「HIGEさんのスポーツ救急救命」 
HIGEさんのコラム
D「エルトゥールル号の遭難」


皆さん,こんにちは。HIGEです。 「HIGEさんのコラム」第5回は,前回に引き続き「HIGEさんのスポーツ救命救急」の親HPであります「バスケットボールの家庭教師」の「特集」でもご紹介をしている「エルトゥールル号の遭難」という実話をご紹介致します。

 2002年に開催された日韓共催のサッカーワールドカップにて、ベスト8を賭けた決勝トーナメントの初戦で日本はトルコと対戦しました。
 結果は1−0とトルコが勝ちましたが,トルコの国民は日本と戦うことをとても楽しみにしていたそうです。それはトルコが日本に勝てそうだからとかいうことではなく、ある「歴史の物語」の中にその答えがありました・・・これからその歴史の物語を紹介します。

                 2002年W杯 日本VSトルコ戦
                  2002年W杯 日本VSトルコ戦

この「物語」は,前回の「トマソンと少年」同様に,あまりにもいいお話しですので,この「HIGEさんのコラム」でもご紹介させて頂くことに致しました。 
 暗い話題が多い昨今ですが,このコラムが一服の清涼剤になってくれれば幸いです。

【小さな歴史の物語】 エルトゥールル号の遭難 〜生命の光から〜

和歌山県の南端に大島がある。その東には灯台がある。
明治三年(1870年)にできた樫野崎灯台は今も断崖の上に立っている。

                  樫野崎灯台
                        
樫野崎灯台

びゅわーんびゅわーん・・・猛烈な風が灯台を打つ。
どどどーんどどどーん・・・波が激しく断崖を打つ。台風が大島を襲った。
明治二十三年九月十六日の夜であった。
午後九時ごろ、「どどかーん」と、風と波をつんざいて、真っ暗な海のほうから音がした。
灯台守(通信技手)ははっきりとその爆発音を聞いた。
「何か大変なことが起こらなければいいが」灯台守は胸騒ぎがした。
しかし、風と、岩に打ちつける波の音以外は、もう、何も聞こえなかった。

このとき、台風で進退の自由を失った木造軍艦が、灯台のほうに押し流されてきた。
全長76メートルもある船。しかし、まるで板切れのように、風と波の力でどんどん近づいてくる。
「あぶない!!」灯台のある断崖の下は「魔の船甲羅」と呼ばれていて、海面には岩がにょきにょき出ている・・・「ぐうぐうわーん、ばりばり、ばりばりばり。」
船は真っ二つに裂けた。その瞬間、エンジンに海水が入り、大爆発が起きた・・・
この爆発音を灯台守が聞いたのだった。

乗組員全員が海に放り出され、波にさらわれた。
またある者は自ら脱出した。真っ暗な荒れ狂う海。どうすることもできない。
波に運ばれるままだった。そして、岩にたたきつけられた。
一人の水兵が、海に放り出された。大波にさらわれて、岩にぶつかった。
意識を失い、岩場に打ち上げられた。

                  エルトゥールル号が遭難した岩礁
                  
エルトゥールル号が遭難した岩礁

「息子よ、起きなさい・・・」
懐かしい母が耳元で囁いているようだった。「お母さん!」という自分の声で意識がもどった。
真っ暗な中で、灯台の光が見えた。「あそこに行けば、人がいるに違いない」そう思うと、急に力が湧いてきた。40メートルほどの崖をよじ登り、ようやく灯台にたどり着いたのだった。

灯台守はこの人を見て驚いた。服がもぎ取られ、ほとんど裸同然であった。顔からは血が流れ、全身は傷だらけ・・・ところどころ真っ黒にはれあがっていた。灯台守は、この人が海で遭難したことはすぐわかった。「この台風の中、岩にぶち当たって、よく助かったものだ」と感嘆した。

「あなたのお国はどこですか」,「・・・・・・」言葉が通じなかった。
それで「万国信号音」を見せて、初めてこの人はトルコ人であること、船はトルコ軍艦であることを知った。また、彼の身振りで、多くの乗組員が海に投げ出されたこともわかった。

