真剣な表情。
「兄者〜!一生のお願いだから、なっ!」
午後11時。
既にベッドの中で就寝体勢の僕の腹にまたがり、必死に懇願するのが弟の稜。
なんでも、今回の期末でも毎回恒例の赤を取ってしまったらしく、明日までにレポートを出さないと留年決定がほぼ確実になるという。
もちろん、レポート提出を言い渡されたのは一週間くらい前で、期限一日前の今日までサボリにサボった稜が悪い。
「なんで一週間もあったのに、やんなかったわけ?」
そう責めの言葉を浴びせると、虚無をつかれたように稜は唸った。
「…だって、わかんねーんだもん」
言い訳にすらなってないと呆れると、ぐわっとすごい勢いで首元に抱きついてくる。
「頼むから、マジで!俺、留年だけはしたくねー!」
誰だって、留年なんかしたくないよ。
そう心の中でツッコミを入れる。
「もう…来年になって、稜が後輩なんてやだからね」
ベッドに手をついて、身体を起こす。
「サンキュー、兄者!ちょー愛してるっ」
首に絡みついた腕の力が強まる。
苦しいと声を漏らすと、稜は慌ててはなれていった。
「で。まず、何を教えればいいの?」
部屋の真ん中に位置している簡易的なテーブルの前に移動し、早速勉強の話題をふる。
「全部ナゾなんだけど、強いていえば数学とか」
普通、一個くらい得意教科とかあってもいいと思うんだけど、稜の場合こわいくらい平均的に全部の教科ができない。
同じ腹から生まれてきたのに、どうしてこうも違うものか。
「数学ね。僕もあんまり得意じゃないけど…」
「兄者の"あんまり得意じゃない"=俺の"フツー"だから平気だって」
何を根拠に平気と言ってるのかはいまいち謎だが、とりあえず僕は稜に数学を教えることになった。
「んー。これ、なんつーんだっけ?」
「…もしかしなくても、分数のこといってる?」
「あーそれそれ。分数って、計算どーやんだっけ?」
分数もわからないのによく高校受かったよなあ…と身内ながらに内心思いつつ、稜に計算を教えようとすると、ふとテーブルの上にあった稜のケータイが着信音と共に震えた。
「これ、なんの曲?」
低音が不気味に鳴り続けるこの曲を、僕は知らなかった。
…稜って、音楽の趣味悪いかも。
「魔のテーマとかいうやつ。ちなみにこれ、榛名センパイ専用着メロな」
どことなく悪戯っぽくはにかんだ稜が、電話にでる。
稜の言葉に微笑しながら、その様子を眺めていた。
「もしもーし。こんな時間に、わざわざドーモっす」
だらだらした口調は、とても先輩相手とは思えないけど、まあそれほど二人の仲がいいと言うことなんだろう。
『先輩相手に、ずいぶんなご挨拶どーも。つーかお前、今暇?』
稜のケータイから榛名さんの声がなんとなく漏れてきて、二人の会話が聞こえてしまう。
すこし申し訳ない気もするけど、聞こえてきちゃうんだから…しょうがないよね。
「全然、暇じゃないっすよ。俺が赤取って大変なの知ってるくせに、そーゆうこといーますかフツー…」
『それは、お前がバカなのが悪ィ』
榛名さんもあんなきれいな顔して、けっこう言うんだな…と思ったり。
「俺、現在進行形でマイスイートハニーに数学教えてもらってるんで、またあとでかけなおしますよ」
『ハニーって、どうせ双子の片割れのほうだろ。…このブラコンが』
「ブラコンじゃねーの!超そーしそーあいだから!」
今、ぜったい「相思相愛」の部分ひらがなでいったな…。
というか、こんなこっぱずかしいことをセンパイ相手に毎度話してるんだろうか。
たまに会ったときに僕を見る榛名さんの目線が、時たま刺すようにいたい気がするのは…もしかしなくても、そのせい?
『はいはい。つーか数学って、一昨日俺が教えてやっただろうが』
「あー。それは、小テストの課題」
『…お前は、課題マニアか?』
漫才のようなやり取りに思わず笑いそうになるのをこらえつつ、稜が開いた教科書をパラパラとめくった。
やっぱり、最初は簡単な問題を解かせて、基礎を叩き込むしかないかな。
「俺、たぶん数学のヤツとは一生わかりあえねーと思います」
『分かり合ってやれよ。…それとも、またアレするか』
話し方の語尾にどことなく色気を感じさせる榛名さんの低音が、囁くような口調でいった。
それを聞いた稜が、びくっと肩を震わせながら慌てて返答する。
「む、無理!あんなの…何度もされたら、俺がもたねーっすよ」
…な、なになにこの話の展開は。
『そうでもしねえと、お前…いつまでたっても、数学できねえだろ』
「でも…、あんなスパルタなの・・俺…やだ、し」
『何言ってんだ。最後の方は、まんざらでもなかったくせに』
気付けば、教科書をめくる指が完全に止まってしまっていた。
聴覚は、ただ二人の電話越しでの会話に集中している。
…こんな稜を疑うみたいなことしたくないけど、これは…これは…!!
疑うざるを得ないでしょ?
