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名馬メモリアル(サ行)



ザッツザプレンティ
関西の名手、河内騎手、その引退が決まったのは2002年秋であった。翌年の2月一杯で引退することになっていた。
その名手に、1頭の馬の騎乗依頼が舞い込む。サンデーサイレンスの孫世代、ザッツザプレンティの騎乗依頼である。
その新馬戦は11月2日。京都競馬場の2000mであった。翌年のクラシックを目指すなら、ここか翌月の阪神2000mの新馬戦がうってつけ。当然、陣営もクラシックを意識してのローテーションであっただろう。
しかし、この新馬戦での、ザッツザプレンティの評価は、必ずしも高いものとは言い切れないものだった。サンデーサイレンス産駒のクラシック候補、スズカドリームに1番人気を譲ったのはともかくとして、その他の馬たちにも差をつけられ、人気は4番人気。単勝は17.3倍の評価であった。
レースでは、その評価はいかにも低い評価であったことがはっきすこととなった。ライバルたちを3馬身ちぎる、完勝劇。期待が膨らむのも当然であったか。
この完勝劇を受けて、次走はオープンに格上げ挑戦。京都2歳Sである。ここではファンも評価を改める。2番人気に指示されたザッツザプレンティ。最後はエイシンチャンプの強襲に破れたが、それでも2戦目での2着は十分に力を見せ付けるものであった。後に判明するのは、負かされた相手のエイシンチャンプは、朝日杯を勝ってG1ウイナーの仲間入りを果たすことであった。

そして、デビュー3戦目。クラシックの登竜門的なレースである、ラジオたんぱ杯2歳Sに、ザッツザプレンティは駒を進める。当時は今以上にこのレースの重要性が高く、ここを勝てば、まず翌年以降の活躍が約束されるようなレースであった。
天候は雨。あいにくの天気であったが、ザッツザプレンティは、湿った馬場を大得意とする。ファンの評価は2番人気であったが、メンバー的に手薄であったこと、馬場がこの馬に向いたことなどから、レースはザッツザプレンティの独壇場であった。ゴールした時、2着チキリテイオーははるか4馬身後方であった。この圧勝劇を受けて、河内騎手は、引退するのを惜しいと思ったそうである。それだけの逸材誕生か。と、叫ばれ、一躍クラシックの最有力候補に推されるようになったのである。

ところが、春のクラシックイヤーは、この馬にとっては不甲斐ないものに終わってしまうのである。
大きな期待をもって迎えられた弥生賞にしても、まったくいいところの無い6着。それでも穴人気以上の人気で迎えられた皐月賞も、さらに着順を悪くしての8着であった。
切れ味にかける。それがこの馬の走りから見られる弱点であった。ラジオたんぱ杯4馬身ちぎったように、スピードが無いわけではない。だが、一瞬でトップスピードに入るタイプではなく、じわじわと伸びる。しかし、トップスピードを長く保つことができる。そういった馬であったように思う。

この特徴がはっきりしてきた日本ダービー。さすがにファンも今回は人気を落とした。しかし、馬場は今回は重馬場。この馬にとって、悪いコンディションではない。今までは完膚なきまでに打ちのめされていた相手であったが、今回の頑張りは違う。ネオユニヴァース、ゼンノロブロイの切れ味の前には敵わなかったものの、ロングスパートからの少差3着であった。

切れ味勝負では敵わない。だが、秋には、切れ味以外の要素でも勝負になる大一番。長距離の菊花賞が待っていた。一度はファンに期待されたこの馬、クラシックのタイトルは何としても欲しいところであった。
まずは前哨戦、神戸新聞杯。2000mのレースで、ゼンノロブロイが見せ付けた、驚異的なまでの切れ味の前には、なすすべなくの4着。切れ味勝負では話にならない。だが、この馬の持久力を信じるものが居た。河内騎手の引退を受け手綱をバトンタッチされていた、安藤勝己騎手。本番では、この地方から来た名手の手綱が冴え渡るのである。

