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- 序論(Introduction)
- 1914年6月28日にハンガリー帝国(現オーストリア)皇帝の継承者フランツ・フェルディナント大公夫妻が当時オーストリア領のサラエボ(現ボスニア・ヘルツェゴビナ領)を視察中、セルビア人の青年ガブリロ・プリンツィプによって暗殺されたサラエボ事件をきっかけとして第一次世界大戦が勃発します。
ドイツとオーストリア・ハンガリー帝国が英国、フランス、ロシアと戦い、戦争の結果、ドイツ帝国、オーストリア・ハンガリー帝国、オスマン帝国、そして内戦によりロシア帝国の4つの帝国が分解し、ホーエンツォレルン家、ハプスブルク家、オスマン家そしてロマノフ家の4つの王家は没落します。
当初この戦争は遠くの出来事のように思えましたが、米国の経済と政治は多大な影響を受けることとなります。1915年までに、それまで軽度の不況下にあった米国の産業が、西側同盟諸国からの軍需品受注で再び活況を取り戻していました。
1919年には、パリ講和会議が始まり、ドイツでは、すべての王侯貴族が追放され、ベルサイユ条約により巨額の賠償金を課せられたために激しいインフレーションが引き起こされます。さらに条約によりドイツ人が居住する領土を割譲させられたことで、ルール問題、ズデーテン問題、ポーランド回廊問題が発生します。これらの問題は第2次世界大戦の直接の原因となります。
ヨーロッパが主戦場となりましたが、戦闘はアフリカ、中東、東アジア、太平洋、大西洋、インド洋にもおよび世界の大多数の国が参戦しました。 - 歴史(History)
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- 世界恐慌
- 1920年代のアメリカは、第一次世界大戦の輸出によって発展した重工業、自動車工業の躍進、ヨーロッパへの輸出の増加などによって「永遠の繁栄」と呼ばれる好景気が続いていました。しかし、農業の機械化による過剰生産、ヨーロッパの復興、異常気象などから農業恐慌となり、農業不況に加えて、鉄道や石炭産業も不振になっていたにもかかわらず好景気にあおられ、アメリカの株式市場は1924年中頃から投機を中心とした資金の流入によって上昇を続けます。
- 1929年10月24日10時25分、ゼネラルモーターズの株価が80セント下落したのを発端に、売りが膨らみ株式市場は11時頃までに売り一色となり、株価は大暴落します。 その後も暴落が続き、投資家は株の損失を埋めるためあらゆる分野から資金を引き上げたため、大きな恐慌となり自律的回復の手だてができないほど困難でした。
- 1929年当時の失業者の数は、155万人で労働者人口の3.2%でした。
- 1930年、デトロイトのフォードの工場では、12万8000人いた従業員が3万7000人に激減し、アメリカの失業者数は434万人、失業率は8.7%になります。
- 1932年、失業者数は、1200万人を超え、失業率は24%になります。これは4人に1人は失業者ということになります。
- 1932年の大統領選挙で民主党のルーズベルトが、472対59の大差で新大統領に当選します。
- 経済政策
- アメリカの政策
- フランクリン・D・ルーズベルトは1933年、世界恐慌に対し、ニューディール(New Deal)政策と呼ばれる、政府による経済への介入を行ないました。 緊急銀行救済法、テネシー川流域開発公社などの公共事業、民間資源保存局による大規模雇用、全国産業復興法による労働時間の短縮や超越論的賃金の確保、農業調整法による生産量の調整などの政策を行いましたが、成果が上がらず、労使双方から反発もおきるようになります。
- イギリス、フランスの政策
- 世界恐慌に対する対応として、イギリスとフランスは、関税によるブロック経済体制を築きこれを乗り越えようとしました。
- イタリアの政策
- 第1次世界大戦後のイタリアでは、その戦費を外債に依存したため財政難にみまわれ大量の失業者が生まれました。物資不足から激しいインフレーションとなり民衆の生活は圧迫され、労働者のストライキや農民の小作争議へとひろがりました。 その中、イタリアの政治家ムッソリーニによる、国家ファシスト党による政治体制が1922年から1942年まで続きます。
- ドイツの政策
- ドイツでは1933年、ベルサイユ体制の打破とナチズムを掲げるアドルフ・ヒトラーが首相に就任、翌年には総統に就任し独裁的権力を掌握します。ヒトラーは経済的には軍備増強と公共事業により総需要を喚起し世界恐慌を克服します。国際関係では、1933年に国際連盟を脱退、1935年にはベルサイユ条約の軍事条項を破棄して再軍備を宣言、1936年にはベルサイユ条約で軍隊の駐留が禁止されていたラインラント地方に軍隊を進駐させます。また、ファシスト・イタリアと関係を結び、同様に国際連盟を脱退していた日本との間にも日独防共協定を結びます。その後これらの3国の関係は日独伊三国軍事同盟へと発展してゆきます。
- 日本の政策
- 日本では、関東大震災の震災手形が膨大な不良債権となり、昭和金融恐慌と呼ばれました。苦境からの脱出を図るために大陸進出を推進しようとします。1931年には関東軍の謀略により柳条湖事件を契機に満州事変が勃発し、1933年には国際連盟を脱退します。1937年に盧溝橋事件が発生し日中戦争(支那事変)が勃発します。米英は日本の行動に反発し、日本は次第にナチス・ドイツへの接近を強めていきます。
- アメリカの政策
- 第2次世界大戦
- 1938年3月、ヒトラーは、ドイツ周辺の国々におけるドイツ系住民の処遇問題に対しては民族自決主義を主張し、ドイツ人居住地域のドイツへの併合を要求しました。そしてドイツは軍事的恫喝を背景にしてオーストリアを併合します。
