節です。

著者は文化人類学者として,西アフリカ,サハラ砂漠の南のステップ地帯に居住するモシ族という部族を研究のフィールドとし,これまで3〜4回,通算8年,その部族社会で村人に溶け込んで生活したことがある人です。

 

                                                                                                  

 

村の夜のお話の座で,8歳の男の子がしたお話。

 

「昔々,キンデ()ちゃんとヨーレ(男根)ちゃんとランデ(睾丸)ちゃんは,別々の生きものだった。3人はいつも一緒に落花生畑を歩きまわって遊び,落花生を掘って食べていた。ヨーレちゃんは自分が落花生を掘ると,いつもキンデちゃんに分けてやっていた。けれどもランデちゃんはキンデちゃんに分けてやらなかった。

ある日,いつものように3人が落花生畑で遊んでいると,突然大雨になった。キンデちゃんは自分のからだを開いて,いつも落花生を分けてくれる優しいヨーレちゃんをすっぽり包みこんでやった。ランデちゃんも入りたいといったが,キンデちゃんにいつも落花生をあげなかったので,入れてもらえなかった。それからというもの,いまでも,ヨーレちゃんがキンデちゃんの中に入れてもらっているとき,ランデちゃんは外で待っているのだ」

 

この話をさもおかしそうにした男の子はなかなかおませだが,いくらませていてもこのことの実際の意味が分かるはずはない。ただ,実感はなくても知識としては知っているのであろう。その基礎になっているのは,人体についての即物的な知見と,性器を指す語彙の日常語としての使用だ。私が日本語とくらべて羨ましいと思うのは,男女の性器やその部分をさす語が,卑猥感を帯びた隠すべき言葉としてでなく,ごくあたりまえの言葉として,大人,子ども共通に日常用いられていることだ。

かつて日本の児童文学の雑誌にこのお話の和訳を載せたとき,訳に困り,いま書いたように,モシ語のカナ表記に子どもが読んでもおそらく分からない漢語の訳を括弧して入れた。現代日本語だったら,まずことばのレベルでの困難があって,8歳の子にはこのお話は皆の前ではできないだろう。

 

モシ社会でケチは悪徳の第一に挙げられるものだが,性に関しても過度の吝嗇,嫉妬を笑い飛ばすこんな話がモシ社会では夜のまどいで好んで語られる。

 

「嫉妬深い男がいて,よその男が妻に触れるのを嫌い,村はずれに別に家を付くってそこで二人で暮らした。ある金持ちの男がこの妻と戯れてやろうと思い,バオバブの実を割って中に金の粒を入れ,それをもってケチ男の家に行く。

通りかかったがのどがかわいたので水を1杯のませてくれといい,もっていたバオバブの実を割って食べようとする。中から金の粒がこぼれ落ちる。ケチ男が驚いて,どこでこの実をとったのかと訊ねる。金持ちはすぐこその木だといい,ケチ男と一緒に行く。太い木の棒をたてかけてケチ男が木に登ると,金持ちはたてかけた棒をはずしてしまい,木の下にケチ男の妻を連れ出し,やるんじゃないと妻に向かってわめきつづけるケチ男の目の前で性交する。何度も交わったあと,金持ち男は満足して立ち去る。ようやく木から降りたケチ男は,斧をもって追ったが逃げた男の姿は見えなかった」

 

モシの村の夜のまどいで子どもたちもまじった聞き手が大笑いする人気のある話で,一度は12歳の男の子の語り手が,二度くりかえされる性交シーンを「トントントン,トトントン」と擬態語で描写し,聞いている大人も子どもも大笑い。

こうして文字で簡略化して書いたのではうまく伝えられないが,十人くらいの聞き手がいる夜空の下で,かなり大きな声でこういう話をするのは,文字で書かれた話を一人で黙読するのとは,そのもつ意味がまったく違う。「卑猥」という概念も,そこではほとんど意味を失ってしまう。

 

(中略)

 

ちなみに,私が通算して8年暮らしたモシ社会では,痴漢とか,幼女へのいたずらとかが問題になったのを聞いたことがない。性というものの,現実の人間の営みの中や,表象や想像の世界の中での位置が,私たちの社会とは,やはりかなり違っているからであろうし,そのことはこれまで簡単に述べたいくつかの事からも,おぼろげながら浮かび上がってくるのではないかと思う。

 

                                                                                                  

 

痴漢がないという著者の言葉は,多少割引く必要があるかもしれません。通算8年間,ほとんど村の身内のようにあつかわれて生活していたとはいえ,やはり「よそ者」であり,村の恥になるようなことは隠されていたかもしれないし,著者自身のひいき目もあるかもしれません。

それにしても,たとえば今の日本のように日常的に痴漢犯罪が発生している国なら,隠そうにも隠せないし,1年も住んでいればどんな外人にも知れ渡るでしょう。その意味で,モシの社会にはこの種の性犯罪が少ないとは言えるはずです。そしてそれが,性について開放的な雰囲気と関係していると推測するのも,根拠があるでしょう。

 

著者が紹介しているようなお話,特に2番目に紹介している,他人の妻を寝取る話は,猥談としてならモシ社会に限らずどこにでも,恐らく日本にも,存在します。モシ社会の特徴は,そのような,他の社会では「猥談」として,大人の男だけがいる場で下卑た笑いと共に語られる話が,大人も子供も交えた夜の座談の場であけっぴろげに語られることです。

性についておおっぴらに語るのが難しい社会,性器を示す日常語(医学/解剖学用語でも,外国からの借用語でもない日常語)を日常会話で口にするのがはばかられる社会(日本もそうです)の雰囲気にどっぷり浸かっている人間が,このように性に開放的な雰囲気を想像するのは難しい。

 

だけど,日本でも,歴史をさかのぼれば,性に関して今より開放的だった時代もありました。

たとえば,江戸時代以前の日本の庶民に関しては(武家や公家など上流階級は別にして),処女はほとんど道徳的な意味を持たなかった。どういうことかと言えば,既婚女性が夫以外の男と性関係を持つのは咎められたけど,未婚の女性の性関係についてはほとんど自由であったようです。