「…もー。からかってるんすか」
『知ってんだろ。…俺は、お前を苛めんのが趣味なんだよ』
「すげー悪しゅ…」
稜の手からケータイを強奪して、そのまま通話を遮断した。
当の稜は、ただポカンとして僕をみている。
「あ、兄者…?」
「ねえ、稜」
あぐらをかいた稜に詰め寄って、ジッと真剣な眼差しでみつめた。
ふだんは小生意気そうな稜の吊り目も、今はその驚きによって見開かれている。
「この際だから聞くけど、榛名さんのこと…どう思ってるの?」
いきなりと言っていいほどの唐突な質問に、その場の空気が止まったように静かになった。
そして、いまいち僕のしたいことが理解できないといった表情で、稜は答える。
「どうって?超ドS級のムカつくセンパイ、とか」
「ドSって、ドSなことされたのっ?」
さらに顔を近づけて、必死に問い詰める。
そんな・・・・ドSなことって・・?
「――花螢。ここの問い、また間違えてる」
「・・っだッて、こ・・んなっ」
「俺に挿れられたままじゃ、集中できねえってか」
「っあ、あ・・ッ!動、くな・・っ」
「センパイに向かって、なんて口利いてんだよ。後ろの口共々、調教が必要だな」
「ん、ぅあ・・ッセンパぃ、や、だ・・・っ」
・・・・・・・やばいやばい。
一瞬、思考が危ないほうに行ってた。
元に戻して、っと。
「あのひとは、俺に対する接し方がつねにドSなんだよ。一昨日だって、」
ドSだのムカつくだの言いながらも、なんやかんやいって一緒にいるじゃないか。
もしかして、稜って・・・・Mなのかな。
「お前、バカだけど・・ココの締まりだけは、上出来だな」
「ッン、そんな・・・ひどくし、たらッ・・ぁあ・・!」
「痛いくらいが気持ちいんだろ。・・変態、」
「っ、あ・・!も、っと・・ッ」
「もっと、なんだよ。もっと、お仕置きしてほしいのか?」
「ん、は・・あッ・・・あ、ぁ!」
・・・・ああ。なんか妄想と現実の差がつかなくなってきた。
おちつけ、僕。頑張れ、僕。
「一昨日だって、俺が問題5個間違えたらパフェ奢りとかゆーワケわかんねーペナルティ押し付けるしさー。マジもっと後輩を大切にしろってーの。兄者もそう思わねー?」
「っえ、あ、うん・・そうだね。やっぱり、お仕置きはよくないよね」
「お、お仕置きって・・・・おーい、兄者さーん?どっか飛んでってねー?俺がバッチリ受け止めてやるから、戻ってこーい?」
目の前で手のひらをひらひらと振られ、ようやく自分が我にかえれた気がした。
僕ってば、今ものすごく的の外れた返事をしてた気がするけど、きっと勘違いだろう。
・・・・・きっとね。
「ホイッ、受け止めたv」
「っちょ、何抱きついて・・!」
なんとなく思考回路が停止寸前になってた僕の隙を見計らってか、稜がいきなり真正面から抱きついてきた、のだ。
この小動物的欲求心の塊め・・。
「だーかーらぁー!フワフワどっかいっちゃってた兄者を、俺がこーやって愛のホールディングをだなー!」
「・・・・ばか」
なんか、うまいこと稜に丸め込まれたような気がしないでもないけど、僕は大人しく抱かれてやることにした。
・・べつに、深い意味なんてとくにないけど。
「・・・なー、兄者」
僕の肩に顎をのせて、呼びかけてくる。
どこか甘ったれたような口調に、なんとなく不信感をおぼえた。
こういうときの稜は、ろくなことを言わない。(今までの経験上)
「何?」
それでも、なんてことのないように応対した。
「さっきさ。榛名センパイがどーのって聞いてきたじゃん?」
ギクリ。
そんな擬音が僕から漏れてないか不安になる。
さっそく核心を突いてくるなんて・・稜のくせに、なかなかやりおる・・。
「う、うん」
「それって、もしかして」
そこで、稜が一呼吸おく。
・・・・まさか、「僕が榛名さんに嫉妬してる」なんて言いだすんじゃない、よね?
べつに、僕は全然嫉妬なんてしてないし、稜と榛名さんが必要以上にベタベタイチャイチャしてたって、ちっとも気になんかならないんだから!
と、稜のその先の言葉にそれなりの覚悟を決めていると。
「もしかして、兄者って榛名センパイのこと狙ってる!?」
てん、てん、てん・・・。
しーんとした空気が、ひたすらそんな音を醸し出している気がした。
僕が、榛名さんを狙ってる・・?
どうしたら、そんな解釈になるんだよ!
やっぱり、稜ってバカ?真のバカって奴なの?
ひたすら身体の奥から出てこようとするため息を飲み込みながら、僕は誤解を解くべく口を開いた。
「そんなわけないでしょ」
「じゃあ、なんでいきなりあんなこと聞いたんだよっ」
抱きついていた身体を引き剥がして、稜は僕の顔をジッと睨むように見つめてくる。
その表情はいたって真剣そのもので、ふざけているわけでも、果てやワザと言っているわけでもないのだと、改めて実感させられた。
・・バカもある程度の次元を超えると、いっそのこと可愛く見えてくるのは気のせい?
もしかして、榛名さんも・・・こんな感じなの、かな?
「べつに・・・意味なんてないよ、」
―――そんなの、言えるわけがない。
もし、稜がそれを察することができるようになったら、・・もうちょっと、僕らの関係も進歩したものになるのかな。
まあ、そんな日がいつくるかなんて、まだわからないけど。
「はぐらかすなよなー!言えってば、なあー!兄者ーっ」
僕の態度に納得できないらしい稜が、相変わらずの真剣顔で詰め寄ってくる。
思った以上に理解力に乏しい弟に、これからどうやって数学を教えたらよいのかと、頭を悩ませてしまう僕だった。
**END**