東浩紀に触発されて  

               2012.2.5

 『一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル』を読む。今年度、学部の講義で、ルソーの『社会契約論』を読解した。試験もここから出題した(1.26実施)。選択問題で、他の選択肢は、ホッブズ『リヴァイアサン』とカントの『永遠平和のために』の読解を求めるものである。どれか一冊を丁寧に読みなさいという問題だ。ちょっと難しいと思われたが、学生は良く理解している。そうしてルソーを選んだ学生の数人が、この本に言及していた。あるいは、東浩紀という名は出さないが、明らかにこの本の影響を受けているだろうというものもいくつかあった。

 実は、学生からは、試験の前から、この本の感想を求められていた。試験の解答の中で、この本について書いても良いかと聞くのである。私はその時にまだこの本を読んでいなかったから、口を濁していた。しかし、とりわけゼミ生から、強くこの本が面白いと言われて、読まなければならないかと観念して、読んでみた。

 読むと案外面白いと思う。案外というのは、著者に対して、失礼な話で、というのも、この10年位、e-democracyに関する本がたくさん出ていて、多くが、恐ろしいほどに楽天的なもので、嫌になっていた。そういうことがあった。しかしそれはただ単に私の勉強不足だった。それは反省すべきである。

 本書の第一の結論は、ルソーの一般意志は、集合的な無意識であり、人々のコミュニケーションを拒否しているというものである。これは正しいのではないか。もっとも私は、講義ではそう解釈していない。ただ単に、ルソーの一般意志が実現され、そのための具体的な手法としての人民集会が成り立つためには、数百人とか、数千人といった小規模国家出なければならないだろうと述べるに留めた。そうして、ルソーは、どのようにその人民集会を開くべきなのか、どのようにそこで人々が議論すべきなのかは、まったく論じていない。ただ単に少人数の人民集会でのみ、一般意志が実現されると言うにすぎない。そこのところで、私は説明ができなかった。ただ確実に言えるのは、ルソーその人の性格を考えたときに、この人は、他人とコミュニケーションが取れるタイプではないので、徹底的に議論をして、最良の結論を出すということを主張しているのではないだろうということだ。

 東は、ルソーを、引きこもりの思想家と言っているが、ちょっと違うと思う。アスベルガーでもない。発達障害というよりも、あまりに特異な経歴のために、屈折して、もともと感情の起伏が激しかったものだから、大きなコンプレックスと強い猜疑心が混ざって、被害妄想も年を追って強くなり、極度の不安定な状態が生涯続いたのだと思う。こういう人とは、あまり友だちにはなりたくないと思う。そしてルソー自身、自らの性格については承知していただろうから、人民集会が、皆が集まって、徹底した議論をする場だとは考えていなかったと思う。自分自身が、そのようなことができないのだから。そうするとそこのところで、私は説明ができなくなる。東が、それは集合知であって、熟議の上に成り立つものではないと説明してくれると、なるほど、そうだと思う。

 ここでしかし、先に進む前に、ちょっと異論を申し上げておく。それはヘーゲル、ハーバーマス、アーレントの扱いについてだ。東は、ヘーゲルの『法哲学』についてのていねいな分析があり(p.137ff.)、そこで市民社会の欲求の体系が、国家で総合されると説明している。これはヘーゲルの説明としては間違っていない。ただ注意しなければならないのは、ここからハーバーマスやアーレントがどのようにして出て来たのかということだ。

 ハーバーマスは明らかにヘーゲリアンである。ただ、ヘーゲルは、この市民社会から国家を導出する際に、熟議だとか、コミュニケーションが重要だとは言っていない。ハーバーマスは、ヘーゲルを一面化している。ヘーゲルが理性という時、これはもっと、どろどろしたもので、おそらく無意識をも含んで、人間の可能性の総体を意味している。この、ヘーゲルの論理に潜む無意識性に着目したのは、ジジェクである。ジジェクは、ラカンを援用して、ヘーゲルに潜む無意識を解明する。これについては、別稿を私は用意しているので、そちらに委ねる。

しかしハーバーマスはヘーゲルをそうとらえていはいない。私は長い間、ハーバーマスに違和感があって、ひとつには、このコミュニケーション重視の政治に対して、それは無理だろうなという感覚であり、もうひとつは、そういう考えを、ヘーゲル読解から導き出したことに対して、それは私の考えているヘーゲルとは違うというものである。ハーバーマスは、ヘーゲルの理性を、あまりにも、自らの主張するコミュニケーション的理性に限定し過ぎたのだ。