このため,戦国時代に日本にキリスト教を伝えた宣教師たちは,マリアの処女懐妊の道徳的意義を日本の庶民に理解させることができなかったというエピソードが伝えられています。当時の日本の庶民は,処女であることがなんでそんなに偉いことなのか,理解できなかったのです。

だからこそ,夜這いの習慣が明治の中頃まで存続したのでした。夜這いは,ある意味で,女を男の性欲処理の道具として扱うもので,手放しでほめられるものではありませんが,知っておいてほしいのは,夜這いをした男だけでなく,夜這いを受け入れた女の側も何ら道徳的に非難されなかったし,「傷物」扱いされなかったということです。

現代でも,女を性欲処理の道具として扱う男は掃いて捨てるほどいます。そして現代の社会は,そういう男たちには何の道徳的非難も加えないのに,性欲を受け入れた女には,「淫乱」,「あばずれ」など道徳的な罵倒を浴びせます。この点で,現代は江戸時代以前より退化したと言えそうです。

 

江戸時代以前のことを持ち出さなくても,つい4050年くらい前,つまりわたしが子供だった頃でも,モシ社会ほどではないけど,性に関して今よりは大らかだったのです。

たとえば,電車の中で,母親が胸をはだけて赤ん坊に乳房を含ませ母乳を与えるのは,ごくありふれた光景でした。一緒に電車に乗っている人達の視線がその乳房に集まることもなかった。そんなことは,ごく普通のことだから。

あるいは,夏の夜,銭湯からの帰り道。

このホームページに公開している日記にも書いたことがありますが,わたしが子供の頃,冷房は高嶺の花だったから庶民の家にあるはずはなかった。銭湯の脱衣所にもクーラーはなく,大きな扇風機が天井で回っているだけでした。湯上がりのほてった体を扇風機の風で少し冷やしても,まだ暑い。

子供はパンツをはいただけの姿で家まで歩いて帰ったし,大人の男は股引きだけで上半身はだかでごく普通に歩いていた。大人の女は・・・・当時の言葉でシュミーズ,今の言葉ならスリップを着ただけの姿で歩いていた人も珍しくなかった(全員ではないけど)。だからと言って,銭湯帰りの女性をねらった性犯罪が多発していたわけでもないです。

 

日本じゅうがそうだったのかどうか,それはわかりません。わたしが生まれ育った九州の炭鉱街ではそうだった。東京の山の手では,違っていたかもしれません。地域限定かもしれませんが,そのような性に対しておおらかな風土がかつては存在していたのです。

その風土が失われていったプロセスも,わたしの記憶の中でたどることができます。

街の炭鉱が閉山したのは,わたしが小学校2年生の時のこと。炭坑労働者はいなくなり,一気に街はさびれたけど,さいわい福岡市にほど近い所(バスで2030分くらい)だったから,勤め人の住まいが建ち始め,福岡市のベッドタウンになっていった。

それと平行するように,テレビがすべての家に普及し,東京の中産階級の生活意識/生活習慣が日本の隅々にまで発信されるようになった。ひな祭りや七五三が庶民にまで普及したのは,それ以後のことでしょう。わたしには2歳上の姉がいるけど,自分の家でひな祭りが祝われたことはない。当時の庶民には縁のない習慣だったのです。

生活意識には性についての意識も含まれます。電車で赤ん坊の乳房を含ませる母親も,シュミーズで銭湯から帰る女性も,徐々に姿を消していきました。

今では,幼い子供たちが公園の噴水で裸で無邪気にじゃれあっている光景にも性的な視線を向ける人がいるかもしれない。その視線を意識して親が「〇〇ちゃん,そんな格好してはいけません」と子供を叱り付けるかもしれない。子供は,性というのは隠さないといけないものなのだという意識を刷り込まれるでしょう。

でも,そうやって性を隠すことが,性犯罪の予防や減少に有効かどうか,かなり疑わしい。むしろ,大きな視野でみれば,性犯罪を助長するかもしれない。「そんな馬鹿な」と思いますか?・・・・

 

ヨーロッパやアメリカには,素足に対するフェティシズムが存在します。一日中,靴と靴下を履いて生活し,素足を見せることがほとんどない,そして,一定以上の階層では素足がはしたないとされている社会では,素足へのフェティシズムがあり得るのです。

日本のように,素足に下駄(または草履)履きで,家に上がる時は下駄や草履をぬぎ,素足で畳の部屋に上がるのが当たり前の社会,素足がはしたないとされず,隠されることもない社会では,存在しないフェティシズムでしょう。だけど,生活が欧米化して一日中靴を脱がないようになり,素足をはしたないとする意識が普及したら,その時は日本でも素足へのフェティシズムが広まるかもしれない。そして,素足を覗くという「性犯罪」が誕生するかもしれません。

 

抑圧と精神病理について,もう一つ,食欲を例にとって説明しましょう。

食欲は性欲とならぶ人間の基本的欲求とされます。これからも何度か性欲と食欲を対比して論じることがあると思いますが,食欲は性欲ほど抑圧されることは少なかったようです。しかし19世紀のヨーロッパ上流社会で,女性は痩せている方が美しいという美意識が誕生します。20世紀末には,この美意識,およびそれと裏腹の関係をなす肥満への嫌悪は,上流社会を越えて先進国のほとんどすべての女性をとらえるようになりました。食べれば太ることは,誰でも分かりますから,痩せ願望/肥満嫌悪は食欲の抑圧を生み出します。そして,それとほぼ同時に,摂食障害という精神病理が誕生しました。

食欲の抑圧が摂食障害を産み出したように,性の抑圧が様々なフェティシズム,そして多くの性犯罪を産むという推測は,さほど見当違いではないと思う。

ただし,あらゆる病理が治療を必要とするわけではありません。他人を害さず,本人にとってもさほど辛くないものであれば,放っておいてもかまいません。その点で,フェティシズムの多くは,放っておいてもかまわないものでしょう。性犯罪は放ってはおけません。

 

性の抑圧と性犯罪に関しては,最後にもう一つ述べたいことがあります。

序論に掲げた2つの疑問のうちの2番目の疑問,「どうしてわたしは傷つかなかったのか」という疑問に係わることです。

 

わたしは上記のような性に対して比較的おおらかな環境でそだった同年代の子供たちの中でも,とりわけ性のタブー意識が弱かったようです。『摂食障害とたわむれて』にこんなことを書いています;