「この乗組員たちを救うには人手が要る・・」傷ついた水兵に応急手当てをしながら、灯台守はそう考えた。「樫野の人たちに知らせよう」灯台からいちばん近い樫野の村に向かって灯台守は駆けだした。

電灯もない真っ暗な夜道。人が一人やっと通れる道。灯台守は樫野の村に着くと,村人たちに急を告げた。村人達と灯台守が灯台にもどると、十人ほどのトルコ人がいた。全員が傷だらけであった。助けを求めて、みんな崖をよじ登ってきたのだった。

この当時、樫野には五十軒ばかりの家があった。船が遭難したとの知らせを聞いた村の男たちは、総出で岩場の海岸に下りた。
だんだん空が白んでくると、海面にはおびただしい船の破片と遺体が見えた・・目をそむけたくなる光景であった。

村の男たちは泣いた。遠い外国から来て、日本で死んでいく・・・
男たちは胸が張り裂けそうになった。「一人でも多く救ってあげたい」しかし、大多数はもう動かなかった。
一人の男が叫ぶ。「息があるぞ!」だが触ってみると、ほとんど体温を感じない。村の男たちは、自分たちも裸になって、乗組員を抱き起こし,自分の体温で彼らを温めはじめた。
「死ぬな!」「元気を出せ!」「生きるんだ!」村の男たちは、我を忘れて温めていた。

次々に乗組員の意識がもどった。船に乗っていた人は600人余り。
しかし助かった人はわずかに69名だった。この船の名が「エルトゥールル号」である。

                 エルトゥールル号の模型
                  
 エルトゥールル号の模型

助かった人々は、樫野の小さいお寺と小学校に収容された。当時は、電気、水道、ガス、電話などはもちろんなかった。
井戸もなく、水は雨水を利用した。サツマイモやみかんがとれた。漁をしてとれた魚を、対岸の町串本で売ってお米に換える貧しい生活であり各家庭では、にわとりを飼っていて、非常食として備えていた。このような村落に、69名もの外国人が収容されたのだ。
島の人たちは、生まれて初めて見る外国人を、どんなことをしても、助けてあげたかった。だが、どんどん蓄えが無くなっていく。ついに食料が尽きた。台風で漁ができなかったからである。

「もう食べさせてあげるものがない・・・どうしよう!」一人の婦人が言った。
「まだ,にわとりが残っている」「でも、これを食べてしまったら・・・・・」「お天とうさまが、守ってくださるよ・・・」女たちはそう語りながら、最後に残ったにわとりを料理して、トルコの人達に食べさせた。
こうして、トルコの人たちは、一命を取り留めたのであった。また、大島の人たちは、遺体を引き上げて丁重に葬った。

このエルトゥールル号の遭難の報は、和歌山県の知事に伝えられ、そして明治天皇に言上された。明治天皇は、直ちに医者、看護婦の派遣をなされた。
さらに礼を尽くし、生存者全員を軍艦「比叡」「金剛」に乗せて、トルコに送還なされた。
このことは、日本じゅうに大きな衝撃を与えた。日本全国から弔慰金が寄せられ、トルコの遭難者家族に届けられた。

次のような後日物語がある。

イラン・イラク戦争の最中の1985年3月17日の出来事である。

イラクのサダム・フセインが、「今から四十八時間後に、イランの上空を飛ぶすべて の飛行機を撃ち落とす」という無茶苦茶なことを世界に向けて発信した。
日本からも企業の人たちやその家族が、イランに住んでいた。
その日本人たちは、あわててテヘラン空港に向かったが,どの飛行機も満席で乗ることができなかった。
世界各国は自国の救援機を出して、自国民の救出をしていた。
しかし・・・日本政府は素早い決定ができなかった。日本人が乗れる飛行機は無かった・・・空港にいた日本人はパニック状態になっていた。

そこに、2機の飛行機が到着した。トルコ航空の飛行機であった。
トルコ空港機は,テヘラン空港にいた日本人215名全員を乗せて、成田に向けて飛び立った。タイムリミットのわずか1時間15分前であった。
なぜ、トルコ航空機が来てくれたのか・・・・?
日本政府もマスコミも,救出された当の日本人達もその理由を知らなかった。

