ヴィルヘルム・ハウフ (Wilhelm Hauff 1802-27)


 ドイツ浪漫主義のシュバーベン派に属する小説家、童話作家。南ドイツのシュトゥツガルトに役人の子として生まれる。チュービンゲン大学を卒業後、シュトゥツガルトの男爵家の家庭教師を務めながら、多能多才な文筆活動で頭角を現わす。25歳の誕生日を前にして、‘神経性熱’で亡くなるまで、その短い文学的キャリアーにもかかわらず、たくさんの作品を残した。
 今日まで読まれている代表作として、ウォルター・スコット風の歴史小説「リヒテンシュタイン」(1826)と、とりわけ「教養階級の子息子女のための童話年鑑」(1825,26,27)がある。後者即ちハウフの童話集は、同時代ではワシントン・アーヴィングを思わせる枠物語(Rahmenerzaerung,frame story)で結び付けられた連作である。「若いイギリス人」は、<アレッサンドリアの回教主とその奴隷たち>の中の一篇。ドイツ浪漫派の風刺メルヘンの傑作である。



                  若いイギリス人

                  ヴィルヘルム・ハウフ
                       
                           翻訳copyright: shuh kai 2010

 <だんな様 ! 私はドイツ生まれのドイツ人でございます。このお国にまいりまして、まだほどない身でございますので、ペルシャの物語や、王様や大臣といったかたがたについての、愉快な物語を、お話しするなどというわけにはまいりません。そういうわけでございますから、ひとつ私の故国において起こった出来事でも、お話しすることをお許し願いたいと思います。いくぶんかのお慰みとなれば、というこころづもりでございます。残念なことに、私の国の物語というものは、あなた様のお国のものほど、品のよいものばかりではございません。と申しますのは、それらは、王様(サルタン)や、私どもの国では法務大臣とか、大蔵大臣とか、枢密顧問官などと呼ばれております大臣がたや、高官のかたがたについての物語ではなく、たいていは、兵士についてのものでなければ、たいへん控えめなものでございまして、つまり一般市民の物語なのでございます。>


 ドイツ国の南の部分に、グリュンヴィーゼルという名の小さな町があります。私はそこで生まれ、育ちました。それはドイツ国のどこにでも見られる、ありふれた町です。町の中央には、市の開かれる小さな広場があり、井戸があります。町の片側には、小さな、古ぼけた町役場があり、市場のめぐりには、裁判所と、町で一二をあらそう商人たちの家があります。二つ、三つの小さな通りにそって、そのほかの町の住人たちが暮らしています。町の者たちは、互いにたがいを知りつくしており、どこそこでこんなことがあったなどということは、だれもが知っています。たとえば、主任司祭殿や市長さんが、またはお医者の先生が、朝の食卓に一品多くめしあがった、などということになると、昼食時には、もう町中の者がそのことを知っております。昼下がりになりますと、お上さんたちは、たがいに<訪問>という名目でより集います。そして濃いコーヒーを飲み、甘いケーキを食べながら、この大事件について批評しあいます。そして落ちつくところは、主任司祭殿はきっと富くじを買って、キリスト教徒にあるまじく、大当たりをしたのであろうとか、市長さんはワイロを贈られたのであろうとか、お医者の先生は、法外に高い処方箋を書く約束で、薬剤師から金貨をいく枚かせしめたのであろう、とかいうことになります。グリュンヴィーゼルという町は、こんなに良く秩序の行きとどいた町でしたから、ある時この町に、どこの素性の者とも、何をしようとする者とも、またどんな生計を立てている者とも、だれも知らない一人の男がやってまいりました時に、町の者たちにとって、どんなに心地の悪い思いがしたことか、だんな様もよくお分かりのことと思います。市長さんは、男の身分証を調べてはみたのです。それは私の国では、だれもが持たねばならない紙切れなのです――


 <では、道を歩くにもそれほどぶっそうなのかね。>主人の回教主は、奴隷の話をさえぎりました。<盗賊どもをおとなしくさせるために、あなたたちの国王の勅命を、身につけていなくてはならないとは。>
 <そうではございません、だんな様。>奴隷は答えました。<この紙切れは、私どもを盗賊から守ってくれるわけではなく、どこにいても、相手の者がだれであるかを知ることができるようにと、そうした規則になっているのでございます。>


 さて、市長さんはその身分証を調べてみました。そしてお医者先生のコーヒーの集いで、こんなことを言いました。なるほど身分証には、ベルリンからグリュンヴィーゼルまでの査証がなされていて、文句のつけようがないが、何となくうさんくさいぞ。様子にどこか信用ならないところがあるわい。市長さんは町では一番の名士でしたから、その時からその異国の男は、うさんくさい人物として見なされるようになったのは、不思議ではありません。この男の生活態度がまた、私の郷里の者たちのこの見方を、変えさせることになりませんでした。異国の男はいくばくかの金貨を投じて、これまで空き家となっていた一軒の家を借りうけ、馬車一台分はあろうという、カマドだとか、ストーヴだとか、大きな坩堝とかの奇妙きてれつな道具類を運びこませ、以来まったくひとりきりの生活を始めたのです。なんともはや、日々のものさえ自炊するという有様です。彼の家に足を踏み入れる者といえば、たった一人グリュンヴィーゼルの町に住む老人がいて、彼のために、パンや肉や野菜を買い入れる世話をしていました。けれども、この老人にしましても、ただ家の玄関口まで足を踏み入れたばかりで、そこで異国の男は買い物を受け取るのでした。