 

「中学時代は性に目覚める年代です。特に男子では夢精,射精が始まります。2年生の2学期,恐らく誰かが夏休み中に知識を仕入れてきたのでしょう,その種の話題が突然クラスじゅうに広まりました。

わたしは,小学生の頃,ギリシャ神話の本の中で西洋の古典的な裸婦像に出会っていました。女の裸の絵にびっくりしながら,「きれい」と素直に思ったようです。わたしは同年代の子供と付き合うことがなかったので,常識的な性への偏見を持たなかったのかもしれません。そのせいか,同級生の男子たちの性に係わる会話(猥談と言ってよいでしょう)にはどうもなじめない思いがしていました。なぜ,あんなふうにいやらしい話し方しかできないのか?・・・・」

 

その一方で,あの性犯罪に巻き込まれた時,わたしは既に男の性欲について一応の知識を持っていました。射精が快感であるらしいこと,その快感を得るために,男は女にお金を払うこともあれば,女を襲うこともあるということなど。

性のタブー意識がごく弱い一方で,こういう知識を持っていたから,あの場面で冷静でいられたし,傷つかなかったのかもしれない・・・・確実な根拠のない推測ではあるけど。

 

3:抑圧の源

 

モシ社会のように性におおらかな社会でも,性に関するタブーはゼロではありません。江戸時代以前の日本でも事情は同じです。人類社会には程度の差はあっても,性に関するタブーや抑圧が存在しています。

なぜ?・・・・どうして性は抑圧され,タブーとされるのか?わたしはその原因を知りたいと思う。

 

臨床医にとっては常識ですが,原因を知ることは対策を立てる(治療する)ための十分条件でも必要条件でもありません。原因が分かっても対処しようのない事態はあるし,原因が分からなくても,対処法を見つけることは可能です。

それでも原因を探るのは,原因が分かっている方が,原因が分からないままでいるより,正しい対処法が見つかる確率が高くなるからです。

それだけではありません。対策に有効かどうかは別にして,何となく原因が分からないと気が済まないという素朴な願望もあります。

 

そして最後に,性の抑圧をテーマにする場合,理由を問うこと,それ自体が抑圧を弱める働きがあるからです。

人間は,当たり前すぎることについては,「なぜだろう?」という疑問を抱きません。秋に桜が咲けば,だれもが「なぜ?」と思います。だけど,春に桜が咲いても,ほとんどの人は「なぜ?」とは思いません。春に桜が咲くのは,当たり前だから(でも,よく考えると,春になると決まって桜が咲くのは不思議なことかもしれません)

性が抑圧されている,「そんなことは当たり前,常識」と済ますのではなくて,「なぜ?」と問う時,その常識を一歩距離を置いて見直すきっかけになるでしょう。

というわけで,なぜ性が抑圧されてきたのか,その理由について考えてみます。

 

まず,多くの人が思いつくことですが,セックスが出産と関連していること。そして,つい数十年前まで,出産は命懸けの仕事だったことがあります。近代医学によって出産の安全性が確保される以前は,死産も産褥死(母親の死)もありふれた出来事でした。死と隣り合わせの新しい命の誕生,それは人間に畏怖の念を引き起こし,いろいろなタブーを発生させたのでしょう。

ただ,この自然なタブーだけで強烈な性の抑圧を説明できるとは思えません。もし,それだけなら,文明が進み,自然の脅威から解放されるにつれて性の抑圧が弱まってもよいはずですが,実際には,モシ社会のような自然のただ中で暮らす社会より,ある程度文明化された社会(中世〜近代のヨーロッパなど)の方が性の抑圧は強いのです。なぜ,文明化が性の抑圧を強めるのか?

 

この疑問に明快に答えてくれた本や論文にはまだ出会っていません。性に関する本や論文は,それこそ掃いて捨てるほどありますが,なぜ性はタブー視され抑圧されるのかという疑問は,あまりにも基本的すぎるためか,正面から取り上げられることがほとんどありません。その中でも,わたしがそれなりに納得できた説明は,宗教にからめて性の抑圧を説明したものです。

 

宗教が人を信仰に引き込む論理には基本的なパターンがあります。まず,人間に罪の意識,恐怖心を植え付ける。人間は生まれながらに罪人であり,そのままでは地獄に堕ちるしかないと信じ込ませ,恐怖心をあおる。そうしておいて,次に,その運命から逃れたいなら,神を信じなさいと誘導する。この意味で,宗教は「不安産業」の最たるものかもしれません。

とりわけエホバ=アラーを神とするユダヤ教,キリスト教,イスラム教にこの傾向は明瞭です。

では,どうやって人間に罪の意識を植え付けるか?

ここで性が利用されます。性欲は食欲とならぶ人間の基本的な欲望です。そして性には多少なりとも快楽が伴ないます。この快楽を伴なう行為,それをしたいという欲求を,汚らわしいもの,罪深いものと思い込ませることができれば,セックスをするたびに,セックスしたいと思うたびに,人は罪の意識に捕らえられるようになります。こうして,人間を生まれながらの罪人に仕立て上げ,恐怖心を植え付けることができる。

 

およそ,こんな説明です。もっとも,何もないところに宗教がゼロから性の抑圧を作り上げたというより,もともと程度の差はあれ自然発生的に存在していた性の抑圧を宗教が自分の目的(人間に罪の意識を植え付け,恐怖心をあおることで,人間の心をコントロールする)のために組織的・大々的に活用したというのが,実態に近いかと思いますが,わたしにはなかなか説得力のある説明に思えます。

何と言っても,この説明は日本の実態にあっています。

江戸時代まで,少なくとも庶民の間では性におおらかであった日本の社会に厳しい性の抑圧が移入されるのは,明治の「文明開化」,キリスト教を基盤とする欧米の文化が大々的に取り入れられてからです。キリスト教そのものは日本ではあまり普及しませんでしたが,キリスト教に基づく欧米の価値観,社会規範,生活意識(その中に性の抑圧も含まれる)はかなり深く日本人の心に入り込みました。

しかも,日本の明治時代は19世紀後半に当たりますが,19世紀後半は欧米の歴史の中でも性の抑圧が一番厳しかった時代です。その時代の価値観をそっくり輸入したのだから,日本の庶民の性に対する意識は大きく変えられてしまいました。

 

言うまでもないことですが,人間の心をコントロールしようとするのは宗教だけではありません。人の世に支配する者と支配される者がいる限り,支配する者は支配される者の体だけでなく心も支配しようとします。その目的にとって,性の抑圧,そこから生まれる罪の意識,恐怖心は,とても都合の良い道具でしょう。

宗教の権威が弱まっても,性の抑圧がそれに比例して弱まることがなかった理由の一つは,これでしょう。

 

ところで,食欲も性欲と同じように人間の基本的欲求ですが,人間に罪の意識を刷り込むのに,なぜ食欲でなく性欲が選ばれたのか?