 アーレントに至っては、かなり事情が違う。彼女は、周知のように、マルクスの労働概念に、激しく反応し、それを嫌った。実はマルクスのその理論は、ヘーゲルをそのまま下敷きにしている。人間はまず動物であり、その生物的側面を維持するために、労働をするが、その労働こそが人を人にした。そういう考えに、アーレントは激しく拒否感を示す。その動物性を、つまり私的なエゴイズムを徹底的に批判して、知的な、洗練された議論、アーレントの言い方では、公共的な「活動」を提案する。しかしマルクスは、そしてヘーゲルも、人間の動物性から始めて、その欲望を肯定し、それを理論化する。彼らはもちろん無意識という領域を知らないが、しかし無意識の内に、無意識の領域を押さえているように、私には思われる。動物的欲望、感情、無意識など、すべてを包含して、理性概念をまとめようとしている。

 さて、東論を先に進める。先のルソー解釈が第一にあり、次いで、そこから出て来ることは、大衆の集合知に従わねばならないということだ。さらに、彼の主張は、現代はその無意識の集積を可視化できるので、それを統治に活かそうというのである。グーグルやツィッター様々なソーシャルメディアに明らかなように、日本は総記録社会になりつつある。それを利用しようというのである。そこまで来て、彼は、ルソーと分かれることになる。ルソーは明らかに、コミュニケーションのない社会を構想した。それは無意識を重視したとも言えるけれども、実は、ルソー自身は良くその実現のための機構を考えてはいなかったのである。東は、そうではなく、大衆の無意識を可視化して、それをコミュニケーションによる熟議の政治につなげようとする。あるいは、代議制民主主義の中に、大衆の無意識を導入しようとする。

 私はかねてから、ルソーをヒントにして、代議制民主主義と直接民主主義をバランスよく混ぜることが大事だと主張してきた。ルソーをヒントにしてというのは、それはあくまで少人数の住民による政府の場合で、具体的には、地方政府にあてはまる。代議制民主主義は疲弊している。しかし直接民主制になれば何でも解決するというような楽観は持てない。できるのは、せいぜい両者をバランスよく混ぜること。そしてできるだけ、政府を小さくすること。このふたつである。

 では国政ではどうするか。私に解決案はなかった。ただ単に、直接民主制を唱える人の楽観を批判するのみである。または、ハーバーマスやアーレントの、議論をすれば解決するというエリート主義を批判するのみである。人間はもっと欲望に支配される存在で、無意識に動き、しかし同時に中途半端に理性がある動物だ。しかしそれで良い。それを肯定して、その上で、何とか政治の仕組みを作るしかない。

 東の、無意識を導入した代議制民主主義という主張は、大衆の欲望を肯定するという時に、直ちに出て来るふたつの反論を巧みに回避している。ひとつの批判は、それは大衆の欲望を無条件に肯定するポピュリズムだというものであり、もうひとつは、権力者による大衆操作に道を開くものだということである。前者に対して、東の主張は、大衆の無意識に従うものではなく、それは大衆の無意識と対決するものであり、また現代では、大衆の無意識を無視する訳には行かず、それは取り込まざるを得ないだろうと言う。そして後者の批判に対しては、むしろ話は逆で、エリートが大衆を操作するのではなく、大衆がエリートの暴走を抑制するのだと言う。

 私はこれに賛成する。繰り返すが、少人数の住民による政府ならば、直接民主制と代議制を組み合わせることで何とかなると思う。しかし国政や、地方でも、現実的には、ずいぶんと住民は多いので、そういうところでは、両者のバランスだけで物事は解決しない。第三のものとして、この、大衆の無意識を政治に導入するというのは、これ以外に他に解決策はないように思えるのである。

 東と違った観点で、政治について考えたい。私は兼ねてから、ハーバーマスやアーレントの言うように、コミュニケーションや熟議を重視したり、直接民主制ユートピアを信奉したりするのとは違って、政治は今よりも悪くならなければ良い、ほどほどのところで、何とかやってくれれば良いと、その程度のものに過ぎないと考えて来た。いや、そう考えねばならないと思って来た。一方で、大衆の無意識をうまく操作するリーダーの出現を警戒しつつ、またそういうリーダーを待望する大衆に、その危険性を認識してもらう必要性を指摘しつつ、しかし具体的にどうすべきか。とにかく地方政府は、福祉と教育を、これは少子高齢化社会で、その中で出来る限りの、ぎりぎりのところで、やって行くしかない。国政は、とにかく戦争を起こさないようにするしかない。あとは地方に任せて、しかし地方間の格差があまりに大きいようでは困るので、その是正はしてほしい。あまり余計なことはしないでくれ、ということでしかない。それは福祉と教育を重視する限り、大きな政府だが、アイデンティティを付与したりするものではなく、そういう意味では、可能な限り小さな政府を志向する。そういう政府を構想する時に、大衆の無意識で、エリートの暴走を抑制するという考えは重要だ。

 東の主張は、リバータリアン的アナーキズムでもなければ、熟慮型民主主義社会でもない、動物的な部分と人間的な部分とがネットワークを介して混ざった、ダイナミズムのある社会(p.197)だと言う。その点には、私は全面的に賛同する。 