 その男が私の郷里の町にやってまいりました頃、私は十歳の少年でした。今でもまるで昨日のことのように、この男が小さな町に惹き起こしたいらだちを、思いだすことができます。彼は昼下がりに、町のほかの男たちのようには、九柱戯場へ足を運ぶこともなければ、晩になって、ほかの男たちのように酒場に現われ、パイプをふかしながら、新聞の記事を話題におしゃべりする、ということもありませんでした。市長さん、判事殿、お医者の先生、主任司祭殿と、順々に彼を食卓に、またはコーヒーの集いに招いたのですが、むだなことでした。いつでも断りが届くのです。そこで中には、彼を気のふれた人間と考える者もあり、またほかの者たちは、彼をユダヤ人と考え、さらに別の者たちは、彼は魔法使いにちがいない、と言い張るのでした。私が十九、二十歳になった頃もまだ、その男は町ではよその旦那と呼ばれていました。
 ところが、ある日のことです。見なれない動物を連れた一団が、町へ入ってくるということがありました。彼らはあてどのない風来坊どもで、おじぎをする駱駝や、踊りをする熊や、人間の着るものを着て滑稽この上なく見える、いろいろな芸をする犬やサルを連れていました。この連中はたいてい、町なかをへめぐって、四つ角や広場で立ち止まり、小さな太鼓一つと笛一本で、ひどい音色の音楽をやらかし、動物たちに踊ったり跳ねたりの芸をさせ、そのあと家々から金を集めにまわるのです。ところで、この時グリュンヴィーゼルに現われた動物の中で、一匹の化物じみたオランウータンが、ひときわ人目を惹きました。それはほとんど人間の大きさがあり、二本足で立って歩き、いろいろと気のきいた芸をやってのけるのでした。この動物たちのコメディーは、よその旦那の家の前にもやってきました。太鼓と笛の音が聞こえると、彼は初めは、古くなって、黒ずんだ窓ガラスの後ろに、不機嫌な面もちで現われました。けれども、やがてニコニコしだし、だれもが驚いたことには、窓から身をのりだし、オランウータンの芸を心からおかしがって笑うのでした。その上、その気晴らしに対して、珍しいほど大きな銀貨を一枚与えたものですから、町中がその銀貨の噂をしたものでした。
 次の日の朝、動物をつれた一団は旅立っていきました。駱駝は、犬や猿の心地よさそうに納まった、いくつもの籠をになわねばなりません。その後を、駱駝追いと、あの大きな猿がつづきます。彼らが町の門を出てから、いく時間とたたない内に、よその旦那は馬車の宿駅に人をやり、駅長のたいへん不思議がったことには、一台の特別馬車をあつらえ、同じ門から、動物たちのとった道の後を走らせてゆきました。町じゅうの人にとって、彼がどこへ旅に出たのか、知ることができないのは、いらだたしいことでした。よその旦那が、馬車に乗ってふたたび町の門にもどってきた時は、すでに夜になっていました。ところが、馬車の中にはいま一人の人物が座っていました。その人は、帽子を顔に押しつけるように目深にかぶり、口と耳のまわりには絹の布を巻いていました。通門税の取立人は、そのいま一人の異国の者に声をかけて、身分証を見せてもらうのが職務と考えたのですが、男はまるで意味の分からない言葉をうなるばかりで、はなはだ乱暴な返答のしかたでありました。
 「私の甥なのだよ」異国の旦那はにこにこして、そう通門税の取立人に言うと、手の中にいく枚かの銀貨をにぎらせました。「私の甥なのだが、今のところ、ほとんどドイツ語がわからないのだよ。ここに引き留められていることを、今ちょっと彼の国の言葉で毒づいたところさ」
 「はあ、あなたの甥御でいらっしゃるなら」通門税の取立人は言いました、「身分証がなくても、町へ入ってよいことにいたしましょう。間違いなくあなたのところに住まわれるのでしょうな」
 「もちろんだよ」異国の旦那は言いました、「しかも、たぶんかなりの期間この町に住むことになりそうだ」
 通門税の取立人は、それ以上異議をはさむこともありませんでしたから、よその旦那とその甥とは町の中に入りました。けれども、市長さんと町じゅうの人たちは、門番の不手際に対してはなはだ不満でした。彼はせめて、甥御のしゃべった言葉のひとつ、ふたつは聞きとっておくべきでした。そうすれば、その言葉から、よその旦那とその甥御とがどこの国の民であるかが、たやすく知れたであろうにと言うのです。それに対して、門番がきっぱりと言いますには、甥御の言葉はフランス語でもイタリア語でもなく、なにやらぶこつな響きからして英語のようである。私の耳に間違いなければ、あの若い紳士は God dam! (こんちくしょう!)と言ったようである。そう弁解することで、門番は窮地から逃れたばかりか、その若者に名前を与えることになったのです。と言いますのは、その日からこの小さな町では、‘若いイギリス人’の話題で持ちきりになったからです。
 けれども、若いイギリス人もまた、九柱戯場やビール・ハウスには姿を現わしませんでした。ところが、この若者はほかの面で人さわがせの種となりました。――と言いますのは、これまでたいへん静かであったよその旦那の家の中で、ぎょっとするような叫び声や騒動が起こり、近所の人たちが総出で家の前に集まり、なりゆきを見まもるという出来事がたびたび持ち上がったからです。赤い燕尾服を着、緑色のズボンをはいた、髪を乱した怖い顔の若いイギリス人が、信じられないほどのすばやさで、部屋から部屋へと窓をつたう姿が見られたのです。赤いパジャマを着て、手にムチを持った年かさのおじが、あとを追いまわして何度も捕えそこなったのですが、一度か二度は若者を捕えたにちがいないと、道に集まった人びとには思われました。なにしろ、いたいたしい怖れの悲鳴と、したたかなムチ音が、たてつづけに聞こえてきたからです。この異国の若者の虐待に対して、町の女たちは同情やるかたない思いでした。そこで、とうとう市長さんを動かして、なんとか事を収めてもらおうとしました。市長さんはよその旦那に書面を送り、その中で彼の甥御に対する不当な扱いを、かなりあからさまな言葉で非難し、もしそうした騒動がこれからも起こるようであるならば、若者を彼の特別の保護のもとに置くであろう、と警告をしたためたのです。