食は生存に欠かせないものです。どんな立派な聖人君子でも,食べなければ死んでしまいます。それに対して,セックスは,しなくても死にはしない。実際,性欲を抑えて禁欲生活を続けられる立派な人間も,例外的とはいえ,存在します。だけどほとんどの人間(=凡人)は,快楽に負けて性欲に従ってしまう。意志が強ければ我慢できるはずなのに,それを我慢できないというのは,凡人の罪の意識をさらに強めるでしょう。

この点で,食欲より性欲の方が,人間に罪の意識を刷り込み,恐怖心をあおるという目的に適しています。

 

この宗教がらみの説明のほかに,もう一つ,一応納得できる説明は,禁欲の思想(「ぜいたくは敵だ」という思想)とからめた説明です。

今の日本は飽食の時代と言われますが,食べ物が好きなだけ手に入るようになったのは,人間の長い歴史の中でつい最近のこと,日本で言えばこの半世紀くらいのことです。それまでの何千年,何万年の歴史の中で,大部分の人間は飢えと隣り合わせに生きて来ました。全体としての食料その他の財貨が乏しい時,奪い合いのケンカの中で社会が崩壊するのを防ぐには,欲望を抑えるのを美徳とし,欲望に負けるのを罪とする意識を刷り込む必要がありました。

近代になり,ある程度は飢えから解放されるようになっても,禁欲思想は生き延びます。近代社会は,今に至るまで,経済成長を追求してきました。経済成長のためには,作ったものを全部消費してしまうのではなく,消費をなるべく抑えて,投資に回さないといけないのです。近代になっても,ぜいたくは敵,快楽の追求は罪という意識は消えませんでした(むしろ強化されたかもしれません)

このように快楽の追求が全体として抑圧され,欲望を抑えることが立派なこととされる社会では,性の快楽が抑圧されるのは,自然なことでしょう。

 

これまで述べて来た2つの説明のほかにも,性の抑圧の説明はいくつかありますが,わたしを納得させるものではありません。

 

一例を挙げれば,性を抑圧しないと,人間はみな性の快楽に溺れて,仕事も何もしなくなってしまうという意見。

確かに,世間には「色情狂」と言われる人達がいます。でも,すべての人間がそうではありません。それに,色情狂という精神病理の多くは,性の抑圧のために発生していると推測しています。ちょうど,食の抑圧(痩せ願望)が摂食障害という精神病理を生むように。

 

男女に共通する性の抑圧についてはこれくらいにして,次の疑問。

なぜ,性の抑圧が特に女に対して強く,重くのしかかるのか?

 

性がかなり厳しく抑圧されている社会でも,男の性的放縦は一定の条件付きで(他人の妻を寝取らないなど)黙認されているのに対して,女の性的放縦は例外条件なく厳しく,場合によっては死罪をもって,禁じられていました。この,いわゆる性の二重基準はどうして生まれたのか。

 

これについては,人間の社会が私有財産制であり,しかも財産が母から子供にではなく,父から子供(男子)に受け継がれる父系社会であることが,大きな理由でしょう。

自分の財産(私有財産)を確実に自分の子供に受け継がせること,自分の財産を引き継ぐ子供が本当に自分の子供であって,ほかの男の子供ではないこと。父親にとって,これは大問題です。今のような遺伝子判定技術がなかった頃,父親が,子供を本当に自分の子供だと確信するための唯一の方法は,妻がほかの男と性交しないよう厳重に監視することでした。

夫がほかの女とセックスするのはかまわない。仮にその女が子供を生んでも,それは庶子として認知すればよいことです。逆に,妻がほかの男とセックスして,生まれた子供の父親がどちらなのか(夫なのか,もう一人の男なのか)分からないという事態は絶対に受け入れられない。

こうして,男の性の自由が容認される一方で,女の性は厳重に抑圧されることになります。

 

この父系社会にからめて,もう一つの問題があります。父系社会にあって,女は男の所有物でした。未婚の女は父親の,既婚の女は夫の所有物でした。前章で紹介したモシの2番目の民話にも,妻を夫の所有物と見なす意識が明らかに見られます。

夫にとって妻は,まず自分の子供を産ませるための道具,そして自分の性欲を処理するための道具として,所有物でした。

所有物()が所有者()に無断で勝手な振る舞いをすることは許さない。これも性の二重基準の源でしょう。

 

女を道具,所有物と見なす発想は今の日本の男たちにも,実に根深く残っています。それについて,わたしは印象深い思い出があります。

わたしが高校生の頃,まだ左翼思想が若者の心をとらえ,わたしが通っていた高校には左翼の組織がありました。その組織でメンバーの尊敬を集めていた指導者的人物が,その地域の左翼の学生たちの溜まり場になっていた部屋のことを話している中で,

「いつでも女が余っている・・・・」

という言葉を漏らしました。これを語った時,彼はなんの羞恥心も罪悪感も浮かべず,ごくあたりまえのような口調,表情でした。

「疎外の克服」とか「人間の解放」とか,その指導者がどれほど美しい言葉を語ろうと,「女が余っている」という表現は,彼が女を道具,男の性欲を処理する道具と見なしていることを,わたしに実感させました。

左翼に限ったことではありません。右翼も同様です。むしろ,左翼は建前では「男女平等」とか「女性の解放」をとなえているけど,右翼はそんな建前もないから,もっとひどいかもしれません。

このエピソードは30年以上も前のことだけど,今の男たちの意識がそれからどれほど変化しているか,わたしは悲観的です。

 