迎えた菊花賞。ラジオたんぱ杯を征し、クラシック候補と呼ばれたこの馬も、その後は勝ち鞍をつかむことは敵わず、ファンの支持もこのころには失いつつあった。クラシック最後のチャンスの今回、人気も落ちた。鞍上は名手安藤勝己。切れ味には欠くものの持久力のあるこの馬にはベストの淀の3000m。条件は整った。
レースは中段からのものとなり、別段普段と変わらないレースであった。だが、残り1000m付近から、一気にスパートする影があった。ザッツザプレンティと安藤勝己。
日本ダービーでも見せたロングスパートであったが、この競走では、それをはるかにしのぐ、超ロングスパート。この位置から仕掛けるのは、定石から外れており、並の馬では最後確実に止まる。だが、ザッツザプレンテの持久力は、多馬を大きく上回っていたのである。
ロングスパートからの直線。このレースに三冠のかかるネオユニヴァースが仕掛けてくる。これでも、通常のスパートよりも早い仕掛けではあったろう。だが、ゼッツザプレンティはそれ以上のロングスパート。最後に息が切れるのはザッツの方であろうと思われた。だが、直線でムチが入ると、ザッツザプレンティはさらに伸びるのである。むしろ、このスタミナ比べに止まったのはネオユニヴァースの方であった。
最後はリンカーンと横山典騎手が切れ味を見せて迫るが、ザッツザプレンティを交わすには至らない。そして、長い長いスパートの果てに、菊の大輪を手にしたのは持久戦に賭けた、ザッツザプレンティであった。

持久力の名馬、ザッツザプレンティはその後も、G1路線を大いに沸かせ、特に馬場が重くなった時に、その力をフルに発揮した。だが、ついにG1再奪取はならなかったのである。
しかし、菊花賞で見せた長い長いスパートは、その後ディープインパクトの天皇賞まで見ることはできなかったように、並の馬にできる芸当ではなかった。桁違いのスタミナを持ったこの名馬、ザッツザプレンティだからこそできた、好レースだったように思う。

通算成績16戦3勝。G1、1勝。近年まれに見るロングスパートを見せてくれた名馬だった。

サニーブライアン
近年のクラシックでは、クラシックまでに能力の比較は付いて、本番では上位数頭で争われるようなことが多いが、97年クラシックは様相が違った。その嵐の中心にいたのが、このサニーブライアンである。

サニーブライアンの初戦は東京1800mの新馬戦。後に波乱を呼ぶことになる逃げの戦法を駆使して、2馬身半差の完勝であった。勢いに乗って、連勝すれば、来年のクラシックでも通用することになる。しかし、サニーブライアンは、この後勝ちあぐねるのである。

2戦目から6戦目まで、それなりの人気を背負っては、いつも勝ちきれない競馬を続けた。重賞にも挑戦したが、まったく歯が立たないと言っていい敗戦を期してしまう。初戦の勝ちっぷりは影を潜めこれではクラシックどころか、オープンで勝ち負けするのも時間がかかるだろうと思われるようになっていた。

そのサニーブライアンに転機が訪れるのが、年明けの2戦目、ジュニアカップである。当時のジュニアカップは、2000mで行われており、クラシック第1弾の皐月賞と同じ距離、コースで行われていた。そこでサニーブライアンは、新馬以来の逃げ切りを演じるのである。しかし、レースがスローだったこと、相手関係が楽であると見られたことから、評判は上がらなかった。

評判が上がらないことが正当であることを示すかのように、サニーブライアンはその後、敗戦を二つ続ける。皐月賞トライアル弥生賞では3着、同じくトライアル若葉S4着であった。近代競馬において皐月賞トライアルを二つ使うことは極めてまれである。ましてや、弥生賞で3着。一応の出走権は得ている馬がもう1度トライアルに使うことは、普通は無いと言っていい。クラシック前に消耗すれば、クラシックでの勝ち負けはおぼつかないと読まれることが多いためで、それは実際正しいことが多い。
しかし、2度トライアルを使われたことによって、サニーブライアンの中で、何かが目覚めた。しかし、一般のファンも、マスコミも、その変化を読むことは難しかった。なにしろ、弥生賞は3着とは言え、勝ち馬からは7馬身も離されており、ここまでに8戦を消化してきたサニーブライアンに更なる上積みがあるとは考え辛かったのだ。

