世界の酒       ---常に酔っていなければならない--- ボードレール

第二十回 ブリュッセルビールを飲もうとして、荷物を盗まれる

                              2007.9.23

 

 このコラムは、酒に関しては、正確な記述をすべく、良く努めているが、私自身の行動に関する記述については、多分に、脚色が施されている。その旨、読者は了解されたいと断った上で、しかし以下の話は、相当程度、事実に即してはいる。

 二週間弱のヨーロッパ旅行を楽しもうとしていた、そのまだ始まったばかりの日の昼頃、私はブリュッセルにいた。何回か行ったことのある、ランビックビールを出してくれるレストランに行こうと思ったのである。私は、リュックサックに全財産を入れて背負い、右肩には小さな手提げ袋を掛けていた。その店は、ブリュッセル南駅からそれほど遠くはない。私は久しぶりにありつけるだろうベルギービールのことを考えて、浮かれていたのだと思う。

 後ろから男が駆け寄って来て、私の左肩に何か白い液体を振り掛けた。その男は空から、何か降ってきたぞ、と叫んで、向こうに行ってしまった。私は左肩を見て、何か、鳩の糞のようなのもが服を汚しているのに気付き、一体何が起きたのか、何だか良く分らないが、しかし早く拭き取らないと臭くてかなわないと思う。そこへ今度は、右側から別の男が、手にティッシュペーパーを持って現われる。この紙で、早く肩を拭け、と言うのである。それで私はその男に礼を言い、リュックサックを足元に下ろして、男からもらった紙で、左肩を拭き始めた。それはほんの一瞬のことだ。しかし、ふと次の瞬間気付くと、足元にあったはずのリュックサックが消えている。私はまたもや何が起きたが分らない。そのときに泥棒だと気付いて、周囲を見れば、走って逃げていく男の姿が見えたはずだけれども、私はただただ呆然として、なぜリュックサックがなくなっているのかも分らず、数秒立ち竦んで、それからやっと、盗まれたのだと気付く。周囲を見ても、すでに男の姿はない。

折り良く、巡回中の警察官が二人通り過ぎる。私は彼らに、荷物を盗まれたことを訴える。すると、一部始終を見ていた、道路の反対側にあるお店のおばさんがやってきて、二人組みの男が、この男を騙して、リュックを持って、向こうに逃げて行ったと話す。情けないことに、私はこのときに始めて、先の男と二番目の男が共謀していたことに気付かされる。思えば、二人の風貌は良く似ていて、このあたりで急速に増えている、ある国からの移民だと思われた。しかし警察官は、私に同情するでもなく、また、まだすぐそこらに隠れているだろう泥棒を追いかけるのでもなく、向こうに警察があるから、そこへ行って、事情を話せと冷たく言い放って、去ってしまう。

やむなく私は警察に行き、事情を話す。右肩に掛けていた、手提げ袋の中に、パスポートとカードと多少の小銭があり、盗まれたリュックには、現金がかなりの額と、衣服、靴、予備の眼鏡、薬、予備の時計、それに貴重な本が入っていることを話す。ヨーロッパでは、アメリカと違って、安いホテルやレストランでは、カードが使えないこともあり、また私は好んで、そういう安いところに行くので、ヨーロッパ旅行には多額の現金が必要だ。それを全部やられたのである。

しかし警察の態度はここでも冷たいものだった。まずパスポートはあるのだし、帰りの航空券も、今は、e-ticketと言って、空港でパスポートを見せて発行してもらうものだから、盗まれることはない。つまり、日本に帰国するには何の問題もない。それが分ると、警察は、私にもう帰れと言うのである。

このときの彼らの言動を、好意的に解釈すると、次のようになる。このあたりでは、近年、不法移民が大幅に増え、警察も地元民も困っている。そこに金持ちの日本人が、大金を持って無用心にうろうろしており、それはまるで彼らに餌を撒いているようなものであり、日本人に対しても、彼らは苦々しく思っている。お店のおばさんにしても、犯行の一部始終を見ていたのならば、大声を上げてくれれば、犯罪は防げたかも知れず、警察だって、本気で犯人を捜せば、見つけられるだろうに、ここらでは、このようなことは毎日起きていて、やられる方が悪いのだし、やられる方に対しても、地元民も警察も、同情するどころか、治安悪化を助長するものと見ている。以上は、繰り返すが、好意的に彼らのことを評価した場合の解釈である。

悪意を持って彼らの言動を見ると、しかし私は、どうしても、こいつらみんな、グルなのではないか、という思いを禁じ得なかった。何だか余りにも簡単に物事が進んで、余りにも手際が良く、余りにもあっさりと片付けられてしまう。

そうして私は、小さな手提げに、先に書いた通り、パスポートとカードと小銭、それに電車の中で読んでいた研究用の資料、それは、今回は観光目的の旅行とは言え、小心者の私は遊びに徹しきれず、小さな研究会を覗いたり、共同研究者と落ち合って、打ち合わせを、一日二日はするつもりだったので、持っていたものなのだが、それらを残して、放り出されたのだった。