昔のエピソードはこれくらいにして,女が所有物であったことに係わって,もう一つ考えてみたいことがあります。

女も男と同等の人格を持つ人間であることが当然のこととして受け入れられたのは,さほど昔の話ではありません。しかし,女が自分の人格を認められず,男の所有物とされていた時代から,強姦は罪として罰せられてきました。

恐らくそれは,他人の所有物を傷つけたから罪とされたのでしょう。女に対する罪ではなく,女の所有者(夫または父親)に対する罪。

実際,所有者は,自分の所有物を傷つけた加害者に憎悪を抱く一方で,被害者であるはずの女(自分の所有物)に対して,その不注意を責め,家族の恥さらしとして非難し,自分(女を所有し支配する者)への裏切りとして糾弾し,時には

「犯されるくらいならなぜその前に死のうとしなかった」

とか

「汚辱を受けながらよくもおめおめ生きておれるな」

という言葉を投げることも珍しくはなかった。

「珍しくはなかった」と過去形で書きましたが,むしろ「珍しくはない」と現在形で書くべきでしょう。現在でも,女を自分の所有物と信じて,このような言葉を吐く男は珍しくないから。

 

女の性を抑圧する上で,自然な生理的な男女の性欲の違い,性の快楽の違いも利用されます。

男の性欲は,ある意味で本能です。ほとんどの男は最初の射精の時から,快楽を感じます。それに対して,女の性欲は文化,学習を必要とする文化と言えます。最初のセックスの時から快楽を感じる女性はあまり多くありません。経験を重ねる中で,セックスの快楽を学習していくことになります。学習の機会を奪えば,性の快楽を女性に対して封印することができます。

もともと,性が抑圧されているのだから,性の学習の機会を奪うのは簡単です。学習の機会を奪われた女性にとって,セックスが快楽とは想像もできない。それは,子供を作るために,あるいは夫の性欲を満たすために,我慢して受け入れるものでしかない。

このように性の快楽を封印された女性(性は罪悪と刷り込まれてもいる女性)にとって,快楽のためにセックスを求める女は,許しがたい罪人であるでしょう。その気持ちの奥底に,自分が手に入れることのできない快楽を手にしている同類への嫉妬が潜んでいるかもしれません。ともあれ,彼女たちは,この罪深い女に向かって,「淫乱」,「あばずれ」といった罵声を男と一緒になって浴びせることになります。

 

夫婦において,妻が性の快楽を知らないのは,その所有者()にとっては都合が良いことでしょう。セックスは苦痛なだけ,子供を作るためあるいは夫の性欲を満たすために仕方なく受け入れる義務,そう思っている限り,妻が浮気をする心配はないから。

ただ,男としては,これは両刃の刃になります。男としては,セックスの相手が,ただ男が果てるのをじっと我慢して待っているより,自分も悦びを表現してくれる方が,男の快感は増すものです(例外はあるかもしれませんが,たいていの男はそうです)

妻には性の快楽を教えたくない。だけど,セックスの相手には性の悦びを表現してほしい。となれば,妻のほかにセックスの相手を探すしかありません。

幸いなことに(),ほとんどの社会で性の二重基準があって,女の性欲は厳しく抑圧する一方で,男の放縦は黙認されているので,これも可能になるわけです。

 

このように男の放縦は黙認されているにしても,表向きは性欲は罪であり「劣情」(劣った情念)という言葉も使われます。

女と男を素直に観察すれば,誰の目にも男の方が性欲(劣情)が強いのは明らかなのですが,男の方が女より優れていると信じ込んでいる男たちにとって(今の日本でも,本音を言わせればかなり多くの男たちがそう信じ込んでいるでしょう),男の方が劣情(劣った情念)が強いのは受け入れがたいことのようです。そのため,男たちは自分たちの劣情の原因を女に押し付けます。女がいるから男に劣情が芽生えるのだ,罪深いのは男に劣情を催させる女の方だ,という理屈です。この理屈も女の性を抑圧するのに利用されます。

男の身勝手,で片付けてよい理屈ですが,困ったことに,女の中にもこの理屈を受け入れてしまっている人達がいます。母親が娘に,肌を露出した衣装は男の劣情を誘うからやめなさいと注意する時,母親は知らず知らずのうちにこの男の身勝手の理屈を娘に押し付けているのです。

もちろん,女が肌を覆ったからといって男の劣情がなくなるわけではありません。むしろ,フェティシズムに関して説明したように,隠せば隠すほど,妄想とフェティシズムがはびこるかもしれません。

実際,アラブ世界では女達は肌を見せることを厳しく抑制されています。だからと言って,アラブの男たちの劣情が少ないわけではありません。日本の男たちに勝るとも劣らない劣情をもてあましています。

 

このような性の二重基準や男の身勝手に対してどう対処するか?いくつかの選択肢があります。

正面切って批判するのも,悪くありません。

話しても分からない愚か者は相手にしないという軽蔑を込めて無視してもいいでしょう。

「馬鹿な生き物」と笑って許してもいいです。

いずれにせよ,男の理屈を真に受けないことです。

 

4:再び,性犯罪について

 

ここで,もう一度,性犯罪について考えてみます。

 

10年ほど前,沖縄の米軍兵が少女を集団暴行した事件がありました。その時の沖縄駐留軍司令官が「彼ら(加害者たち)はそんな犯罪を計画して実行する金と時間があれば売春婦を買えただろう」と漏らして世論のひんしゅくをかったことがあります。

ひんしゅくを買うだけでなく,かなりピントはずれの発言ですが,そのピントはずれぶりが逆に性犯罪の本質を照らしてくれます。彼の言うとおり,単に性欲を満たすためなら,性犯罪よりもっと安全で確実な方法があるのです。加害者を性犯罪に駆り立てる衝動は性欲であるより(それも一つの要因ではあるにせよ),被害者を暴力で屈服させたいという歪んだ征服欲/支配欲,被害者を人間でないモノにおとしめボロボロにしたいという嗜虐欲なのでしょう。

 

この目的にとって,性犯罪はうってつけです。

性犯罪は,体のほかの部分を殴ったり蹴ったりするより,はるかに深く,被害者を傷つけることができます。身体だけでなく,心も。被害者はその後長い間,恐怖にとりつかれます。