そんなことから、皐月賞は11番人気の評価に甘んじる。サニーブライアンは、トライアルのように好位から追走するのではなく、逃げの手を選ぶ。それまでのサニーブライアンなら、逃げても結果は出なかったかも知れない。しかし、彼は目覚めた。誰にも気づかれることなく。
直線、人気馬が殺到する。しかし、マイペースで逃げたサニーブライアンは、最後は詰め寄られ、なんとかと言った感じではあったが、逃げ切った。11番人気馬の大激走、見事なクラシック制覇であった。

しかし、それでも多くのファンはサニーブライアンの実力を認めなかった。マイペースで逃げたことに勝機があったのであり、直線がはるかに長くなるダービーでは、他の人気馬に差されるだろう。それが多くのファンの共通した認識となっていた。
そして迎えた日本ダービー。皐月賞を制しながら、サニーブライアンは6番人気に甘んじた。そして、クライマックスは訪れる。
前走と同じように逃げの手をうつサニーブライアン。人気馬は後方から脚をためる。4角を回って、直線。皐月賞よりも、はるかにいい手ごたえで回ってきたサニーブライアンは、長い直線をものともせず、逃げる。逃げる。捕らえるはずの人気馬は、ついにサニーブライアンを捕らえられなかった。日本ダービーののゴールを、1着で駆け抜けた。
大西騎手がレース後、「皐月賞より直線が短く感じた」と語る。大楽勝であった。

さあ、2冠は取った。あとは3冠目菊花賞である。さらなる逃走劇が見られるかが、期待された。しかし、激戦の疲れが、サニーブライアンの足元を襲う。屈腱炎。競走馬にとって、不治の病であった。休養させ、再起に期待するも、調教中に再び屈腱炎を再発。劇的なG12レースの逃走劇の記憶を残して、サニーブライアンは引退した。

通算10戦4勝。G12勝。クラシックまでに8戦を消化。厳しいローテーションの中で目覚め、G1を2勝した。それ以上に、ファンにフロック視されながらも2回にわたりG1を逃走Vの記憶は色褪せない。記録と、記憶。両面に残る名馬であった。


ゼンノロブロイ
サンデーサイレンス産駒と言えば、日本競馬会に多大な貢献をした大種牡馬であり、その産駒は強力無比で、弱点が無いように思われるかもしれない。しかし、それは違う。もちろん、大種牡馬であることは変わらないし、その産駒たちの強さにけちをつける気はさらさらない。圧倒的なスピード能力。G1での底力。ピーク時の圧倒的な競馬、などは他の種牡馬を大きく突き放している。しかし、どんなすさまじい種牡馬であっても、長所がある限り、短所も同時に持っているのである。サンデーの子たちの弱点として、ピークが短く、全能力を発揮できる期間が短い。そして、産駒の中には、能力はあるのに勝ちきれないレースを繰り返す馬もいる。このゼンノロブロイと言う名馬は、そういった、サンデーサイレンスの長所と短所を同時に持ち合わせる、不思議な馬だったように思う。

ゼンノロブロイのデビューは3歳の2月と遅れた。しかし、いざレースに出走すると、スローを後方からなでぎると言う強い競馬をいきなり見せ付けた。能力の片鱗は早い時期から開花しており、3戦2勝と言う成績で重賞初挑戦となった青葉賞でも、1番人気に応え、優勝し、日本ダービーの出走権を手に入れたのである。

そしてダービー。藤沢和雄調教師は、3歳の時点で、無理に馬を仕上げようとはしない。馬の成長にあわせて仕上げていくためで、そのためクラシックの時点では、完成度は80パーセントくらい。そのため、なかなか勝ちきるところまでは行かないのだが、ファンはダービーでも2番人気に支持する。それに応えるかのように、ゼンノロブロイは直線で一旦先頭に立った。最後は半馬身ネオユニヴァースに差されるものの、完成途上でのこの段階でこの競馬は、将来を約束されるものと見てもよかった。

