〜草屋根探訪〜草屋根ギャラリー


福島県大内宿には毎日多数の観光客が訪れひそかな草屋根ブームであるが、 私と草屋根との付き合いは古く、そして身近なものであった。 娘が小さい頃一緒に車で野山を駆け巡って草屋根探しをした。 週末になると当時住んでいた桶川市から渡良瀬や東松山方面へ草屋根スケッチにでかけた。 最初の個展に台風の中傘をさし、杖をついて笑顔で挨拶いただいたのが向井潤吉さんだった。 「私が出会った草屋根」がその時のタイトルである。雑木林のナチュラリスト足田輝一さんも 見えられて色紙に「雑木林に生きる草屋根の暮らし懐かし」の言葉をいただいた。 足田さんとはその後お亡くなりになるまで手紙のやりとりをさせていただいた。 日々消えていく中に、今でも草屋根とともに生活している人達がいる。 ただただ敬服するのみ。ここに描いた作品には消えていった草屋根達である。


●茨城県旧玉里村の茅葺民家





江戸時代後期の建物「お茶でもどうぞ」とボランティアのおじさんが囲炉裏にかかった 釜から湯を注いでくれる。曲がり家形の農家で保存展示館となっている。 休日は子供連れでにぎやかになるという。
●埼玉県北本市の茅葺民家(F邸)


TV、雑誌の取材にロケ地として何度か使わせていただいたF邸である。 最近その地を訪ねてみた。屋敷林は昔と変わらず草屋根は、心なしか元気なく建っていた。 近づいてみると内部は崩壊し前面だけがまだ生きていた。主人をなくし、放置されたままの 庄屋タイプの大型建物である。なぜか寂しい気持ちで帰りの足は重く感じた。
●栃木県茂木・能持院

茂木城、城主細川家の菩提寺になっている。墓石も石碑もない。 杉の木が代わりを務めている。本堂と庫裏を描いてほしいという依頼で 二日間かけて取材と製作を試みた。できるだけ詳細部も描いてみた作品である。 依頼主はそこで育った娘さんでした。
〜2005JARAパースコンペ出品作品〜


JARA主催、文化庁後援(文化財建物を描くコンペ)に入賞した作品である。 与えられたテーマから、京都の桂離宮を選んでみた。日本に亡命したドイツ人建築家 ブルーノ・タウト建築美の再発見の桂離宮、修学院離宮、ゆかりの高崎洗心亭、唯一設計施工で 残った熱海の日向邸などを訪ねてみた。審査委員長・林昌二氏、審査委員・光藤俊夫氏でした。 入賞作品は銀座の伊東屋ギャラリーで展示公開されました。 グラフィック作品の多いなかでの唯一鉛筆画のものでした。
〜新聞掲載記事〜


○1985年9月10日 〜朝日新聞朝刊より

<記事より抜粋>
消えゆく「草屋根の美」を描く
都市化の波に洗われて年々消えゆく草屋根の、民家を記録しておこうと、埼玉県桶川市の会社員 大渕澄夫さん(当時38歳)がこの二年間、県内を中心に描き続けたスケッチ約四十点が、 十二日から都内のギャラリーで展示される。「大渕澄夫建築素描展-私が出会った草屋根-」 家具インテリアの会社に勤める大渕さんは仕事を通して現代建築に接するうちに、草屋根の持つ 天然素材の長所に気づいた。「住む人によって夏は涼しく冬は暖かい。雨の音もしない。土や壁が 草屋根を通して息をしているんです。」と大渕さん。 休日のたびに車で草屋根を求めてドライブする。 見つけると、許しを得てスケッチする。必ずその場で描き終える。「家に持ち帰って仕上げれば絵として は美しくなるでしょう。しかし多少線が粗くても、あるがままを記録したいのです。」

土地の人との思わぬ交流もある。茨城県の民家では、八十歳近い寝たきりの老人から屋根のふき替えの 話を聞いた。カヤを何束使ったか、何人が手伝ったか。老人は上半身を起こして、一時間にわたって 約四十年前の出来事をきのうのように正確に語った。「草屋根は、集落をあげての協力と職人 の名人芸との結晶。ローンを払ってそれでおしまいという今の住宅とは違う。」と大渕さん。
草屋根は、確実に減っている。管理維持に手間がかかる。第一、材料のカヤが手に入りにくくなた。 銅版やトタン屋根に変える農家が多いのも当然だ。大渕さんがこの一ヶ月にスケッチした東松山市内の 草屋根は四月に立ち寄ったら普通の住宅に改築中だった。
「自然と調和した草屋根の美しいたたずまいを、多くの人に味わってほしい」という大渕さん。 この秋からは、秩父にもスケッチの足をのます予定だ。
素描展は9月12−17日、東京都渋谷電力館ギャラリー(1985当時)
○1997年7月10日 毎日新聞朝刊より