加害者と被害者が顔見知りの関係なら(珍しいケースではありません),加害者は被害者の恐怖心を利用して被害者の心を支配し,コントロールすることもできます。

もう一つ付け加えれば,性犯罪は加害者にとって安全な犯罪です。性犯罪の被害者は訴えるのをためらいます。そして,性犯罪は親告罪なので被害届が出されなければ警察は動きません。ほかの暴力事件に比べ,性犯罪は罰せられる危険が少ないのです。

そうであるなら,性欲を抑圧する,あるいは逆に性欲のはけ口を用意する(売春を合法化するとか,売春へのアクセスを容易にするなど)ことは,性犯罪の予防に,無意味とは言わないまでも,あまり有効ではないでしょう。性欲だけでなく,歪んだ征服欲,支配欲,嗜虐欲を制御する必要があるはずです。この点について忘れてならないことがあります。それは,多くの社会で(日本でも)男は暴力を煽るような育てられ方をしているということです。殴られて泣きながら帰ってきた男の子に「殴り返してこい!」と言って家から出す親は珍しくありません。

暴力を振るうことではなく,暴力に負けることが非難される雰囲気,人を暴力で屈服させることが称賛される雰囲気の中で男の子は育ちます。

困ったことに,女たち(の一部)もこの雰囲気作りに一役かってます。息子や弟が殴られて泣いて帰ってきた時,「男のくせに泣くんじゃない,殴り返しておいで!」と言う母親や姉は珍しくないでしょう。

あるいは,暴力への指向を「強さ」と勘違いして,暴力的な男を称賛する女たち。その暴力が,ほかの女に向けられることもあるし,場合によっては自分に向けられることもあるのに・・・・。

 

男,あるいは男だけに限らず女も含め人間は誰しも,心の奥底に,誰かを苛め抜きたい,暴力で屈服させ,破壊したいという凶暴な欲求をひそめているのか,それは何とも断定できない(わたしは,そうかもしれないと思っていますが)。

だけど,そうであっても,と言うよりむしろ,そうであればこそ,心の奥底に秘めた凶暴性をさらに煽り立てることは,しない方がいい。

 

これまでの話は,いうなれば性犯罪の一次予防,性犯罪の発生を減らすにはどうするかという議論でした。暴力をあおり称賛する風潮を抑制することで,性犯罪を減らすことは可能かもしれません。だけど,あらゆる犯罪と同様,性犯罪を根絶することは不可能でしょう。そこで次に考えるのは,二次予防ないし治療です。

二次予防は,仮に性犯罪被害にあっても,深い心の傷を負わないための対策,治療はまさに心の傷を早く治す対策ですが,実際にはこの2つは入り交じっています。

 

性犯罪被害が単に性器の外傷にとどまらず,心の傷になってしまうのは,繰り返しになりますが,性の抑圧のため,セックスを汚らわしいもの,そして(ここが一番重要なのですが)セックスした女を汚らわしい存在とみなす意識を刷り込まれているためです。

であれば,性犯罪被害による心の傷を軽くするには,そのような性に関するマイナスイメージを植え付けないようにすること,植え付けられてしまっている場合には,そこから抜け出すようにすること,これが二次予防の基本です。

実際,臨床の場で患者さんを診ていても,性に対して否定的なイメージをもっている女性が性犯罪被害を受けた場合の方が,性について大らかな気持ちでいる女性が被害を受けた場合に比べ,深い心の傷を負うことが多いし,回復にも時間がかかります。

それとからんで,もう一つ,性犯罪被害の治療に当たっていて感じるのは,女であることに負い目をもっている人,女に生まれて損したという意識が強い人の方が,性犯罪被害を受けた時の心の傷が深いようです。

これは,悪循環を作ります。性犯罪被害者は「女だからこんな目に遭うんだ」という思いのため,ますます女であることをマイナスにとらえるようになり,それが心の傷の回復を妨げます。そして,性の二重基準,男の性的放縦は許され,むしろ武勇伝とされるのに,女の性的放縦は手厳しく罵倒されるという二重基準も,女であることを負い目とする原因の一つになっているので,性犯罪被害の心の傷と,性の抑圧と,女であることをマイナスにとらえる気持ちは,互いに絡み合って,精神状態を悪化させます。

性の抑圧はほとんど常に女の性の抑圧であることを考えれば,性の抑圧から解放されるのと,女であることを恥じないことは,深く強く結び付いている,ほとんど同じことと言えるでしょう。

 

時として,最近の性の解放が性犯罪を誘発しているという議論があります。

今以上に性が抑圧されていた時代にも性犯罪はいくらでも発生していた(そして,多くの被害者が泣き寝入りしていた)という単純な事実で簡単に反論できる議論ですが,何となく引き込まれそうな議論です。特に,性犯罪被害者の中に,この議論に引き込まれてしまう人がいます。

だけど,冷静に考えれば,性を抑圧すること,とりわけ女の性を抑圧し,女であることに否定的な気持ちを植え付けることは,性犯罪被害者にとってもプラスにはなりません。

 

治療についても,これまで述べたことがほとんどそっくり当てはまります。ただ,治療では,加害者への感情をどう処理するかという問題が加わります。

ほかのあらゆる犯罪と同じように,性犯罪の被害者も加害者に対して,激しい怒りや憎しみを抱きます。それは当然です。しかし,ほかの犯罪と違って,性犯罪の被害者は,この感情をストレートに表現できないことが多いのです。

まず,被害を受けた事実そのものを話せないことが多いから,加害者に対する感情を表現しようがありません。被害を訴えた場合も,

「一人で夜道を歩いていたからだ」

とか

「露出の多い服装をしていたからだ」

など,加害者の犯罪行為を責めるより被害者の落ち度を責める言葉の嵐に見舞われることがあります。

ほかの犯罪ではほとんど有り得ないことなのですが,性犯罪に限っては,加害者よりも被害者を責める言葉がまかり通ります。女の性の抑圧がその背景にあるのは間違いないのですが,このような事情のため,性犯罪被害者は,自分の怒りや憎しみを押し殺すことになってしまいます。