さらに、動物的な部分こそ、本質的だと言うのも、私のかねてから主張していることと重なる。実はカントもヘーゲルも、そう考えて来たのである。ここで無理にヘーゲルを称揚する必要はない。しかし少なくとも、コミュニケーション的理性や、熟慮によって、国政を運営させるべきだとは説かなかったヘーゲルは、着目して良い。繰り返すが、それについては、別稿を用意している。

最後に以下のことを確認したい。まず、ルソーの立法と行政についてである。実は東は言及していないが、ルソーはふたつのことを主張している。つまり、立法については、人民集会を開いて、一般意思を実現させるべきだが、もうひとつ、つまり、行政については、くじ引きでその担い手を決めると言うことも言っている。このことについても、考えるべきである。言うまでもなく、アメリカのような大統領制や、日本の首長ならば、選挙で行政の代表を選ぶ。日本の国政なら、議院内閣制だから、選挙で、本来は立法のために選ばれた国会議員の中から、首相が選ばれる。どちらにせよ、選挙で選ばれる。それがルソーの主張では、くじ引きで選ばれるのである。

この場合、立法の方が、熟議の上で決められるから、行政はそれに従って行えば良いだけの話で、誰がやっても良いというのが通常の解釈である。しかし、立法も熟議の上で決まるのでもなく、また行政も誰がやっても良いというのが、ルソーの真意だ。そこのところで、ルソーに権力分立の発想はなく、説明はあいまいだ。しかし私は、良いリーダーをいかに選ぶのかというのでもなく、民意をいかに汲み取るかということでもなく、上述のように、立法においても行政においても、エリートの暴走をいかに大衆が止めるのかという発想は重要だ。それだけできれば、あとはどうにかなる。また、その際に、民意と、国民の無意識の集合体である一般意志とは異なるという指摘が重要だ。建前としては、民意を反映させる代議制があり、しかし民意は厄介なもので、それは(これはヘーゲルも言うように)、大衆自身を欺くこともあり、しかも現代政治学が様々な仕方で示しているように、反映させるということにもパラドックスが付きまとう。それを、無意識の総体である一般意思でチェックするという、上述の様な仕組みが保障されていれば、少しはその状況が改善されて、権利の分立もある程度保障できる。ここはもう少し考えたい。

もうひとつは、この議論の根本のところで、集合知の生成が、本当に可能なのかということが、また、その性質について、あらためて問われねばならない。本書でも、スコット・ペイジが紹介されている。実は、ペイジが、ひとつの集合知の説明をする際に、ルソーの記述を引用している。それはまさに、東が、集合知の説明をする際に、それはベクトルの総和だと(pp.44f.)説明するもので、ルソーは、それを「プラスとマイナス」という方向性を持った意志の総和だと説明している。これこそが、本書の発想の根本にあるものだと思われる。しかし、ペイジは、これを集合知の一例とはしているが、集合知そのものは、もっと複雑なものだと考えて、さらに説明を加えている。私はその上でなお、そのペイジの説明を物足りないと考える。この集合知は、本当は創発特性ではないのか。創発特性だと言うと、何かまずいことがあるのだろうか。

第三の論点もこのことと関わる。本書の第五章までは、ルソーの一般意思が、集合知であること、それを政治に活かすべきことが論じられる。実は、話はそれだけでも良い。それだけでも本書の価値は十分あると思う。しかし、本書では、第六章において、それが無意識の集積であることが論じられて、第七章では、無意識の説明がなされる。

ゼミ生からも、この本では、無意識は必ずしも必要ないのではないかと言われた。それはそうだと最初は思った。つまり別に無意識でなくても、大衆の集合的な意識であれば良い。そう思ったからだ。

しかし、著者の意図としては、この無意識が、本書のもう一つのポイントとなる。つまり、著者は、本書ではポストモダンという言葉を使わないが、しかしその主張は、まさにポストモダンのものである(p.87)。そこで近代的な主体概念が批判されている。当然、そこでは無意識の概念は重要だ。大衆は自分の欲望に気付いていない(p.122)。そしてここに他者性を導入することができる(p.115)。これも一般意思が無意識だからだ。そういう仕組みになっている。

しかし考えるべきは、ただ単に、ルソーの一般意志は、集合知だと言うのと、無意識だと言うのと、実践的な場面で、どう異なるのかということだ。集合知が無意識であることのひとつの説明は、「そこに思いもかけぬ傾向やパターンが抽出されることがある」(p.125)からだが、しかしこれは、集合知が創発特性だからだということからも説明できる。ポストモダンとしては、当然、近代的な主体は批判されるべきで、そのために無意識は必要な概念であろうが、その意義はあらためて問われねばならない。このことも、別稿で扱いたい。
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