ゆきちゃんの凧


 本当にお正月らしい穏やかな日のことです。ゆきちゃんはお兄ちゃんと二人で、家の近くの空き地で凧あげをしていました。しかし、あまりにも穏やかな日で風さえなかったので、凧はちっともあがりません。

「お兄ちゃん、凧持っていて。ゆきちゃん走る。」
ゆきちゃんがそう言うと、お兄ちゃんは精一杯背伸びをして凧を持ちました。ゆきちゃんが走り出すと、お兄ちゃんは優しく凧を手から放しました。すると凧は、少しずつ空に向かってあがり始めました。ほんの少し風が吹いてきたのです。

 凧があがり始めたことを知らずにゆきちゃんは走っています。
「ゆきちゃん凧あがったよ。もう走らなくっても大丈夫。」
お兄ちゃんは、そう言いながらゆきちゃんの所にやってきました。ゆきちゃんの凧は、さっきまで何度も地面に落ちていたのが嘘のようにどんどん空にあがっていきます。
「わあ、すごーい。」
ゆきちゃんは大喜びです。凧糸は、くるくるくるくる糸巻きから外れて空へ空へとあがっていきます。

 それを見ていたお兄ちゃんはちょっと心配になって、
「ゆきちゃん貸して。」
と凧糸を手に取ると、それ以上糸が外れないように糸巻きに止めました。
「あがっていかなくなっちゃった。お兄ちゃんの意地悪。」
ゆきちゃんは、お餅のようにほっぺをふくらませて言いました。そんなゆきちゃんに糸巻きを返しながらお兄ちゃんは、
「だってゆきちゃん、凧ってあがりすぎるとどこかに飛んでいったりするんだよ。」
と言いました。ゆきちゃんは糸巻きを手にすると、
「わあ、お兄ちゃん!」
と叫びました。ゆきちゃんは、凧に引っ張られそうになりました。
 
 凧は、まだまだ空高くあがっていきそうな勢いです。小さいゆきちゃん一人で、糸巻きをもているのは大変なことでした。すぐにお兄ちゃんも一緒に糸巻きをもてくれました。
「ほら、ゆきちゃんこんなふうに一人で持っていられなくなるんだよ。」
そう話すお兄ちゃんを下から見上げながら、ゆきちゃんは今度はにっこりしました。
「わっかた。じゃあお兄ちゃん、一緒にあげようね。」
暖かい陽射しがゆきちゃんとお兄ちゃんのいる空き地に降り注いでいます。冬だということを忘れてしまいそうな日です。吹いてくる風も、寒くは感じません。

 二人は、空の高いところで小さくなってしまった凧を見つめています。時々、凧の力がふうっと弱くなると、お兄ちゃんは凧糸をつまんで、くいっくいっと引っ張ります。すると、また凧糸はピンと張って、ゆきちゃんは力一杯糸を引っ張ります。
「お兄ちゃん、すごおい。」
ゆきちゃんはそう言うと、またお兄ちゃんの顔を見上げてにっこりしました。お兄ちゃんも得意気に、ゆきちゃんの顔を見て笑いました。

 二人が仲良く遊んでいると、お母さんがやってきました。
「お兄ちゃん、お母さんけんちゃんのお家へちょっと行って来るから、ゆきちゃんと遊んでいてね。帰りにまたここへ来るから。」
「うん、いいよ。」
お兄ちゃんがそう言ったので、お母さんが行こうとすると、
「ゆきちゃんも行くう。」
ゆきちゃんは、お母さんの手を握りしめました。
「え、ゆきちゃんも行くの。じゃあ、お兄ちゃんも行く?」
「うん。じゃあ、凧おろすから待ってて。」

 お兄ちゃんは、凧をおろそうとしました。
「だめー!凧おろしちゃだめー!」
せっかく高くあがった凧をおろすのは、ゆきちゃんにはもったいないと思えたのです。
「「じゃあ、ゆきちゃん行かないの?」
お母さんが言うと、
「ゆきちゃん行くう。」
と、言います。お母さんとお兄ちゃんは顔を見合わせました。
「いいよ。ここで、凧あげて待ってる。」
お兄ちゃんは、困った顔をしながら言いました。お母さんも困った顔をしています。いくらお兄ちゃんでも、一人でここに置いていくのは可哀想だと思ったのです。お母さんは、辺りを見回しました。
「お兄ちゃん、少しの間だけここに縛っていきましょう。」
お母さんはそう言って、葉の落ちたサルスベリの木の枝に凧糸を結びつけました。
「とんでいかない?」
ゆきちゃんはお母さんに言いました。
「多分ねえ。じゃあ、早く行って来ましょう。」

 三人はその場を離れて、けんちゃんの家へ向かいました。けんちゃんの家に着くと、お母さんはけんちゃんのお母さんと少しお話をしていました。ゆきちゃんは、けんちゃんと遊ぼうと思ってついて来たのですが、けんちゃんはおばあちゃんの家へ行って留守でした。ゆきちゃんはそれならお兄ちゃんと凧あげをしていれば良かったと思いました。つまらないなあと思いながら、けんちゃんのお母さんからもらったお菓子を食べていると、お母さん達のお話が終わりました。

 帰り道、お兄ちゃんが笑いながら、
「本当に今日の用事は、ちょっとだったね。」
と、言いました。
「どうして?」
「いつもはずーっと話をしていて、ゆきちゃんぐずっちゃうもの。」
ゆきちゃんは、「ぐずっちゃう」という言葉がわからないので、
「そうだよね。」
と、言いました。

 そんなことを話しながら歩いていくと、さっきの空き地にやってきました。
「そうだ、凧!」
研ちゃんの家から帰ってくる途中、凧のことは忘れていたゆきちゃんでしたが、空き地の所まで来ると思い出しました。ゆきちゃんは走っていきました。お兄ちゃんとお母さんも、後から付いていきました。お兄ちゃんとお母さんが空き地に着くと、ゆきちゃんは目を見開いたまま立ちすくんでいます。
「なーい!凧なーい!!」
ゆきちゃんは大きな声で言いました。

 お兄ちゃんとお母さんは、サルスベリの木の枝を見ました。凧糸は結ばれたままでしたが、その先が切れて垂れ下がっています。
「ゆきちゃん、ごめんね。お母さんがここに縛っていったりしたから、飛んで行っちゃったのねえ。」
お母さんがそう言うと、お兄ちゃんも、
「ごめんね、お兄ちゃんがここにいれば良かったね。」
と、ゆきちゃんにすまなそうに言いました。

 お母さんもお兄ちゃんも、ゆきちゃんが可哀想で仕方がありません。
「うん、いいの!」
 さっきまでとはうって変わって、明るい声で言いました。
「ゆきちゃんも、お出かけしたの。ゆきちゃんの凧もお出かけしたの!!」
「お空お散歩して、ゆきちゃんのこと見てたの。それから、どこかまた遊びに行っちゃったの。」
ゆきちゃんは、続けてそう言いました。そう言ってゆきちゃんは、お空の散歩をしている凧を見つけるように、空を見上げました。
「そうか、ゆきちゃん見つけにお散歩行ったんだ。」
お兄ちゃんも笑って、空を見上げました。お母さんもさっきの困った顔から笑顔になって、空を見上げました。

 そして、三人の傍らのサルスベリの木の枝には、切れるはずのなかった白い凧糸だけが、まだ困り顔で風になびいているのでした。

終わり