これは,心の傷の治療にとって,とても不都合なことです。

そのため,治療の第1段階として,被害者に「自分は加害者を怒り,憎んでいいのだ。それは当たり前のことなのだ」と納得させ,思いきり感情を発散させる必要があります。

被害者が怒りや憎しみを思う存分発散させたら,第2段階に入ります。第2段階の課題は,怒りや憎しみを乗り越えることです。

なぜ,乗り越えなければならないか?それは,怒りや憎しみは人を幸せにしないからです。そして,加害者への怒りや憎しみにとらわれている限り,被害者は加害者に心を束縛され続けるからです。

怒りや憎しみは,言うなれば自分と同等の人間あるいは自分より上位の人間に向ける感情です。性犯罪の加害者に,そのような感情は本来ふさわしくありません。性犯罪の加害者にふさわしいのは,軽蔑,冷淡な軽蔑です。

性犯罪の加害者とは,歪んだ征服欲,支配欲,嗜虐欲を抑制できない人間,その欲望を満たすために自分より弱い相手を選び,しかもその相手が恐らく被害を泣き寝入りするだろう,自分は追訴されないだろうと見込みを付けて,暴力をふるう人間です。そういう人間には,怒りや憎しみよりも,軽蔑こそがふさわしい。

被害者が心から納得して,そう思えるようになった時,加害者に対する怒りや憎しみを乗り越え,冷淡な軽蔑のまなざしをもって加害者を見下すようになった時,性犯罪被害の心の傷の治療は山を越えます。

それとほぼ同じ頃,女であることの負い目も,自分の性を卑下する気持ちも,解消されることが多いです。

 

ここで,最初に提示した2番目の疑問,「なぜ,わたしは傷つかなかったのか?」に,新たな説明を付け加えることができそうです。

 

もともと,わたしが生まれ育った時代,環境が,今よりも性におおらかでした。そういう中でさらに,わたし自身が性を隠すべきものとする世間の常識に疑問をもっていました。こういう事情がわたしを守ってくれたのだろうという推測は既に述べました。

さらにもう一つ;

あの場面で,わたしは,わたしの目の前でペニスをしごいている男を,かなり冷静に見ていました。射精の瞬間の男の表情を見ながら,「男の性欲って,こういうものなんだ」と観察していました。特に恐怖も憎しみも感じずに。軽蔑も,感じていなかったようです。夕立や突風のような自然現象を見るような気持ち,今から振り返るとそれが一番近いと思えます。

 

5:タブーの向こうに

 

これまで,性犯罪被害とその予防,治療を軸に性について論じてきました。

性をタブーとしないこと,性の抑圧,とりわけ女の性の抑圧を取り除くことがキーワードでした。

 

時おり,

「今どき,性のタブーなど消滅している」

とか

「性はもう十分に解放されている」

という議論を目にしますが,今でも多くの性犯罪被害者が,自分の被害を訴えることができず,心に深い傷をおわされている現実を見れば,机上の空論と一蹴してよいでしょう。

それにしても,この30年あるいは50年くらい,「一面では」性の解放が進んだことは事実です。ただ,これが新たな抑圧というか強迫観念を生み出しています。「新たな」と書きましたが,昔からあった強迫観念が露骨に意識されるようになったと言う方が実態に近いかも知れません。

 

「セックスに強くなければ男じゃない」

「セックスで女をいかせるのが男の勲章」

というような強迫観念。これは,強くなければ男じゃない,力こそが男の勲章という,昔ながらの観念(マッチョ信仰とでも言えるでしょう)の一部をなすもので,性が抑圧されていた時にも,表向きの建前の裏側で語り継がれてきたことですが,近年の性の「解放」に伴って,表舞台に登場しました。

女には,このマッチョ信仰の裏返しのように,

「セックスでいく(いかされる)のが本物の女」

という強迫観念が押し付けられます。

 

強迫観念は恐怖症を発生させます。性に関するこの強迫観念は,男には不能恐怖症(性不能だったらどうしようという恐怖),女には不感症恐怖症(感じなかったどうしようという恐怖)を引き起こしています。これはこれで,性の抑圧とは方向が違うけど,性に束縛されている状態です。女にとっては二重に束縛されている状態かもしれません。

感じなければ「不感症」と非難され,感じれば「淫乱」と罵られる。

 

セックスは人生の楽しみではあります。だけど,人生の唯一の楽しみではないし,最高の楽しみでもないでしょう(多くの人にとって)。仮にセックスを楽しめなくても,人生にはほかにも楽しいことはたくさんあります。

女をいかせることだけが男の値打ちではないし,セックスでいくことだけが女の真価でもない。

 

ここでもう一度,セックスを美食(グルメ)にたとえましょう。

 

美食は人生の楽しみの一つです。だけど人生の唯一の楽しみではないし,最高の楽しみでもないでしょう。美食が好きだからといって,あるいは,美食に興味がないからといって,非難されることもないし称賛されることもない。

美食にはぜんぜん興味がない人もいれば,美食命,美食こそ我が人生という人もいる。この両極端の間に,それぞれの程度に美食を愛する多くの人がいるのでしょう。

セックスもそれと同じでよいはずです。

セックスにぜんぜん興味がない人もいれば,セックス命,セックスこそ我が人生という人もいる。この両極端の間に,それぞれの程度にセックスを愛する多くの人がいる,これで何の問題もないはずです。

 

何の問題もないはずですが,いくつか説明を補っておく必要がありそうです。

 

「タブーであること,抑圧されていることが,セックスの快楽の源なのだ。性の抑圧が消えうせたら,セックスは味も素っ気もない,ただの本能の行為になってしまう」

と言う人がいます。こう言う人の多くは男です。性の抑圧の被害はほとんど女に集中するから,このようなことが言えるのでしょう。

現実に,性の抑圧は消えうせていないから,性の抑圧がなくなったらどうなるかは想像するしかありません。ここでも美食に基づいて想像をめぐらしてみましょう。

今の世の中,決して美食は抑圧されていないはずです。それでも,美食の快楽は確実に存在しています。タブー,抑圧は快楽の必定条件ではない。セックスについても同じことが言えるだろうと,わたしは想像しています。

 