<記事より抜粋>
住宅を建て替えたり、他の土地に移り住んだりする時、長年住み続けた家に対する思いは 尽きない。代々続いた古き良き民家も、各地で取り壊されている。デザイナーや建築家らで つくるグループが思い出の住まいを絵や図面に描いて、残していこうという活動を進めている。 建築の専門家が参加しているので、住まい細部の構造に配慮し、写真にはない味わい、記録性がある。
1992年に「後世に残すべき心の記録」を目的にした大渕さんの呼びかけで、友人らが集い発起した。 平日は各自が仕事を持っているので、活動は週末が中心だ。これまで60件を手掛けた。明治時代から 続いた民家を自分の代で取り壊し、新しい家を建てた人。手に入れたマイホームを、事情があって 3年で手放さざるを得なかった人。絵や図面で残したいという人の思いはさまざま。 完成した住まいの絵を見て、涙を流して喜んだお年よりもいたという。古い民家の場合、図面などは 残っていないので、新たに書き起こし、絵に添えておく人もいるという。グループは今年4月、 ハウジングアンドコミュニティ財団の助成事業にも選ばれた。城下町である栃木県茂木町の地域街並み 現在描いており、11月に発表する。来年3月には東京銀座で作品展も予定している。 普段は企業のプロダクトデザイナーとして家具や生活品のデザインを手掛ける大渕さんは 「家は住まう人と職人さんが話し合ってつくったモニュメント。素晴らしい技術や工法が無造作 に壊されている状況がありますが、記録としてその姿を残していくことも大切なことでしょう。」 全国どこへでも描きにいく。画法はペン画、鉛筆画、水性薄彩画。製作費は「生活者の立場に 立って、利益追求の商業主義ではなく実費計上で」請け負っている。
○1997年7月20日 読売新聞朝刊より

<記事より抜粋>
”住まいの歴史語り継ごう”
地域色豊かな民家や町並みは、高度成長とともにこの30年ほどの間に次々に姿を消した。 国や都道府県などの文化財に指定される民家や町並みもあるが、全体からみれば極めて少数だ。 指定に至らない圧倒的に多くの建物は、老朽化やライフスタイルの変化などで使い勝手が悪くなったことを 理由に、取り壊しや増築の運命をたどっている。「民家の柱やはりなどはいずれも手仕事で造られ、 ぬくもりを感じさせる。記録に残すだけなら写真を撮ることもできるが、このぬくもりを伝える ため、私たちも手仕事で描くイラストにこだわった。」 作品は日本民俗建築学会誌に発表したり、都内で原画展を開いたりしてきた。 最近ではグループの口コミなどで活動を知った民家の家主から「ぜひ私の家屋を描いて欲しい。」 といった相談が舞い込むようになった。家主からの”注文”にこたえ、製作実費を取って描いたイラスト も60点に上るという。大渕さんたちは「住まいを新築する時は、だれもが新しい家のほうに関心がむく。 しかし、家屋を取り壊して数年が過ぎてから、かつての建物を懐かしく思うケースは非常に多い。 住まいの歴史を各家庭で語り継ぐためにも、記録を残すことにもっと関心を持って欲しい。」と話している。
○1998年10月26日 日本経済新聞朝刊より

<記事より抜粋>
〜文化欄より手記〜
小学生の頃から建物を描くのが好きだった。まだプレハブや鉄筋の住宅がそれほど多くない時代 、天然素材で構成された木造の家屋には、職人の手仕事が残っていてなんともいえない味わいがあった。 そうした家屋を記録に残そうと15年ほど前から真剣に取り組み始め、関東・東北を中心に500戸近い古い 民家をスケッチしてきた。デザイン学校を出、建設会社に勤めてから、建物の図面を描くかたわら、休日 を利用してずっと趣味で民家のスケッチをしていた。そのころ足尾銅山鉱毒事件で知られる栃木県の渡良瀬川 の岸辺などには、まだ古い民家が多く残っていて、自宅のある埼玉県から車でよくスケッチに通った。 その私が趣味でなく、きちんと「記録」のために描こうと思い立ったのは、30代なかば。初めて自分の 建築素描の個展を開いたとき、以前から尊敬していた建築家の降幡廣信氏が来てくださり、「これだけ 描けるのなら、もっと真剣に取り組んだら」とおっしゃってくれたのだ。 古い家屋はその土地の風土や歴史を反映する。何より先祖の代から脈々と続く人間の生活がしみ込んでいる。 そうした財産が都市化の波に襲われ、無造作に取り壊されていく姿を 見るのは忍びなかった。降幡氏の指摘は、消え行く建物を絵に描くことで人々の生活や歴史を記録できると 気付かせてくれた。家によって異なるが、スケッチしに行くと八割がた仕上げて帰る。その場で何時間も かけて見続けることで感じてくるものを一緒に描き込みたいからだ。記録として残すために、描く前 にきちんと家の人に話を聞くようになってからは、住む人の目に見えない思いが自然と鉛筆をにぎる手にこも るようになった。描き続けてつくづく感じるのは、長年住んだ家に対する家主の思いが想像以上に強いことだ。 筑波山の南側の斜面にあった江戸時代に建てられた古い家をスケッチさせてもらったときのこと。 住んでいた夫婦に、この家について話を聞かせてもらえないかと、お願いした。するとお嫁さんのほうが 、「おじいちゃん、家の話を聞きたいって人が来たけど…」と、奥にいるらしい義父に話しかけている。 承諾を得て奥の部屋に通された。おじいさんはもう何年もの間ずっと寝たきりだった。 私がまくら元に座ると、静かな声で、この家がいかに苦労して建てられたか、当時近所でどんな材料が取れて、 それをどんなふうに茅屋根に使ったか、といったことをぽつりぽつりと話し始めた。そして、自分の 指図のもと、八人もの専門の職人を逗留させ、近所の人の助けを借りて盛大に屋根のふきかえをした思い出を、 身振り手振りで語り始めたとき、何を思ったか、急に寝床から起き上がった。それを見たお嫁さんはびっくり。 「おじいちゃんが起きた!」と大騒ぎになった。その誇りに満ちた話し方を今でも覚えている。 私の仕事の内容を聞いてこれだけは話しておきたいと思ったのだろう。その後その方は亡くなり、家もいつの 間にか取り壊されていた。
○1998年12月24日 朝日新聞朝刊より