 けれども、ここ十年来一度もなかったことですが、その異国の人物が自分から訪ねてきたのを見て、市長さんはどんなに驚いたことでしょう。老紳士が自分の仕打ちを弁解して言いますには、これは彼に若者の教育を任せた両親のたっての願いなのであって、彼はほかの方面ではかしこく、有能な青年なのであるが、こと語学の習得にかけてはとても不得意なのである。老紳士は、この甥に、何とかしてドイツ語がすらすらしゃべれるまでに教えこみ、そのあかつきには、あつかましいことながら、グリュンヴィーゼルの社交界に彼をデビューさせたいのである。ところが、くだんの若者にはこのドイツ語という言語はいたって苦手と見えて、いたし方なしに、身にこたえるよう、たびたび彼をムチ打つはめに到るのであると。市長さんはこの弁明にすっかり満足しましたので、老紳士には手ごころをくわえるよう勧めただけでした。そして晩かたにはビール・ハウスへ出かけていって、あの外国人ほど教養のある、礼儀正しい人物には、めったに出会ったことがないものだ、と語りました。そして付け加えて言いますには、「惜しむらくはだね、いまひとつ人付き合いのよい人であってほしいものだ。しかしだね、私の見るところでは、甥御が少々ドイツ語が話せるようになったあかつきには、もっとたびたび私の仲間うちに加わるだろうよ」
 このたったいっぺんの出来事のために、小さな町の世論はすっかり変わってしまいました。人びとはその異国の旦那を礼儀正しい男と見なし、一層近づきになりたいと望むようになりました。そして荒れた館で、ときおりひどい叫び声が起こったりしても、もうまったく当たり前のことと考えるようになりました。「甥御にドイツ語のレッスンを授けているのさ」――グリュンヴィーゼルの人々はそう言って、もはや立ち止まりもしませんでした。およそ三月ほどで、どうやらドイツ語のレッスンは終了したようでした。老紳士は次の課程へと、一歩進めたのでした。町に一人の年老いた、病弱なフランス人が住んでおりました。彼は若者たちにダンスの手ほどきを教えていました。よその旦那はこのフランス人を家に呼び、彼の甥にダンスを学ばせたいむねを告げました。この甥はたいへん物覚えがよいのであるが、ダンスとなるとどうも自己流がすぎてこまると言うのです。彼は以前にある教師のところでダンスを学んだのであるが、それがたいへん奇妙な踊り方で、とても社交界で披露できるものではないのであるが、甥はかえってそれを得意がって、自分をたいした踊り手だと信じこんでいるしまつである。実際のところ、彼のダンスたるや、ワルツともギャロップとも(これらは私の祖国で人の踊るダンスの名でございます、旦那さま)、またスコットランドやフランスのダンスとも、まるで似つかないしろものなのである、ということでした。よその旦那は、授業料としてターラー銀貨一枚を約束したものですから、ダンスの教師は喜んで、このわがままな教え子の教授を引き受けることにしました。
 このフランス人がこっそり語ったところでは、このダンスの教授ほど、世に奇妙きてれつなものはありませんでした。甥御はかなり背の高い、、ほっそりした若者で、ただ足のはなはだ短いのが玉にきずでしたが、赤いフロックを着こなし、きれいに髪を縮らし、緑色のゆったりしたズボンをはき、つやつやした手袋をはめていました。口数は少なく、外国なまりのアクセントがあり、初めのうちは礼儀正しく、器用にふるまいましたが、しばしば突然に道化たジャンプをしてみたり、跳びあがったまま踵を鳴らすなどの、だいたんこの上ない離れ業をしでかしまして、ダンスの先生の目も耳もボーっとなってしまうほどでした。先生がその癖を直そうとしますと、甥御は足にはいたこぎれいな舞踏靴をぬぎ、フランス人の頭を目がけて投げつけ、さて四つんばいになって部屋中を走り回るのでした。この騒ぎを聞きつけまして、ゆったりした赤いパジャマ姿の、頭に金塗りの紙の帽子をのせた老紳士が、彼の部屋からふいに飛び出してきます。そしてはなはだ手荒に、甥の背中にムチをふり下ろすのです。甥はひどい悲鳴をあげ、テーブルの上や、背の高いタンスや、時には窓の十字の上に跳びのって、わけの分からない外国語をしゃべりたてました。赤いパジャマの老紳士はしかし動じませんでした。彼の足をつかんで引きずりおろし、したたかになぐりつけ、留め金のついたネッカチーフをしっかりと彼の首にしめつけました。すると彼はいつでも、ふたたびおとなしく、礼儀正しくなり、ダンスの授業は支障なく進められていくのでした。
 けれどもこの先生がレッスンをはかどらせて、音楽を用いるところまでこぎつけました時、甥御はまるで別人になったかのようでした。やとわれた町の楽師が、荒れた館の広間のテーブルの上に座らせられます。老紳士はダンスの先生に絹のスカートと、インド製の肩掛けをつけさせまして、婦人の役を演じさせます。甥御はこの先生にダンスを申しこみ、ワルツやらなにやらのダンスを始めます。彼はしかし疲れを知らない、熱狂的な踊り手でした。ダンスの先生がうめこうが、叫ぼうが、いっかな長い腕に捕らえて放そうとしません。先生は疲れはてて倒れてしまうか、楽士のヴァイオリンを弾く腕が動かなくなるまで、踊りつづけねばなりませんでした。こんなふうなレッスンのおかげで、ダンスの先生はほとんど死ぬほどの目にあいましたが、毎回きちんと支払われる銀貨と、老紳士のもてなす良いワインとが、前の日にはもうあの荒れ館には行くものかと決心をかためても、やはりまた来させてしまうのでした。
 グリュンヴィーゼルの人びとはといえば、このことについては、このフランス人とはまったくちがった目で見ていました。彼らはこの若者が、なかなかに社交性の素質のある者とにらんでいました。町のご婦人方はまた、紳士連の大いに不足している折がらでしたから、こんどの冬のシーズンに、こんなに機敏な踊り手を迎えることになることを楽しみにしていました。
 ある朝のことです。市場の買いものから帰ってきた家政婦たちが、見てきた不思議な出来事を主人の家のものたちに語りました。荒れ館の前に、りっぱな馬のつながれた、一台の華やかなガラスばりの馬車が留められていて、一人の高価なお仕着せを来た従者が、扉を開けて待っています。そこへ、館の扉が開いて、二人の立派な服を着た紳士が現われました。一人は例の老紳士で、いま一人はどうやら、あのドイツ語を覚えるのにはなはだ骨折り、はなはだ乱暴に踊る若い紳士のようでした。二人は馬車に乗りこみ、従者が後ろの御者台にとび乗りまして、馬車は走り出しましたが、それが驚いたことには、市長さんの家にまっすぐ向かっていったというのです。
