戻る   トップページへ


名馬メモリアル(ア行)



アグネスタキオン
2001年クラシックは、3頭の若駒によって動いていた。少なくても、クラシック前の時点では間違いなく3頭で動いていた。その3頭とは、クロフネ、ジャングルポケット、そしてこのアグネスタキオンである。この3頭は後にすべてG1馬となり、それぞれが名馬と呼ばれるにふさわしい実績を上げたわけだが、その中で、デビューから4戦して、ついに負けることなく去ったアグネスタキオンこそが、3強の中でももっとも強かったのではないかとする声も根強い。その4戦を振り返る。

アグネスタキオンは、父サンデーサイレンス、母アグネスフローラの仔として生まれる。
父は日本の血統に革命を起こした大種牡馬。母にはすでにアグネスフライトを出し、名牝としての地位を築いていた。兄が何々で、と呼ばれる馬は、なかなか兄を超えられないため、それなりに走っても、期待倒れに終わることが多いが、この馬は違った。

デビューは、12月の阪神競馬場芝2000m。近年は、ここで期待馬をデビューさせる厩舎も増えている新馬戦だが、期待を背負うアグネスタキオンも、ここから競争生活を始めることになる。レースは好位に付けると、直線では鋭く抜け出し、早くも大物感あふれる勝ち方であった。この時の上がりはなんと33秒8。いくらスローペースと言っても、暮れの阪神で、これだけの上がりを掲示できる馬はそうはいない。ましてやアグネスタキオンはデビュー戦。早くも、翌年のクラシックを狙える逸材と見られるようになっていた。

それを証明するように、2戦目はいきなり重賞に挑戦すると、クロフネ、ジャングルポケットなど、すでに重賞で好勝負してきた馬のあいだに入って、2番人気に支持されるのである。正直、この段階で2番人気は過剰人気の感が強かったが、レースでは、そんな観念を見事に打ち砕くのである。中段からレースを進めたアグネスタキオンは、この時も新馬戦と同じように、上がり34秒1のタイムをはじき出し、2着ジャングルポケットに2馬身半もの差をつけてゴールインするのである。新馬を勝ったばかりの馬が、重賞で完勝劇を演じたこと自体驚きであったが、後になって振り返ると、この時2着のジャングルポケットは後にダービー馬となるのである。それをまったく寄せ付けずの完勝であったのだ。当時はそんなことは知る由も無いが、しかし、勝ち時計の2分00秒8は、すでに皐月賞の勝ち時計にも等しいものであって、とんでもない化け物が誕生したとの声が、日増しに高まっていったのである。2戦目でこのタイムで走ることのできるタキオンは、どこまで強くなるのか。翌年のクラシックへの期待は高まる一方であった。

クラシックに向けて、陣営は弥生賞に使うことを決断する。これは、例年ならば、ここから始動するのがクラシックへの登竜門であり、一番クラシックに近いステップレースなのだから、普段なら、この判断は間違いなく正しい。しかし、この年は予想外の出来事が起こるのである。

弥生賞前。関東平野は大雨に襲われた。当日は雨は止んだが、ひどい馬場となってしまう。芝コースにも関わらず、後方から行った馬は泥だらけになる。そんな馬場状態であった。これが、後にアグネスタキオンの運命を変える一因になるのだが、さすがにそこまでは考える者は少なかった。当面、この馬場をアグネスタキオンは克服して勝つことができるのか。皆の関心は、そこに向いていた。

アグネスタキオンはそれでも、好位に付けると、直線ではのめりながらも伸び、2着ボーンキング以下を完封する。つけた着差は5馬身。完勝であった。不良馬場を完勝したことによって、本番皐月賞にまったく不安が無くなったという評論家もいた。それは確かであっただろう、馬が、相手の馬だけを勝負とするならば…。

そして、3戦3勝。無敗で迎えた皐月賞。当然のごとく、ファンは1番人気に推す。もう、このレースを勝つのは当たり前。負ければ取りこぼし。そんな雰囲気さえ漂うレース前であった。レースも、普段どおり、好位に付けると、直線は抜け出して、後の宝塚記念馬ダンツフレームを完封する。「無敗の皐月賞馬」の誕生である。みな、その強さを褒め称えた。ダービーもこの馬だろう。そう口に出すものもいた。実際、ひとつも取りこぼさずに皐月賞を勝つ馬はめったにいない。すでに名馬の域に達しているのは明らかであった。皐月賞も強かったように、ダービーも完勝するだろう…。みんな陽気に明日の戴冠を夢見ていたのである。
しかし鞍上の河内騎手だけは、ちょっとした「異変」に気付いていた。「2歳の時の方が、走りっぷりが良かったんだよね…」そう言った。

皐月賞が終わり、ダービーに向けて調整が始まろうとする時、アグネスタキオンに異変が現れる。屈腱炎…。アグネスタキオンの前に立ちはだかった敵の名前である。2歳時から1戦級と戦ってきたアグネスタキオンの足元は、3歳のこの時期に、すでに限界に達した。
屈腱炎は、レース中や調教中に起きることがあるために、レースでの怪我と言う印象があるが、実は運動をするごとに、毛細血管がはじけ、それが一定の限界を過ぎると、はれ上がって炎症を起こす。勤続疲労によって起こる病気なのである。
アグネスタキオンは、度重なる好タイムでの好走、それに不良馬場の弥生賞で走った経験があった。それらが、名馬の足元を、徐々に侵食していったのだった。皐月賞で思ったほど伸びないのは、当然であった。腱が、すでに爆発寸前までの状態になっていたためである。

再起不能。それが結論であった。4戦4勝。G1、1勝。不敗のまま、タキオンは競馬場を去った。光よりも早く、そして短い競争生活のうちに、タキオンは絶大な力を発揮させ、ファンはそれに魅了された。タキオンに敗れた馬の中から、ダービー馬、ジャパンカップダート馬、宝塚記念馬などが出て、タキオンがどれだけの相手をあっさり破っていたのかが、引退後に判明して行った。短い競争生活の中で強力な相手に、ついに1度も負けなかった。近代まれに見る名馬であった。

今は、種牡馬として、サンデーサイレンス系の後継馬として、大いに期待を集めている。