3歳秋は神戸新聞杯から始動。天皇賞と菊花賞を両にらみという感で出走したこのレース、ゼンノロブロイは、ここまでで一番強い競馬を見せる。2着に3馬身半差。着差もついたが、それ以上の何かを感じさせる圧勝だった。ゼンノロブロイの前には、連勝街道が待ち受けていても、不思議ではなかった。

ところが、ゼンノロブロイはここから勝てなくなる。菊花賞4着、有馬記念3着、日経賞2着、天皇賞・春2着、宝塚記念4着…。常に好走はするものの、勝ちきれない。特に有馬記念や天皇賞のような大舞台では、1着馬からはかなり離されてしまい、3歳夏ごろの強さは次第に感じられなくなってしまっていた。思えば、サンデーの仔では、ピーク時以外は好走こそすれ、善戦止まりに終わる馬も多い。そういった特徴が、ゼンノロブロイに全面に出てしまっていたのかもしれない。そして、秋初戦の京都大賞典。ここでも、ゼンノロブロイはクビ差敗れ、勝ちきれない時期は、永遠に続くかと思われたのであった。

天皇賞・秋。鞍上にペリエ騎手を迎えたゼンノロブロイは、勝ちきれないレースが続いているにも関わらず、1番人気に支持される。前年の神戸新聞杯で、もっとも強い競馬を見せた、2000mの舞台で、輝きを取り戻す。ファンは、そう信じたのである。ゼンノロブロイは、それに応えるように、2000mの舞台を待っていたように、ペリエ騎手に導かれるように、ついに、ついに惜敗街道に幕を下ろすのである。同じ、藤沢厩舎のダンスインザムードが牝馬ながら2着に頑張る中、直線一気を決め、ついに勝ち星を、そして、G1のタイトルを手にしたのである。そして、充実の秋は訪れる。

ジャパンカップ。海外馬や日本の有力どころがもっとも集まるこのレースでも、能力のピークを迎えたゼンノロブロイは他馬を圧倒する。最後は完全に突き抜け、2着争いに歓声が飛ぶ中、3馬身差圧勝。そして、秋の中長距離G13連戦最終戦、有馬記念では、ゴール前タップダンスシチーを交わして、タイム2分29秒5の、JRAレコードで優勝する。タップダンスシチーと言えば、前年のジャパンカップを逃げ勝った豪傑であって、最後まであきらめない闘争心や底力が無ければ勝てる相手ではない。ピークを迎えたゼンノロブロイは、それでもきっちり交わし切った。もはや、善戦続きのゼンノロブロイの姿はなかった。秋にG13連勝。この年の年度代馬に選出される。ここでの引退も考えられたが、本格化が遅かっただけに、あと1年は持つだろうと考えられ、現役続行。翌年は海外遠征を含むローテーションが取られることが決定し、更なる躍進が期待された。
しかし、この馬のピークは、この3ヶ月間だけだったのである。

翌年は、海外遠征を考え、始動は宝塚記念。直線で不利があったことも響き、3着。それでも休み明けと言うことも考慮に入れればまずまずの着順と言えた。しかし、この3着で、再び善戦続きのゼンノロブロイが帰ってきてしまったようであった。続く海外のインターナショナルSで2着に敗れると、天皇賞は2着、、ジャパンカップは3着と、昨年勝ったレースも勝ちきれない。最後の有馬記念では馬体が絞れなかったこと、レース中に捻挫したことなどからデビュー以来最悪の8着に敗れた。ピーク時の3戦以降、ついにひとつもレースに勝つことができなかった。しかし、ピーク時の競馬は強いもので、決して最後の1年によって、それが汚されるように思ってはいけない。

通産20戦7勝。G13勝。強い時は強い競馬を見せたが、同時にもろさも抱えており、能力がピークだった4歳秋のみにしか、G1勝ち鞍は上げられなかった。しかしピーク時はG1を3連勝すると言う、別の馬のような競馬をした。強さともろさ、両面が同居した名馬と言える。