世界の酒    ---常に酔っていなければならない--- ボードレール

第一回 君はベンシュを知っているか

                            2006.4.15

 

ドイツの百万人都市ケルン(Köln)に行くと、ケルシュ(Kölsch)を飲むことができる。ドイツビールは基本的に地ビールであり、その町に行かなければ飲むことはできない。ドイツに居て、ビンに詰めたビールを飲むなど邪道である。缶ビールは金属臭くて嫌だ。ドイツビールの多くは地下の醸造所で作ったものをホースで汲み出して、一階の店先で、またはその前にテラスを設けて、そこで供せられる。あるいは樽に詰めて、その町の飲み屋で振舞われる。ケルシュはケルンとその近郊でしか飲むことはできない。

ケルンには40ほどの醸造所があり、それぞれ特徴のあるケルシュを作っている。私は、その名もまさしく、『ケルシュ文化』という本を入手して、夜な夜なケルンの町を彷徨った。Mühlenが私は一番おいしいと思う。Petersはサーヴィスは悪いが、ビールはうまい。Päffgenも悪くない。

さて、ボン(Bonn)はケルンの隣町である。ボンは、アデナウアーの気まぐれで首都になってしまったが、もともとは本当に小さな大学町で、基本的にケルンの支配下にある。そうしてボンで飲むビールの多くはケルシュである。つまりボンはケルン文化圏内にあり、その独自性に欠けるとされている。

ところがたった一軒だけ、ボンのビール、ベンシュ(Bönnsch)を飲ます店がある。ケルシュに似ていなくもないが、酵母の香りが強く、色は淡い。むしろ南ドイツで飲める酵母入り小麦ビールに近い。グラスの形もユニークで、腰をくねらせた女性の形をしている。

この店はいつも、ボンの若者で賑わっている。観光客などに来て欲しくない、と思っているのか、ガイドブックにはまず載っていないし、カードも使えない。店員はとりわけ私たちアジア人には差別的である。しかしとにかくビールがうまいので、私はドイツに行くときは必ずボンに寄り、この店に入る。ボンは諸侯の残した格調高い城を大学として使い、ライン川寄りには文科系の、町の南側には理科系の施設が散在している。ここはハイネとマルクスとニーチェを輩出した大学である。ケルン大学が、ケルンという、大聖堂や見本市や、はたまた件(くだん)のケルシュで有名な大都市の、そのはずれの方に、広大なキャンパスと近代的な建物を持っているのに対して、ボン大学はまさにボンという町そのものに溶け込んでいて、その町の伝統と矜持とを作っている。そしてボンの大学生や研究者たちと話をしていて、互いに相手がビール好きだと分かった瞬間、次回の待ち合わせ場所は、必ずこのベンシュの店となる。

ボンは今、首都としての役割を終えて、静かな大学町に戻ろうとしている。マルクト広場があり、市庁舎があり、教会があって、城壁が一部だけ残っている、という、ドイツの典型的な町並みに、首都時代に作られた、近代的な建物が、よく調和している。緑も多い。そこに住む、ビール好きにとって、ボンの文化、つまりベンシュは一軒あれば十分だ。

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