 おかみさんたちは、この話を家政婦たちから聞きますと、急いでエプロンを脱ぎすて、汚れの目立つボンネットをはずし、晴れ着に着がえました。「きっとそうだわ」とおかみさんたちは家中のものに言いました。みなは客間をかねた部屋のかたづけをするのに、おおいそがしでした。「きっとそうだわ。よその旦那は、いよいよ甥御を世間に出すつもりになったのよ。あのいかれたお年寄りは、この十年間というもの、礼儀知らずにも、わたしたちの家にひと足だって、挨拶に寄ったことはないのだけれども、でも、あの甥御にめんじて許してあげるわ。なんといっても、すてきな人という評判ですからね」彼女たちはそんなふうに噂をし、息子や娘たちに、もしよその旦那の一行が来たならば、マナー良く、礼儀正しくふるまうように、いつもより上品な言葉づかいをするように、と言い聞かせました。そして、町のおかみさんたちの予想に狂いはありませんでした。老紳士は甥御をつれて、順々に各家をまわり、自分と甥御のために、町の人々のよしみをこうたのでした。
 どこの家も、この二人の外国人のことで持ちきりでした。もっと早くこの気持ちの良いよしみが結べなかったものかと、惜しまれるのでした。老紳士は、上品な、たいへん物わかりのよい人間であることが分かりました。なるほど、何かものを言うたびにうす笑いを浮かべましたので、はたして本心からの言葉なのであるか、惑わされはしましたが、お天気のことにしても、その地の話題にしても、夏の山の居酒屋での楽しみなども、たいへん賢く、慎重なもの言いをしましたので、誰もがそれには心を奪われてしまいました。そればかりか、例の甥御ときたら、彼はみんなを魅惑し、みんなの心を奪ってしまいました。なるほど、外見という点では、彼の容貌はおせじにも、ととのったとは言えませんでした。顔の下の部分、特に下あごがあまりに突き出ていましたし、肌の色は褐色がまさっていました。しかも時々、いろいろとおかしなしかめ面をして見せたり、目をつぶったり、歯がみをしたりするのでした。それにもかかわらず、人々は彼の顔のつくりを、この上なく面白く感じるのでした。彼の身体といえば、これほど落ち着きがなく、機敏に動くものはありませんでした。なるほど、衣服は少々異様な感じで身に垂れ下がっておりましたが、全体として似合っていたのです。彼はすばしこい動きで部屋中を歩き回り、ソファーにちょっと尻をすえるかと思うと、次には安楽椅子に腰かけて、足を投げ出しています。ところが、ほかの若者であったならば、この上なく下品で無作法に思われたことが、この甥御の場合には、才気と感じられたのです。「なにしろ、イギリス人だから」と人々は言いました。「彼らの間では、そうした慣わしなのだよ。イギリス人なら、ソファーの上に寝ころんで、寝いってしまったとて、ご婦人方はすわる場所がなくても、まわりに立ちんぼうでいなければならないのさ。イギリス人なのだから、そうしたことを悪く取ってはならないのだよ。」老紳士、つまり彼のおじに対しては、彼はたいへん従順でした。彼が部屋の中で跳ね回りだしたり、また両足を椅子の上にのせるくせを出したりすると、老紳士はしかつめらしい視線を彼のほうに向けます。すると彼は、たちまち行儀よくなってしまうのです。しかも彼のそうした無作法を、人々は悪く取るわけにも行きませんでした。なにしろ、老紳士はどの家のおかみさんにも、こんなことを吹きこんだからです。「私の甥は、今のところ、少々無作法で教養がないのですが、社交によって礼儀正しく、常識のある人間になることを、私としては大いに期待しているのです。とりわけ、奥様方には、彼のことを切にお願いもうしあげるしだいです」
 そんなふうにして、甥御は世間に紹介されたわけです。グリュンヴィーゼルの町は、その日からいく日もの間、この出来事のうわさで持ちきりでした。老紳士はさらに、そのことだけにとどまりませんでした。彼は自分の考え方や生活態度を、すっかり改めてしまったようでした。午後になると、彼は甥を連れて、山の岩沿いにある酒場へ出かけました。そこでは、グリュンヴィーゼルの名士たちがビールを飲み、九柱戯をして遊ぶのです。甥御は九柱戯の名人であることが分かりました。倒すピンが五、六本に達しないということは、決してありませんでした。ところが、時々妙な思いつきが彼の頭にとりつくようでした。何を思ってか、彼は玉とともに矢のように走っていって、ピンの間に飛びこみ、そこでさまざまな馬鹿げた仕業をやらかすのです。また王様以外の八本や、王様を倒した時には、彼は突然、こぎれいにちぢらせた髪をさかさまに、両足を宙に伸ばして逆立ちをするしまつです。また、馬車がそばの道を通りすぎた時などは、あれよと思うまに、御者台の天蓋の上に坐っておりまして、見上げる者にしかめ面をして見せました。そしてしばらくいっしょに運ばれてから、皆のところへ飛ぶようにして戻ってまいりました。
 そうした場合に、老紳士は市長さんやほかの者たちに向かって、甥の行儀の悪さをしきりに詫びるのでした。皆はしかし大笑いし、なにしろ甥御は若いのだから、自分らがこの年ごろであったころには、同じくらいすばやく走り回れたものだ、と言いました。そして彼を若き韋駄天と名づけ、たいへん気に入りました。