- 1938年9月に開催されたミュンヘン会談で、ネビィル・チェンバレン英首相とエドアール・ダラディエ仏首相は、ヒトラーの要求が最終的なものであることを確認して妥協します。チェコスロバキアは解体され、ドイツはズデーテン地方を獲得しチェコを保護国とします。
- 1938年10月にはベルサイユ条約によりポーランドに割譲されたポーランド回廊の回復に着手します。英仏は、急速にドイツとの対決姿勢をみせることになります。
- 1939年、ドイツはドイツ・ポーランド不可侵条約を破棄し、反共のナチス・ドイツとは相容れないであろうソビエト連邦と独ソ不可侵条約を締結します。ポーランド回廊に関する要求を頑として拒否し続けるポーランド政府に対して、ヒトラーは武力による問題解決を決断します。
- 1939年9月1日、ドイツ軍のポーランドへの進攻が開始され、1939年9月3日英仏両国もドイツへ宣戦を布告し、第2次世界大戦が始まります。 ヨーロッパで始まった第2次大戦においてドイツ軍が勝利を収めれば、アメリカの安全保障に脅威を与える事態になります。しかも1946年6月にはドイツがフランスを占領したため、不利な戦況に追い込まれたイギリスを援助するために、アメリカは早急にヨーロッパに参戦する必要がありました。
- 戦争挑発計画
ワシントンの海軍情報部極東課長をしていたアーサー・マッカラムが、1940年(昭和15)10月7日に立案し、承認された計画「太平洋における状況の概要と合衆国が取るべき行動の勧告(Estimate of the Situation in the Pacific and Recommendations for Action by the United States)」は、フランクリン・ルーズベルト大統領の最も信頼する顧問に宛てて作成されたもので、日本を挑発することにより、アメリカに対して戦争行為をするように計画したものでした。- 戦争挑発計画の実行T
アメリカは マッカラムの戦争挑発計画に従い1941年(昭和16年)7月25日に、イギリス、オランダと共謀して、アメリカ国内の日本資産1億3千万ドルを凍結し、貿易、金融関係を全て断絶する経済封鎖を実施し、これにフランス、カナダ、ポルトガルも同調しました。資産凍結は国が外国などの資産の処分、移動を禁止することで、特に戦時において自国内にある敵国政府、敵国籍の会社、敵国人の資産を接収または管理することをいい、これは開戦を意図した挑発行為そのものと言えます。 - 戦争挑発計画の実行U
更にアメリカ大統領ルーズベルトは1941年(昭和16年)8月1日にイギリス、オランダと協力して 石油などの対日輸出禁止の追い打ちを掛けました。当時の日本の石油自給率は5%で、95%を対日経済凍結地域からの輸入に頼っていたため、国家としての存亡の危機に見舞われました。 - レインボー5(Rainbow 5)
1941年9月27日に、日、独、伊の3国同盟が成立し3国との戦争が予想される事態になると、アメリカは「レインボー5(Rainbow 5)」と呼ばれる戦略をとります。それは、日米開戦の場合に取るべきアメリカの作戦はアメリカ艦隊により日本周辺の海上封鎖をおこない、海外からの物資の輸入を絶ち、沖縄を占領し、空襲により日本国内の生産設備を破壊して継戦能力を失わせ、本土を孤立させて降伏させるというものでした。そのためのアメリカはハワイとフィリピンのマニラ(スービック湾)に海軍基地を建設し、海軍力の増強を図ります。 - 日米交渉
1941年11月20日、日本側は以下の内容の乙案を提示します。- 日米はフランス領インドシナ以外の諸地域に武力進出を行わない。
- 日米はオランダ領東インドにおいて石油や錫などの必要資源を得られるよう協力する。
- アメリカは年間100万キロリットルの航空揮発油を対日供給する。
- ハル・ノート(Hull note)
1941年(昭和16年)11月26日にアメリカ側から日本側にハル・ノートが提示されます。ハル・ノートは正式には、合衆国と日本の間の協定で提案された基礎の概要(Outline of proposed Basis for Agreement Between The United States and Japan)。日米交渉のアメリカ側の当事者、国務長官コーデル・ハル(Cordell Hull)の名前からこのように呼ばれています。- アメリカと日本は、英中日蘭蘇泰米間の包括的な不可侵条約を提案する。
- 日本のフランス領インドシナからの即時撤兵。
- 日本の中国からの即時撤兵。
- 日米が(日本が支援していた汪兆銘政権を否認して)アメリカの支援する中国国民党政府以外のいかなる政府をも認めない。
- 日本の中国大陸における海外租界と関連権益全ての放棄。
- 通商条約再締結のための交渉の開始。
- アメリカによる日本の資産凍結を解除、日本によるアメリカ資産の凍結の解除。
- 円ドル為替レート安定に関する協定締結と通貨基金の設立。
- 第3国との太平洋地域における平和維持に反する協定の廃棄。
- 本協定内容の両国による推進。
- 太平洋戦争開戦
日本政府はハル・ノートを最後通牒であると受け取り、東條英機総理大臣も「これは最後通牒です。」と述べました。日米交渉に対して日本政府内では、ハル・ノートを提示されたことで軍部を中心に強硬意見が主流になり、昭和天皇も「開戦やむなし」に傾いたとされています。この結果、12月1日御前会議にて対英米開戦が決議され、1941年(昭和16年)12月1日5時30分、機動部隊に向けて真珠湾攻撃の命令が発せられました。 - 太平洋戦争
1941年の第2次世界大戦参戦による軍需の増大によってアメリカ経済は回復し、失業者も激減します。
- 戦争挑発計画の実行T
- 世界恐慌