もちろん,人さまざまだから,セックスに興味がない人がいても不思議ではありません。

その人の自然な成長の中でセックスに関心を持つことがなかったのなら,そして,それで特に困ることがないのなら,それに何か口出しするのは,余計なおせっかいです。

ただ実際には,心の傷(子供のころの性的虐待や大人になってからの性犯罪被害など)がからんでいることが多いのです。セックスに係わって心を傷つけられたから,セックスに興味がない,というよりセックスを拒否してしまう。そういうケースが珍しくありません。

こういう場合は,性の快楽だけでなく人生のその他の場面でもいろんな不都合が生じていることが多いものです。そして,単にセックスのためだけでなく,人生全体を充実させるために,過去の心の傷を治療する方が本人にとってプラスになるはずです。

 

性的虐待や性犯罪被害ほど悲劇的でなくても,子供の頃から,性について否定的なイメージを植え付けられたために,性に無関心,性に係わる行為や快楽を拒否するケースも多いです。こういうケースにも「治療」が必要かどうか,議論が分かれるところでしょう。

わたしは,「治療」とは言わないまでも,性に対する拒否反応を和らげたいと思います。そう思う理由の一つは,既に述べたように,性とりわけ女の性について否定的なイメージをもっている女性ほど,不幸にして性犯罪に巻き込まれた場合,深い心の傷を負うことが多いからです。いうなれば性犯罪被害の二次予防のためです。

ただし,正直に言えば,これは2番目の理由です。1番の理由は,自分の意志ではなく,親や周りの大人たちあるいは世間の雰囲気に「洗脳」されて,性の喜びを拒否するのは,人として生まれてもったいないなあという気持ちです。

 

女性のセックスについて述べておきたいもう一つのこと;

以前にも書いたことですが,男にとって性の快楽はほとんど本能です。男は最初の射精の時から快感を覚えます。

一方,女にとって性の快楽はむしろ文化です。快楽を覚えるようになるには,多少の経験と学習が必要です。はたして,それほどの手間ひまかける値打ちがあるのか?

この疑問に絶対正しい答えはないでしょう。「人によって」としか答えようがない。ただ,わたしの知る範囲では,わたしが知っている女性たちを観察した範囲では,それだけの手間ひまかける値打ちはありそうです。

 

言うなれば,女にとっての性の快楽は,砂糖ではなくコーヒーの味です。どういうことかと言えば;

砂糖の甘さをおいしいと思うのは,ほとんど人間の本能です。ごく幼い子供でも,赤ん坊でも,砂糖,あるいは砂糖に代表される甘いものはおいしいと感じます。だけど,コーヒーの苦味をおいしいと思う子供はいないでしょう。あの苦味の中においしさを発見するには,ある程度の訓練,味覚の訓練が必要です。コーヒーの味が分かるようになってから振り返れば,その程度の訓練は十分にペイする,それだけの値打ちがあると思えるでしょう。

 

もちろんこれは一般論であって,コーヒーが嫌いな人がいても不思議ではありません。性についてある程度の経験を経た上で,「何だ,こんなものつまらない」と思う女性がいても不思議ではないように。

 

性犯罪被害から始めたこの文章,ピルの話でしめくくりましょう。

 

ピル,経口避妊薬のことです。

ヨーロッパやアメリカではもう数十年にわたって使われており,効果も安全性も確認されているピルが日本で認可されたのはやっと10年前のこと。

この10年で,ピルは「普及した」とは言えません。日本の女性でピルを規則的に使っているのは3%くらいという統計があります。ヨーロッパやアメリカでは2040%です。

なぜ,日本の女性はピルを嫌う(あるいは恐れる)のか?・・・・いろんな理由はありますが,一番の理由は副作用が心配だということです。

日本では,ピルの効果よりも副作用に関する情報の方が圧倒的に多く流通しています。この状況に関してわたしは「男たちの陰謀」を想像しています。何のこと?と思うでしょうね。

 

ピルによって女たちは初めて,自分の意志で避妊できるようになりました(コンドームは男にお願いしないといけません。拒否されたらどうするか・・・・)。ピルによって,女たちは妊娠を心配せずにセックスできるようになりました。これを快く思わない男たち,女を男に従属させたい,女を妊娠の恐怖に縛り付けておきたい男たちはたくさんいます。本音を言わせれば,男の半分以上はそうかもしれません。そういう男たちが,ピルに対するネガティブ・キャンペーンを裏で操っているのだろうと,わたしはまじめに想像しています。

 

想像はともかく,ピルが認可に至る事実を説明しましょう。

 

ピルを日本でも認可するようにという要求は1970年代からありました。実際に認可されたのは1999年。その間,20年以上にわたって認可を拒否し続けてきた厚生省(現在の厚生労働省)が拒否の口実としたのが「副作用」でした。マスメディアもこの間,ほとんどピルの副作用情報だけを流し続けました。

しかしピルを認可しない本当の理由は副作用ではありません。

「女が妊娠を心配せずにセックスできるようになると性風俗が乱れる」

というのが本音でした。この本音は決して秘密ではなく,ほぼ公然と語られていたのです(わたしの年代の人間はよく記憶しています)

ところで,このように性風俗の乱れを心配する人のほとんどは,男の女遊び(不倫であれ買春であれ)を非難することはなかった。

女のセックスは抑圧し,男のセックスは黙認する。性の二重基準そのものです。

 

20年以上認可を拒否されていたピルが認可されたのは,バイアグラがきっかけです。

バイアグラは,ご存じのとおり,勃起不能治療薬です。アメリカで発売と同時にブームを巻き起こし,日本の男たちもたくさん個人輸入しました。その数があまりに多いので,医者のコントロールを外れた個人輸入による不適切使用,それによる事故を恐れて,厚生省は通常の薬品認可手順を簡略化して大急ぎでこの薬を認可したのです。

勃起不能治療薬は,男がセックスの快楽を求め続けるのを可能にする薬です。こういう薬を,通常の薬品認可手順を簡略化してまで,急いで認可しておきながら,女が妊娠を心配せずにセックスできるようにする薬(ピル)を認可しないのは,あまりに片手落ち,不公平という抗議の声が巻き起こり,その声に押されて,厚生省はやっとピルを認可したのです。

 

こういう経緯を知っていると,ピルについて副作用情報ばかりが流通している現状の裏に,何らかの意図を勘ぐりたくなります。

そして,ピルが認可されるまでの紆余曲折は,日本の女の性をとりまく状況の縮図に思えます。