透明な不吉さ 

 佐藤好彦の作品に初めて出会ったのは、彼が応募して来たあるコンペティションに、審査員として参加したときのことだった。12本ネックのストラトキャスターを彫刻として提示する<Present Arms>というアイデアに驚かされると同時に、その無意味さに感じ入った。
−−無意味? そう、彼の作品の本質は、エレクトリック・ギターやモーターサイクル、そしてスチームアイロンやオーディオ・スピーカーといった「製品」が、すでにわれわれの生活にとって欠かせない一部となったにもかかわらず、依然として、それらが持つ意味が、ほんとうのところは判然としてない、もしかして無意味である、ということを、倫理的な判断を保留したまま、極端にブーストしてみせたようなところがある。
 つまり佐藤は、すでに日常に馴化しているこれらの製品の「かたち」を、引き延ばしたり反復したりすることで、それらが本来持っているアンチ・ヒューマンな造形性を、目に見えるものとする。こうした製品は、日頃「ひとにやさしい」とか「人体工学に倣って」などと称して、その本性を覆い隠しているが、実際には人の能力や形態をはるかに超えた轟音、灼熱、高速、重量などを確実に持っている。それらは容易に、われわれの生命を脅かし、押しつぶし、塵に帰してしまいかねない性質のものだし、事実、そういうことは日夜、起っている。そうした凶暴さを、なだめ、だまし、いわば巧妙に纏足し、そのことでわれわれの生は、かろうじて補填され、引き延ばされ、明日を志向することができるのだ。
 こうした「製品」の対極に位置するのが、いってみれば「作品」だろう。「作品」は、もともと人の手でつくりだされたこともあって、基本的には人と等身大の本性を持っている。たとえ、鉄のような素材によって超重量になったとしても、それはどこかで、人体のスケールを内包しているものであり、ゆえに、見る者の目や脳、身体と共振しうるのだ。「製品」ではそうはいかない。究極の「製品」が「大量破壊兵器」であるように、その際限は遠く人類の存続を危機に陥れるような性質を備えている。おそらく、佐藤がみずからの「作品」に見ているのは、そうした「製品」を前にして、「作品」になしうることは、いったいなんなのか、と問うことの「無意味さ」を、ただし「かたち」において、いかに徹底できるか、ということなのではないか。まともな芸術家であれば、こんなことは考えない。作品は「作品」、製品は「製品」と割り切ってしまえることだろう。しかし、「まとも」な芸術家ではありえない佐藤は、われわれの生そのものが「製品」によって維持され、かろうじて成立しているような場所で、そもそも「作品」にどんな意味があるのか、ということを、知っている。けれども、日常に浸透しながら、ふだんはまったく見えてこない、こうした問いを、ある「かたち」になしうるのが、そもそも芸術家に特有のいとなみであり、それゆえにこそ芸術家は、その本性において「不吉」なのではなかったか。あらためていっておけば、芸術家に固有の、こうした不吉さの指標とは、けっして、作品に現れたわかりやすい不吉さの徴候であってはならない。この世界では、けっきょく不吉に見えるものは安全であり、人畜無害なのだ。そんなものは、不吉さのイメージをめぐる戯れでしかない。反対に、もっとも不吉なのは、いうまでもなく安全に見えるもの、無個性に見えるもの、加害性がわかりにくいもののほうである。まるっこいデザインの自動車がひとを日夜轢き殺している、安全そうな電気ストーブが、いつ、一家を全滅させるかもしれない、そのことのほうに、わたしたちは危機を見なければ、ならないのだ。
 一見しては日常的で、見慣れた風景のオーバードライヴである佐藤の作品に、われわれが見なければならないのは、こうした「透明な不吉さ」にほかならない。今回、スピーカーを『2001年宇宙の旅』のモノリスに見立てる佐藤のアイデアがどのように展開するのか、現時点では知るべくもないが、いまこの文章を書いているデスクの両脇に立っているスピーカーから流れるレディオヘッドを聞きながら、佐藤の作品の質感が、聞く者を冷凍保存状態に導くような、このCD=『KID A』の響きに、とてもよく似ていることに気づいた。
                                              椹木 野衣  (美術評論家)

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