<記事より抜粋>
茨城県真壁町の歴史ある町並みを多くの人に知ってもらい、景観を子孫に残そうをいう活動 をしている「ディスカバーまかべ」が4回目となる写真展を今月いっぱい、茨城銀行真壁支店で開いている。 今年度中めどに「町並みマップ」づくりも進めている。メンバーの一人である、しょうゆ醸造会社社長 鈴木正徳さんは、個人的に絵葉書を作って販売している。
真壁町は、真壁城中心に発達した旧城下町で、見世蔵や土蔵、洋館、板塀などが多く残る。 これらを保存、整備して町おこしを図ろうと、1993年に「ディスカバーまかべ」が結成された。 高専の先生に歴史的建造物を依頼したり、うまく保存している自治体の視察に出かけたりしてきた。 鈴木さんは、1854年に建築されたという自宅の長屋門を絵に残そうと、埼玉県のインテリアデザイナー 大渕澄夫さんに依頼した。町内のほかの建物も含めて7枚の絵が完成した。鈴木さんがすべてを買い取り 、絵はがきにした。作品は白黒で、古い塀のある町並みや格子を使った蔵などが、鉛筆やペン画で描かれて いる。鈴木さんは「古い町並みには、なつかしさと落ち着きがある。取り壊されていくのは大変残念」と話す。 絵はがきは1セット(6枚)600円。
○2002年3月 朝日新聞(茨城版)より

<記事より抜粋>
「懐かしい村」描く
古い民家などのスケッチに取り組む建築、イラストレーター、大渕澄夫さんの素描展 「私が出会ったふるさとの風物」が10日まで、玉里村高崎の村総合文化センター展示資料室で開かれている。 大渕さんは日本民俗建築学会員。デザイン事務所の仕事の傍ら、歴史的建造物の魅力に引かれて スケッチ活動を続け、埼玉、東京で個展を開催してきた。同村には1976年から6年間生活したことが縁で 、村から出展を依頼された。今回は同村をはじめ古河や真壁、土浦など県内各地で取材した42点を展示。 大半を占める村の風景は作秋から何度も足を運んで新たに描いた。 再訪した印象について大渕さんは「以前と変わらない優しい風景があり、懐かしかった」と話している。

玉里村の絵葉書
○2003年9月27日 毎日新聞朝刊より

<記事より抜粋>
「大渕澄夫とその仲間たちの手仕事」は、大渕さんが友人らを呼びかけ1992年に発足。 これまで消えていく街並みの景観や、建替えで解体される住宅約500件を描いてきた。 建築の専門家の目を通して描くので、より確かに建物のポイントが押さえられる。 施工業者からの依頼で解体する民家を描いて施主のお年寄りに渡したところ、涙を流して 喜ばれたという。各地での展示会も開催。依頼以外にも、東京駅や法務省をはじめ、小江戸とよばれる 埼玉県川越市の時の鐘や蔵造りなどを描いてきた。 最近では東京都港区芝浦にある「協働会館」(正式名称は港湾労働者第二宿泊所)を描いた。 雅叙園を造った棟梁の酒井久五郎氏が1936年に建てた近代和風建築で、もともとは芝浦花柳界の検番 (芸妓の取次ぎ組合事務所)だった。現在、市民らでつくる「協働会館を活かす会」が保存運動を推進 し、グループも協力している。大渕さんは「今後は各地の『保存したい建物』の運動とも結びついていきたい」 と話している。 描くときは、建物の関係者から、建物の歴史など話をじっくり聞くことから始め、必ず現場で描く。 大渕さんは「ノスタルジックに縛られると先に進まないと、古い建物を壊してしまうケースが依然、多い 。しかし壊せば、引き継がれるものは何もない。たとえ水彩画であっても、残すことによって、 以前はこうだったんだよとつながりが出てくると思う」と力説する。
トップへ戻る