 けれども、時には彼らも彼の悪戯に、ひどく腹を立てることがありました。ところが、何しろこの若いイギリス人は、誰からも教養と常識の見本のように見なされていたのですから、一言も文句を言うことができません。こんなことがありました。晩になると、老紳士は甥を連れて<金の鹿>という町の酒場へかよってまいりました。ところが、この甥はまだ尻の青い青年なのですが、あろうことか、ひとかどの大人のようにふるまったのです。ワインのグラスを前に腰をすえまして、度はずれて大きなメガネをかけ、これも度はずれて太いパイプを取り出し、客の中でも一番ひどい煙をふかすのです。新聞記事や戦争や和平が話題になり、お医者先生が意見を述べ、市長さんが意見を述べ、ほかの紳士連が二人のはなはだうがった政治上の見識に驚嘆しておりますと、突如としてこの甥が、何を思いついたことやら、真っ向から異論をさしはさみます。その際彼は、手袋を一度も脱いだことのない手でテーブルをたたき、市長さんとお医者先生に向かい、この問題に関しては彼らがまったく無知であること、彼はこのことに関してはまったく違った情報を得ており、ずっと深い見識を持っていることを、遠慮会釈なく分からせるのでした。そして、奇妙ななまりのあるドイツ語で彼の意見を述べるのでしたが、市長さんにとっては大変腹だたしいことに、皆はまったくその通りだと感心したのです。何といっても彼はイギリス人ですから、当然のこと何でも良く知っているに違いないのです。
 市長さんとお医者先生は、憤まんを口に出すわけにもいかず、チェスを一局指すことにしました。すると、またまたこの甥御がそばへやって来まして、大きなメガネで市長さんの肩越しにのぞきこみ、この手、あの手にちょっかいを出します。お医者先生に向かっても、こうこう指すのがよいと指図をしますので、二人とも内心ではすっかり腹を立ててしまいました。そこで、市長さんが腹立ちまぎれに、彼を王手づめにしてやりこめようと、一勝負申し込みました。市長さんはフィリドール(チェスの名人)の再来を自認していたのです。そこで、老紳士は甥のネッカチーフをきつくしめつけました。すると甥はすっかりおとなしく、行儀よくなり、市長さんを王手づめにして、負かしてしまいました。
 これまでグリュンヴィーゼルでは、ほとんど毎晩、一勝負に小額をかけてトランプの賭けをしていました。この甥御は、そんなしみったれたことは御免とばかり、金貨や銀貨を賭けてきました。そして、自分ほどトランプのじょうずな者はいないと自慢をしました。こばかにされた紳士達は、しかし、この甥御がとほうもない金額を彼らとの勝負で失うので、たいてい機嫌を直してしまいました。その上、彼らはこの甥御から大金をせしめることを、少しもやましいとは思いませんでした.「彼はイギリス人なのだから、生まれつき金持ちなのさ」そう言って、彼らは金貨をポケットにしまいこみました。
 こんなふうにしてよその旦那の甥御は、たちまちのうちに、町なかや郊外の人々の間でことのほかもてはやされるようになりました。町の人々が記憶する限り、グリュンヴィーゼルでこんなたぐいの若者を目にしたことはありませんでしたし、こんな珍しい人物は他に見られなかったのです。なるほどこの甥御は、ダンス以外に何かを学んだとは言えませんでした。ラテン語やギリシャ語は、彼にとっていわゆる<ボヘミヤの村>のように、まるで不案内でした。市長さんの家で娯楽の集いがあった際、たまたま彼はものを書かねばなりませんでしたが、その時、自分の名さえ書けないことが明らかになったのです。地理に関しては、彼ははなはだしい間違いをしでかしました。ドイツの町をフランスに移したり、デンマークの町をポーランドに移したりすることは、へっちゃらであったからです。本一冊読んだことがなく、何ひとつ研究したことがないのですから、主任司祭殿はしばしば、この若者のあまりの無知をあやぶむように頭(かぶり)をふるのでした。それにもかかわらず、人々は彼のなすこと、しゃべることのすべてに対して、なるほどと感心しました。なにしろ彼は、おくめんもなく、いつでも自分が正しいのだという態度を押しとおすのですし、言葉のはしばしに、「そのことなら私の方がよく知っている」とくりかえすからです。
 やがて冬がやって来ますと、甥御の名声はいよいよ高まってゆきました。彼の姿のない社交の集いは、退屈しごくでした。きまじめ者がなにかを言うと、あくびがもれましたが、この甥御がなにか馬鹿げたことを、ひどいドイツ語でしゃべりでもすると、皆はいっせいに聞き耳を立てました。この有能な若者は、また詩人でもあることが明らかになりました。と言いますのは、彼がポケットから紙きれを出して、人々に一つ、二つのソネット(14行詩)を朗読しなければ、宵の集いはスムーズにはかどらないのでした。人々の中には、この創作のある部分について、拙劣とか、ナンセンスとかの批評を口にしたり、またほかの部分についても、どこかで印刷されていたのを読んだ覚えがある、と主張する者がありました。甥御はそんな声には馬耳東風といった面持ちで、とうとうと朗読をつづけ、彼の詩の美しさに人々を魅了し、いつでも割れるような拍手喝采をあびるのでした。
 彼の勝利の絶頂は、しかし、グリュンヴィーゼルの舞踏会でありました。彼ほどねばりづよく、すばやく踊れる者は、ほかにいませんでした。また、彼ほど大胆な、しかもこの上なく優美な跳躍のできる者はおりませんでした。その際、彼のおじは、いつでも最新の流行にならった、一番はでな衣裳を甥御に着せました。彼の衣裳は体にぴったり合わないところがありましたが、それでも人々は、彼には何を着せてもことのほか愛くるしく、似合っていると感じました。男たちは、ダンスの場にこの甥御があらわれて、これまでのしきたりを破ったことを、苦々しく思わないではありませんでした。これまでは、市長さん自らが舞踏会のくちびを切り、あとのダンスの運びは青年紳士たちに任せておくという決まりでした。ところが、この外国の若者が現われてからというもの、こうしたしきたりが全く変えられてしまいました。彼はさしたる遠慮もなく、ゆきあたりばったりに、近くの婦人の手をとらえ、先頭をきって踊りだします。彼は気まぐれほうだい、しほうだいにふるまい、主人であり、ダンスの名人であり、王様でありました。ところが、ご婦人方にはこのやり方がとてもすてきに思われ、すっかり気に入ってしまいましたから、男たちはそれについて文句を言うことが許されませんでした。そこで、この甥御の独壇場はつづいたのでした。
