世界の酒       ---常に酔っていなければならない--- ボードレール

第十四回  禁酒という政治思想

                              2007.5.1

 

アメリカに滞在していたとき、しばしばアメリカ人自身から、アメリカ人の性急さについて聞かされた。それはのちに幾分かは誤解であり、そして幾分かは真実であることが分るのだが、その話から始めたいと思う。

2001年の夏、私は英語が出来ず、苦しんでいた。アメリカ市民になるための語学学校があり、私はそこで、面接の仕方を習い、プレゼンテーションの練習などをしていた。Kazuyuki(と私は呼ばれていたのだが)、「必ず相手の眼を見て話しなさい。話すときは、もっと手を上に上げて、動作を大きく。」といった指導を受けていたのだ。そして何度も注意される。「Kazuyukiの良くないところは、あなたははじめに考えてからしゃべっている。アメリカ人は違う。アメリカ人は、しゃべってから考える。」

実際それは本当だった。彼らは、正確に言えば、話をしながら考えているのである。ゆっくりと考え、それから話をする、ということができない。一定のリズムで口を動かしていないと考えることができなくなるのである。あるいは、私のように英語の下手な人の、ゆっくりとした話し方には付いていけない。単にいらいらするだけでなく、ゆっくりと話をしたり、話を聞いたりすると、考えること自体ができなくなるからである。これはその後に、私は様々な国際会議やアメリカの研究会に出る機会があったが、そこでいつも思うことである。彼らは、まず行動し、それから考える。まずは何かを口に出し、身振りを加え、そしてそれからやっと考え出す。何かをやりながら、話しながら、行動をしながらでないと考えることができない。

英語教師はそこで決まって、言うのだった。何せ、禁酒法を実施した唯一の国だから、と。自分が正しいと思ったら、そのことでどんな弊害が出るのか、そういったことが考えてからゆっくりと行動するということができない。とにかく、行動し、実際に運動を進めながら、または運動を実施してしまってから、それからやっと考え始める。それがアメリカ人だ。

 まもなく911が起き、それに続いて、戦争があった。私には、本当に手に取るように、彼らの反応が理解できた。まず戦争を。議論はそれからゆっくりとすれば良い。そういうアメリカ人の心性が悲しいまでに分かってしまったのである。そしてさらに、部外者の私には、恐らく数年の後には、戦争の反省が起き、反戦の運動が広がるだろう、ということまで見通せた。なぜならば、それは禁酒法の歴史が示しているからである。20世紀の初頭、酒類の製造、販売、運搬を禁止する憲法の制定が決まり、しかしそれが発効したときには、もうすでに弊害が現われており、そしてそれは十数年がたった後に撤回されたのである。酒を飲むという基本的な個人の自由をなぜ、妨害するのか。何と極端のことをする国なのか。アメリカの禁酒法制定の歴史を勉強したときに感じたのと同じ気持ちを、2001年の秋に、アメリカにいて、私は感じていた。

 それらのアメリカに対する印象は、後に考え直して、基本的に正しかったと思うが、しかし一部は間違いであった。まず、調べてみると、諸外国でも禁酒法はあった。さすがにアメリカほどの規模ではないが、歴史を紐解けば、そこには様々な禁酒の運動があった。戦争が、アメリカだけのものではなく、常に歴史上存在してきたのと、それは同じである。

古く時代を遡れば、修道院も、古代、中東の修道院ではでは基本的に禁酒が守られていた。つまり酒は、「飲んではいけない」とされていたが、しかしローマでは、すでにキリスト教の広がる以前から、ギリシアを通じてワインを飲む習慣があり、修道士たちの中にも大酒飲みもいて、そこでは「飲み過ぎてはいけない」という意見がむしろ主流であり、あるいは各地で、そのふたつの考えが対立していた。結局ヨーロッパ世界では、後者が勝ち、やがて、修道院でワインが作られるようになって行った。つまり世の中には、常に、「飲んではいけない」という人と、「飲みすぎてはいけない」という人がいて、その両者は常に対立していて、時にどちらかが強くなるのである。

6世紀に書かれたべネディクトの「戒律」には、すでに、酒は本当は飲んではいけないのだが、当代の修道士にそれを納得させるのは困難だから、度を越さない限りで、控え目に飲んで良い、とある。

酒はそもそも聖書において、神に祝福された飲み物とされていて、ミサには欠かせないし、しかしそれでいて、人を堕落させるものとして飲むことが禁じられてもいた。従って、「飲んではいけない」と「飲み過ぎてはいけない」との対立は古代からあり、先のベネディクトはそれを良く知っていた。そして後者を肯定した、そのベネディクトの「戒律」が長い中世の生活様式を規定して行く。

 一方で、アメリカの歴史を学ぶと、ここでも事情は複雑である。イギリスからインドにまで運べるよう、アルコール濃度とホップの苦味の両方を強めたエールがインディアン・ペールである。私はボストン郊外で、メイフラワー号が展示されているのを見学したが、そこでも、このインディアン・ペールをはじめとして、酒をどうヨーロッパからアメリカに腐らせずに運ぶかということは、初期のアメリカの重要な課題であった。さらに、とりわけドイツから移住した人々によって、ビールが作られる。つまりそこでは、新たな大陸で新たな生活を始めるのに、酒こそがまずどう運ばれ、その後にはどう作られるのかという、酒の確保こそが、考えられねばならなかったのである。

 しかしさらにそこから、とうもろこしを原料とするバーボン・ウィスキーが登場すると、飲みすぎの害を指摘する人々が現われ、さらには、「飲み過ぎてはいけない」から「飲んではいけない」へと人々の考え方がシフトして行く。アメリカの19世紀は、この両者の角逐の歴史である。20世紀に入り、やがて第一次大戦が近付くと、ひとつには愛国心が国民に禁欲を求め、かつもうひとつには、ビール業者にドイツ系が多いこともあって、敵国への反発から禁酒運動の機運は盛り上がる。

かくして1919年には、それまで州レベルで実施されていた禁酒が憲法で制定される。しかしそれは決して、一直線に、また一気に成立したものではなく、様々な要因が絡み、様々な考えが錯綜し、紆余曲折を経て成立した。それはひとつの思想または政治運動がどのように広がり、またどのように消えていくか、ということを見る格好の素材を与えてくれる。興味深いケーススタディーではある。とりわけそれは今の私の関心事ではあるが、しかしそれはそれだけのことである。

私はアメリカのあちらこちらを旅行して、ずいぶんと酒を手に入れるのに苦労する地域も回った。カリフォルニアだって、先回書いたように、公園など人前では酒が飲めない。麻薬はO.K.だが,酒は駄目という風土で、しかし不思議なことにワインやビールの製造技術は進み、今ではどこに出かけても、旨い酒が堪能できる。

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