あと10日をどう過ごすか。現金がなく、カードだけでは、ヨーロッパで日々を過ごすことはできない。下着も歯ブラシもどう手に入れるのか。

ブリュッセルからは、パリに向かうところだった。それで、私は、切符をキャンセルし、パリでの予定も電話を掛けてキャンセルし、また自宅にも電話を掛けて、予備のカードが盗まれていたから、妻にカード会社への連絡をしてもらうことにして、そうして、ドイツのボンに向かったのである。ボンには、私がドイツママと呼んでいる、70歳の女性が居て、困ったときにはいつでも来なさいと言われている。今こそが困ったときである。またそこには、台湾人や日本人の友人もいるし、大学に行けば、知り合いもいる。

かくして、私はボンで過ごすことになった。ママの家に一週間泊めてもらうことにし、友人たちからは金を借りて、それで衣服一式と歯ブラシなど生活必需品を買った。ジャケットやジャージ、旅行用バッグももらった。毎朝、ママと二人きりで朝飯を食べる。パンの上に、ハムとチーズを乗せて食べる、あのドイツ式の朝食である。ママは、英語が全く出来ないから、私は、忘れかけていたドイツ語を必死で思い出して、会話をする。昼は、大学に行き、誰かと英語で議論をし、昼飯を奢ってもらい、その後はカフェで読書をする。夜は、台湾人の友人が台湾料理を作ってくれる。時には、ママと、裏庭の畑で、今年は雨が多く、寒いので、成長が悪いと言う、ママの愚痴を聞きながら、大根やレタスを収穫し、スープやサラダを作ったりもする。一週間良く勉強もでき、多くの人に助けられて、過ごすことができる。

私は幸せだった。そして、5年前の、ドイツ滞在時を思い出した。夏から冬を越して、春まで、八ヶ月ほど滞在したのだが、そのときに、私は自転車を盗まれたことがあった。アメリカでは、私は家族で滞在したので、車を持っていたのだが、ここでは、単身であるし、自転車が、狭い道幅のドイツでは便利だと思い、少し奮発して、最高級の自転車を買ったのである。夏の間、仕事を早く切り上げて、ライン川に沿って、自転車を走らせ、教会を見て回るのは、外国生活の数少ない楽しみのひとつだった。言葉に不自由する外国で、単身生活をするということは、想像以上にストレスの多いものであり、その中でどうやって、楽しみを見つけて行くかということが、うまく海外生活を乗り切るコツである。

ところが、秋になって、その自転車が盗まれたのである。それも、駅前の、自転車置き場に、前輪にチェーンの鍵をかけて、ほんの十数分、買い物をしている間に、前輪をはずされて、車体が盗まれた。駐輪場に空しく、前輪だけが残されていた。それは明らかにプロの仕業だ。

近年、ヨーロッパはアメリカよりも治安が悪いと思う。アメリカは、これは望ましいことではないが、しかし、911以降、どこに行っても警察官の姿が見え、また入国に際しても、私たちは、不愉快な指紋チェックまでさせられて、そのために、不法移民の数は著しく減っている。ところがヨーロッパでは、どこでも不法移民が、集団で、犯罪のプロとなっている。狙われたら、どんなに用心してもやられてしまう。

仕方なく、私は今度は、盗まれないよう、蚤市に行って、最初に買った自転車の20分の1の金額で、中古自転車を買った。それは、私のドイツ滞在の最後まで、盗まれることはなかったが、ブレーキは利かず、ハンドルはがたがたと不安定であった。日に日に夜が長くなって、寒くなり、単身生活に、ヨーロッパの冬はきつい。私は自分が情けなくなり、研究を途中で放り出して、帰国しようとまで考えたのだった。

そのときに、私を助けてくれたのは、台湾人のグループと、そこを通じて知り合った、ドイツママだった。私は台湾人とビールを飲みに行き、またはワインを持って彼らのアパートに押しかけ、台湾料理をご馳走になりながら、英語とドイツ語をちゃんぽんにして、議論をした。またママの家に、これまたワインを持って、呼ばれて行った。それが数少ないドイツ生活の楽しみとなった。

今回、まったく期せずして、私は同じことを繰り返していた。記憶の反芻と実際の行動とが重なった。それは人生の幸福と呼ぶべきものだ。おまけに、これは本当におまけだが、昼食には、必ずビールの二、三杯が付くし、夜には必ずワインが供せられる。誰もが私の酒好きを知っている。謹慎の身であって、酔うほどには飲まないが、しかしもう何も、これ以上望むことはない。

かくして、一週間が過ぎたのだが、さて、私の帰りの切符は、パリから東京に向かうものであり、いずれにせよ、私はフランスに行かねばならないのである。ならば、せっかくヨーロッパに来たことであるし、最後の三日くらい、観光をしても、不謹慎ではあるまい。そう思い、また友人たちの勧めもあって、私は彼らから借りた金を持って、ブルゴーニュで、三日三晩遊ぶことにした。そうして、泥棒に遭ってからちょうど一週間が経った日の早朝、私は自ら蟄居を解いて、ボンの隣町、ケルンからパリに向かったのである。

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