前・駐日トルコ大使ネジアティ・ウトカン氏はその理由を次のように語った。

「エルトゥールル号の事故に際し、大島の人たちや日本人が私達トルコの国民にしてくださった献身的な救助活動を今もトルコの人たちは忘れていません。
私も小学生のころ、歴史の教科書で学びました。トルコでは、子どもたちさえ、エルトゥールル号のことを知っています。今の日本人が知らないだけです。それで、テヘランで困っている日本人を助けようと、トルコ航空機が救助に飛んだのです。」
以上、エルトゥールル号の話は100年以上前の真実で、イラン・イラク戦争時には、多くの日本人がトルコの人によって救われました。

       トルコ記念館
             
樫野崎灯台に続く遊歩道にある「トルコ記念館」

決して、多くの日本人に知られてはいないこの真実をあなたはどう思いましたか?
暗いニュースが多い世の中に,ほんの少しやさしさを取り戻せる,この『小さな歴史の物語』が、また、あなたに何かを思い出させてくれることを・・・・(おわり)


 「エルトゥールル号の遭難」・・・いかがでしたでしょうか?

 心温まる感動的な実話ですよね・・・

「一人でも多く救ってあげたい」しかし、大多数はもう動かなかった。
一人の男が叫ぶ。「息があるぞ!」だが触ってみると、ほとんど体温を感じない。
村の男たちは、自分たちも裸になって、乗組員を抱き起こし自分の体温で彼らを温めはじめた。「死ぬな!」「元気を出せ!」「生きるんだ!」村の男たちは、我を忘れて温めていた・・・・

・・・というこの下りは,私達,救急隊員や消防隊員そして救助隊員の「原点」なんじゃないかなって思いました。
 そして,私達日本人は本来,こういう「助けるという気持ちを持った民族」なんだとそう思いました・・・そんな日本人なのに,どうして今のような世の中になってしまったんでしょう・・・・

 この「小さな歴史の物語」は,当時の救助現場である「樫野崎灯台」に続く遊歩道に建設された「トルコ記念館」においてひっそりと紹介されているのですが,なぜこんなにも素晴らしい実話がごく一部の人しか知らないのでしょうか・・・
 トルコでは「歴史」の授業で国民の誰もがみんなが知っているのに,なぜ日本では小中学校の教科書に載せられていないのでしょうか・・・
 数学の「2次方程式」よりも,英語の「過去形」,「現在進行形」よりも,数倍大切なものなのではないかと私は思います。

 「教育指導要綱の改正」によって,小学校や中学校から「道徳」という授業が無くなり久しくなりましたが,これと同時に犯罪の低年齢化が激増したと聞きます。
 「学力偏重主義」と「学歴第一主義社会」という,国の「誤った選択」が,本来,日本人の持っていた「相互扶助」,「思いやり」の心をどこかにふっ飛ばしてしまった結果,このような時代を産みだしてしまったような気がしてなりません。
 長崎県で発生した「小学校6年生による同級生殺人事件」や「女子中学生による小学生放り投げ事件」,さらに続発する「児童虐待」など,数えあげればきりがないくらい,低年齢層による犯罪は激増しています・・・

 私が小学校の頃,「算数」や「理科」の時間はあまり好きではありませんでしたが,「道徳」の時間だけは好きでした・・・
 第2次世界大戦の最中,ナチスドイツに迫害を受けていた多くのユダヤ人を救うために入国許可のビザを書き続けたという,「杉原千畝」の話などは,小学生時代に「道徳」の時間に習い,感動しました・・・もちろん,それを子供達に判りやすく話してくれた先生の力も大きいんですが・・・このように,小学生の時に「いい話」を聞く事は「心の成長」に大きく影響するのではないかと思います。

 こんな先行きの暗い時代の今だからこそ,「道徳」の授業は復活してもらいたいなぁって思っていますし,その「道徳」に授業において,先の「HIGEさんのコラムC」でもご紹介した「トマソンと少年」や,今回ご紹介した「エルトゥールル号の遭難」などという心洗われるような実話を紹介して欲しいなと思っています。
 大人の私でさえ,この2つの実話から,様々な事が学べたのですから,子供達ならもっともっと多くの事を学べるはずだと思うのですが・・・・皆さんはどう思われますか・・・(HIGE)

 

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