 そうした舞踏会は、老紳士にこの上ない満足を与えるようでした。彼は甥御から一瞬たりとも目を離さずに、いつもひとりほくそ笑んでいました。そして、人々がひっきりなしにそばへやって来て、この礼儀正しい、育ちのよい若者について、称賛の言葉を述べますと、彼は喜びのあまり、こらえることが出来なくなり、陽気な笑いを破裂させたのでした。その様子は、まるでほうけたようでした。グリュンヴィーゼルの人々は、この妙な笑いの爆発を、甥御に対する大きな愛情の発露と解釈し、特にどうということのないあたり前のことと考えました。けれども、時々は彼も甥御に対して、父親代わりの威厳を示さなければなりませんでした。と言うのは、優雅な舞踏の最中に、なにを思ったかこの甥御は、町の楽隊が陣取っている一段高くなった場所へ、すてきな勢いで飛び乗り、オルガンひきのひくコントラバスをその手からうばい取り、ひどい音を鳴らしてみたり、または突然に気まぐれを起こし、両足を宙に伸ばして逆立ちをしたまま、ダンスをしたからです。そんな時、おじは彼をすみの方へ連れてゆき、しかつめらしい叱責をくわえ、ネッカチーフをきつく閉めなおしますと、彼はまたもとのように、すっかり行儀よくなるのでした。
 さて、この甥御はそんなふうに、社交の場や舞踏会でふるまったのでした。風習と言うものは、えてしてそうなりがちなのですが、悪いことは善いことよりも、いつでもたやすく広まるものです。目新しく、人目を引く流行と言うものは、たとえこの上なく馬鹿げて見えようとも、自己自身についても世間についてもまだ考えることを知らない若者たちには、もうそれだけで何となくかぶれてしまいます。グリュンヴィーゼルにおいても、この甥と彼の常軌を逸したマナーに関しては、ご多分にもれませんでした。と言いますのは、町の若者たちは、、この甥が不器用にふるまい、無作法に笑ったり、おしゃべりをしたり、年上のものに対して乱暴な返事をしても、とがめられるどころか、むしろ感心されているのを見、こうしたふるまいがすべて、気の利いたこととさえみなされていることを見て取りました。そこで彼らはひそかに考えたのです――「気の利いた悪童になるくらいは、おちゃのこさ」。彼らはこれまで勤勉な、器用な若者でした。ところが今ではこう考えるようになりました――「勉強などしたところで、何の役に立つのだ。何も知らなければ、ずっとうまく世間が渡れるのだから」。彼らは書物をほうりだし、広場や通りのいたるところで遊びまわりました。これまで彼らは人に対して礼儀正しく、親切でした。人がものを尋ねおわるまでは口をひらかず、答えるときは丁寧に、控え目であったものです。ところが今では、彼らは大人のむれに交じり、一緒におしゃべりし、自分の意見を吐き、市長さんが何か言った時などには、彼の鼻の下で笑い出しさえし、何でもずっとよく知っているよと吹聴するしまつでした。
 これまでグリュンヴィーゼルの若者たちは、低俗な卑しいことを蔑んできました。今では彼らは、あらゆる種類のひわいな歌を歌うようになり、とてつもなく太いパイプで煙草をふかし、いかがわしい酒場に出入りするようになりました。また目が悪くもないのに、大きな眼鏡を買いもとめて、鼻の上にのせ、もうひとかどの人物であるように信じこんでいました。なにしろ、例の名高い甥と同じに見えるのですから。家にいる時も、人の家を訪問している時も、彼らは拍車のついた長靴をはいたままソファーに寝そべり、また上品な人の集まる中で、腰かけた椅子を前後にぶらぶらさせたりしました。またテーブルに両ひじをついて、両こぶしで頬を支えることが、今ではたいへん魅力的なことと見なされました。母親や友だちが、こうしたすべてのことがいかに馬鹿げたことか、いかに見苦しいことであるかを注意したところで、むだでした。彼らは輝かしい模範である、例の甥を引き合いに出したからです。また、若いイギリス人であるこの甥に対しては、ある種の国民性である粗暴さを大目に見なければならないのだからと説き聞かせても、むだでした。グリュンヴィーゼルの若者たちは、どんなイギリス人にも劣らず、気の利いたやり方で無作法である権利があるのだ、と言い張ったからです。要するに、この甥御の悪い模範によって、グリュンヴィーゼルの風習や良い習慣がすっかりすたれてしまった有様は、嘆かわしいばかりでした。
 けれども、若者たちの粗暴な、羽目をはずした愉快な生活は、いつまでもつづきませんでした。と言いますのは、次にお話しする出来事が、一夜にしてすっかり事の有様を変えてしまったからです。冬の娯楽のしめくくりとして、大きなコンサートが開かれることになっていました。その音楽会は、半ばは町の楽師によって、半ばは町の上手な愛好家によって演奏されることになっていました。市長さんはチェロをひき、お医者先生はファゴットをたいへん上手に吹きました。薬剤師はまったく自己流でフルートを吹き、町のいくたりかの少女はアリア(歌曲)を学んでいました。すべての準備がとどこおりなく進められていました。すると、ある時老紳士が言いますには、――「なるほど音楽会はこのままでも、すばらしいものになるでしょう。しかし、なんと言っても、デュエットが欠けていてはいけませんな。デュエットというものは、そも正式な音楽会には、なくてはならないものですからな。」人々はこの意見に、いくらか当惑しました。市長さんの娘さんは、ナイチンゲールのように歌うことができたのですが、彼女とデュエットを歌える紳士が見つからなかったのです。そこで仕方なく、昔はすばらしい低音で歌うことのできた、老オルガン奏者に頼むことにしました。ところがよその旦那は、「その必要には及びません。私の甥がすばらしい歌い手であるから」と言うのです。人々は、この若者の思いがけない才能に、少なからず驚きました。ためしに歌わせてみますと、イギリス風であろうと思われる若干の妙な歌い方をべつにすれば、まるで天使のように歌うのでした。そこで、急いでデュエットの稽古をすることになりました。そして、いよいよグリュンヴィーゼルの人々の耳を楽しませる、音楽会の晩がやってきました。
 異国の老紳士は、遺憾なことに病気になり、彼の甥の得意絶頂の場にいあわせることが出来ませんでした。そこで彼は、開演の一時間前に訪れてきた市長さんに、甥のあつかい方についてニ三のアドヴァイスをしました。「私の甥は、根はよい人間なのです」と彼はこんなふうに言いました。「ところが、ときたま、あれこれの気まぐれを起こして、馬鹿げたことをしでかすのには、困ったものです。そのことが気がかりで、コンサートにゆくことが出来ないのが、まことに残念です。私の前では、彼はすっかりおとなしくなるのです。こりごりしていますからな。とは言え、彼の名誉のために申しあげておきますと、決して精神上の気まぐれというわけではなく、こいつは身体的なものなのですな。彼の生まれつきそのものに原因があるのです。どうか市長さん、もし彼が気まぐれを起こして、譜面台の上に飛び乗ったり、またはしゃにむにコントラバスを弾こうとしたり、そんなふうなことをしでかしたならば、どうか彼の幅広のネッカチーフをすこしゆるめてやってください。もし、そのようにしてもおさまらない場合は、そいつをすっかりはずしてやってください。そうすれば、彼はすっかりおとなしく、行儀よくなるのがお分かりでしょう。」
 市長さんは、病人からこのように打ち明けて相談されたことを感謝し、もし困ったことが起きた場合には、おっしゃたとおりにいたしましょう、と約束しました。
 音楽会が行われる大広間は、人の群れでうまりました。グリュンヴィーゼルの町中の人と、近在の人がつめかけていました。猟師も牧師も、役人もお百姓も、およそ三時間もあればやって来れる近在の人たちが、グリュンヴィーゼルの町の人たちと、めったにない楽しみを分かち合おうとして、一家総出で続々とやってまいります。町の楽隊の演奏は素晴らしいものでした。彼らのあとに市長さんが登場しまして、薬剤師のフルートの伴奏で、チェロを演奏しました。そのあとオルガン奏者が低音でアリア(歌曲)を歌い、万雷の拍手を受けました。そしてお医者先生もまた、ファゴットの腕前を披露したときには、少なからぬ喝采を受けました。
 コンサートの第一部が終わり、聴衆はいよいよ第二部が始まるのを心待ちにしていました。例の若い外国人が、市長さんの娘とデュエットを歌うことになっていたからです。この甥御はきらびやかな服装で現われ、もうとうから聴衆の注目を一身に集めていました。と言いますのは、近在の伯爵夫人のためにもうけられた立派な安楽椅子に、この甥御が、遠慮も会釈もなく腰かけていたからです。彼は両脚を長々とつき出し、大きな眼鏡だけでは足らずに、ばかに大きな望遠鏡で、だれかれとなく覗きまわっていました。そして犬を伴うことは禁じられていたにもかかわらず、大きなマスティフ犬を連れこんでたわむれていました。安楽椅子のわざわざ用意された伯爵夫人が姿を現わしても、この甥御は立ち上がって席を譲ろうという様子がないばかりか、いっそう心地よさそうにおさまりかえる始末でした。この若者に忠告しようという勇気のあるものは、だれもいませんでした。その貴婦人は、仕方なく町のおかみさんたちにまじって、そまつな藁の椅子に坐らねばならず、たいそうご機嫌をそこねたということです。
 市長さんがすばらしい演奏をし、オルガン奏者がみごとなバスで歌っている間、またお医者先生がファゴットの即興演奏を聞かせたときでさえ、だれもが息をつめて聞きほれているというのに、この甥御はハンカチを投げて、犬に取りにやらせたり、となりの者と大声におしゃべりしたりする始末ですから、彼を知らないものは皆、この若い紳士の風変わりな作法に首をかしげたものでした。
 そこで、彼が一体どんなデュエットを歌うものやら、誰もが好奇の念にかられたのも、無理からぬことでした。第二部が始まり、町の楽隊が小さな曲を演奏したあと、市長さんが娘を連れて、くだんの若者のところへ歩み寄り、譜面を手渡し、言いました。「ムッシュー(あなたさま)、デュエットをお歌いになられますか。」若者は笑い声を立て、歯がみをし、勢いよく立ち上がりました。二人は彼のあとについて、譜面台のところへ行きました。満座の聴衆は、期待に静まりかえりました。オルガン奏者がタクトを振り、甥御に開始の合図を送ります。甥は大きな眼鏡の裏から譜面を覗きこみ、ぞっとする、なんとも嘆かわしい声音を発しました。オルガン奏者は彼に叫びました。「音程を二つ、お下げになって。あなた、ドですよ、ドを歌ってください。」
 ところが、ドを歌うどころか、この甥御は靴を片方ぬぎさり、オルガン奏者の頭を目がけて投げつけたものですから、髪粉があたり一面にまい立ちました。この有様を見て、市長さんは考えました。――なるほど、例の身体上の発作とやらを、またまた起こしたらしいわい。そこで、ただちに飛んでゆき、彼の首根っこを押さえ、首の布を少しゆるめてやりました。ところが、その結果は、若者の容態をますます悪くするばかりでした。もうドイツ語などはおかまいなしに、だれにも理解できない奇妙きてれつな言葉をしゃべり、高くとびはねました。市長さんはこうした不快な中断が生じたことに、すっかりあわててしまい、若者の身に何かとんでもない事態が起こったにちがいないと考え、首の布をすっかり取り去ってしまうことに決めました。ところがそれを実行したとたんに、市長さんは恐怖のあまり凍りついたようになってしまいました。それと言うのも、人間の皮膚と色との代わりに、その若者の首のまわりは、黒ずんだ褐色の毛でおおわれていたからです。若者はすぐさま、いっそう高く、いっそう奇怪な恰好でとびはねつづけ、つやつやした手袋でみずからの髪の毛をまさぐり、それを引き抜きました。すると、なんと驚いたことに、その美しい髪の毛はかつらであって、そいつを市長さんの顔を目がけて投げつけたのですが、現われてきた彼の頭は、同じ褐色の毛でおおわれていました。
 彼はテーブルや長椅子を跳びこえ、譜面台をひっくり返し、ヴァイオリンやクラリネットを踏みつぶし、まるで狂った者のようでした。「彼をとらえてくれ。彼をとらえてくれ。」市長さんはわれを忘れて叫びました。「彼は正体をなくしているのだから、取り押さえなければ。」そうは言っても、それは至難のわざでした。と言うのは、彼は手袋をぬぎすて、両手の爪を立て、そいつでもって人の顔におそいかかり、さんざんにひっかく始末でしたから。やっとのことで、一人の勇敢な猟師が、彼をとらえることに成功しました。彼は若者の長い両腕をたばにして押さえてしまいましたので、若者はただ足をばたつかせ、しゃがれた声で笑いたて、叫びたてるだけでした。人々はまわりに集まり、今ではもうとても人間とは思われない、この異様な若い紳士を観察しました。すると、隣の町に住む一人の学者先生が進みでてきました。彼は大きな博物標本室を持ち、いろいろな剥製の動物を集めていました。彼は若者をしげしげと観察し、いかにも不思議そうに叫びました。「一体全体、紳士淑女の皆さん、この上品な音楽会に、どうしてこんな動物をつれこみなどしたのですか。これは学名をホモ・トログロディテス・リンナイと申しまして、お猿さんです。もし私にお売りになるのなら、この場で銀貨六枚を支払いましょう。私はこれを私の標本室のために、剥製にするつもりです。」
 この言葉を聞いたときのグリュンヴィーゼルの人たちの驚きを、誰が言い表わせましょうか。「なんですと。猿ですと。私たちの社交界にオランウータンですと。あの外国の若者が、なんの変哲もない一匹の猿だったなんて。」ー―彼らは叫びました。そして驚きのあまり、たがいに間の抜けた顔を見合わせていました。とても信じられない、耳を疑う言葉でしたが、男たちがその動物をつぶさに調べてみますと、やはり一匹のありふれた猿であり、猿にちがいありませんでした。
 「こんなことがあってよいものかしら!」市長夫人が叫びました。「彼は私にたびたび詩を朗読してくれたのではなかったかしら。ほかの人のように、私の家で昼食を食べたのではなかったかしら。」
 「なんですって」お医者の夫人は気色ばみました。「一体どういうことなのでしょう。彼はたびたび私の家でコーヒーをたっぷり飲み、私の夫とむずかしい会話をし、煙草をふかしてはいなかったかしら。」
 「なんともはや、こんなことは考えられない」男たちは叫びました。「彼は私らと山の居酒屋で九柱戯をきそい、私らの一人として政治について議論を戦わせなかったろうか」
 「一体どういうことなのだ」彼らは一斉に嘆かわしげな叫びをあげました。「しかも彼は、私らの舞踏会で一番に踊りはしなかったか。猿だって! ただの猿だって? こいつは奇蹟だ。魔法にちがいない。」
 「そのとおり、これは魔法であり、悪魔のつかわした魔物にちがいない」市長さんはそう言って、甥(ネッフェ)ではなく猿(アッフェ)のつけていたネッカチーフを拾いました。「ごらんなさい、この布切れの中に魔法がこめられていたのです。おかげで彼は私らの目に、愛すべき若者に見えたのです。おや、ここに柔らかな羊皮紙の大きな切れはしがありますな。不思議な文字がいろいろと書かれているようです。ラテン語かもしれませんな。どなたか読める方はござらんか。」
 主任司祭殿が前へ出て、この人は学のある人で、この猿としばしばチェスを戦わせて負けていたのですが、その羊皮紙を調べて言いました。
 「なあに、これはただのラテン文字でつづられたものですよ。こう書いてあります。
  猿はたいへん道化者である、
  とりわけ林檎をかじる時は。
 なるほど、なるほど、これはとんでもない詐欺ですな。一種の魔法ですな。」彼はつづけました。「これは見せしめのために罰してやらねばいけません。」
 市長さんも同じ意見でした。そして魔法使いであるにちがいない外国人の家へ、ただちに向かいました。六人の町の兵隊が、猿を運びました。その外国人の裁判が、ただちに開かれることに決まったからです。
 一行は無数の野次馬にとりまかれて、荒れ屋敷へとやってまいりました。だれもが事の成り行きを見まもっていたかったのです。家のドアを叩き、呼び鈴を引っぱりましたが、応答がなく、だれも出てくる様子はありません。そこで、市長さんは怒りにまかせて、扉を打ち破らせ、外国人の部屋へと押し入りました。ところが部屋の中には、いろいろな古い家具調度のほかには、何ひとつ見当たりません。異国の男の姿は消えていました。けれども彼の書き物机の上に、一通の大きな、封印された手紙が置かれていました。宛名は市長さんになっていまして、市長さんはすぐさま封を切りました。

 「わが親愛なるグリュンヴィーゼルの皆さまへ

 あなた方がこれを読まれる頃は、私はもはやあなた方の小さな町にはおりません。そしてあなた方はとっくに、私の愛しい甥がどういう身分のもので、どこの国のものであるかを、ご存知のことでしょう。私があなた方にあえて行った悪戯は、よき教訓としてお受け取りください。独り静かに暮らそうと思う異国のものを、むやみにあなた方の交わりに引っぱりこもうとはなさらぬことです。私個人といたしましては、あなた方のうんざりするおしゃべりや、あなた方の悪しき慣わしや、あなた方の笑うべき行いを共にするには、私自身をいささかましなものと考えております。そこで私は一匹の若いオランウータンを教育いたした次第でして、あなた方は私の代理人として、彼が大変お気に召したようですな。ではご機嫌よろしゅう。この教訓をせいぜいお生かしになるよう。」

 グリュンヴィーゼルの人たちはドイツ国民の手前、少なからず面目を失った思いをしました。彼らの慰めは、この出来事が一から十まで、魔法のしわざであったということでした。けれども、一番面目をなくしたのは、グリュンヴィーゼルの若者たちでした。彼らはなにしろ、お猿の悪い習性やふるまいを真似していたのですから。彼らはそれからというもの、頬杖をつくことがなくなり、椅子をぶらぶらさせることもなくなりました。人にものを尋ねられている途中で、口ごたえすることもなくなりました。彼らは眼鏡をはずし、もとのとおりに行儀よく、礼儀をわきまえるようになりました。そしてだれかが、そうした悪い、笑うべきふるまいにおちいると、グリュンヴィーゼルの人たちは、「お猿の真似をしている」と言いました。長い間若い紳士の役を演じていた当の猿は、博物の標本室の持ち主である学者先生に引き渡されました。彼は家の庭にこの猿を放しておき、えさをやったり、訪れてくる外国人に珍獣として見せたりしています。そこへ行けば、今でもその猿を見ることができます。



原題:Der Junge Englaender
作者:ヴィルヘルム・ハウフ
翻訳:脩 海
入力:マリネンコ文学の城
UP:2010.2.13