世界の酒       ---常に酔っていなければならない--- ボードレール

第二十一回 学生はなぜビールを飲まなくなったのか

                              2007.11.27

 

先だって、ゼミのOB会を開いた。私は大学の教師になってから、10年余りになるが、助手の内と海外に出ていたときには、ゼミ生を採っていないから、まだ数期しか卒業生がいない。しかしOB会には良く人が集まって、現役生を含めて、50人以上の盛会であった。

 飲み会に選んだ店は、飲み放題となっていたが、飲み放題なのは、サワーだけで、ビールに日本酒、ワインは、量に限りがあった。さすがに卒業生と私は、会が始まって一時間足らずで、それらを飲み干し、物足りなくなり、別料金を払うから、ワインを追加しろと店に迫ったのだが、現役生は平気である。彼らはまず、食べ物にばっと群がり、たちまちそれらを食べ尽くすと、あとは、サワーをちびりちびりと飲んでいる。そもそも10人のゼミ生がいると、私と同じくらいの酒を飲むのは、平均して1人で、あと23人はそこそこ飲むが、7人はほとんど飲まない。しかも飲むとしたら、必ず甘いサワーである。

 以前のOB会で、学生に進行を任せていたら、飲み屋に入って、全員が異なる種類のサワーを、つまりメロンだのバナナだのカルピスだのと、全員がばらばらに頼み、着席してから、それらが揃って、乾杯するまでに20分以上が掛かり、その間、私と卒業生はいらいらしながら待つ、ということがあった。それ以降、会を仕切るのは私になり、とにかく最初の乾杯までは、飲めない人も形式的に付き合って、ビールにする。乾杯が終われば、あとはゆっくりと、好きなものを頼めば良いということにした。しかしその程度の強制でも、学生は嫌がって、OB会には出たくないという者も出る。

 学生がなぜビールを飲まないのか。その理由は、以上で明らかである。まず、ビール以外の飲み物が出て来て、酒が多様化しているということが挙げられる。それは確かに一因ではあろう。しかしそれは本質的な理由ではない。一番の理由は、学生が、内輪で固まってしまって、OB会のような、世代を超えた付き合いは苦手で、年上と飲む機会が著しく減ったからである。まずはビールで、という強制が彼らには働かない。ビールは苦い、と彼らは言う。口当たりの良いサワーを、ほんの少し舐める、というのが、彼らの飲み会のスタイルとなる。子どもの舌には苦いビールも、何度か飲み続けると、病み付きになる。あの苦味をうまいと思うには、修練がいる。その修練をする機会が彼らにはない。一昔前に良くあった、学生の一気飲みは、体育会の学生を除けば、今はほとんどない。たまに馬鹿な学生が、そういうことをするが、決してあとが続かないから、私は一気飲みの弊害に悩むことはない。代わりに、例えば、会社に入ったら、ビールを上司に強制されるのが怖いとつぶやく、卒業間際の4年生に、せめてそういう恐怖心だけは持たなくて済むよう、教育しなければと思う。

 もちろん体質的に飲めない人もいるし、飲みたくないという人もいるのは当然で、基本的に酒は楽しく飲むものだし、そこに強制が働いてはならない。ただ、酒を飲むということは、一種の文化であり、文化が伝達されるためには、そもそも教育がそれに基づいて行われるはずの、自主性の尊重とその上に成り立つ強制とが必要である。この自主性の尊重とその上に成り立つ強制とは、それに従う必要もないし、逃げ道もいくらでもある、そもそもその集団から脱する自由もあるし、そこに留まって、孤立する自由もある、さらには自分と異なる行動パターンを採る他人も認めねばならないという状況を作った上で、しかし緩やかな強制を成員に掛けて行く、ということである。私は、小学生から、大学院生まで教えた経験を持つが、その際に、教育の方針について、理論的に悩んだことはない。現実的にうまく教育できないことはいくらでもあるが、それはその都度、経験的に処理すれば良いだけのことである。強制と先刻から書いているが、人と人が付き合えば、そこに強制は自ずと働く。私も学生と付き合えば、彼らからの強制を受ける。あとは互いにそれを自覚すれば良い。教育とはその強制を自覚的に使うことである。

 ビールはこれからも飲まれなくなるだろう。飲む人が段々と減っていって、そのうち、一部の愛好家だけが飲む、というようになるかもしれない。それはそれで、そういう形で文化が継承されれば、良いと思う。日本酒文化はとうに廃れて、一部のマニアのものとなっている。ビールはドイツでも飲まれなくなり、伝統的な醸造所は、この数年でずいぶんとつぶれている。飲み屋にたむろするのは、主として中高年で、若者はビールを飲まない。フランスでもワインの消費量は落ち、格付けの指標を巡る面倒くささ、その理解のしにくさもあって、若い人はワインについての知識を持たない。しかし文化に盛衰はつきもので、私はそこにいたずらな感傷を持ち込む気はない。

私は空手を少々嗜むが、空手を習う人は、人口のごく一部で、そこで長い歴史の中で考案された、様々な型が継承されている。ビール文化も、やがてはそうなるのかもしれない。私のこのエッセイも、伝統芸能の保存という役割を持つものに変わるだろう。しかし差し当たって、学生が社会に出るときには、大人の社会ではまだ、とりあえずビールで乾杯、という文化は残っているだろうから、飲めない人も飲まない人も、まず乾杯だけは形式的に付き合う、という最低限の様式の習得は、別にそれすら身に付けなくても、本当は構わないのだけれども、それに対して恐怖心を抱かないという程度には、学生の内に、その対処法を学んだ方が良いと思う。そういう教育も大学教師の仕事のひとつだと最近は思う。

学生は世代を超えた付き合いが苦手なのだけれども、しかしむしろ素直ではある。私の奉職する大学の、配属されている学部では、インターンシップを授業に一環として取り入れているが、気乗りしない学生を誘って、夏休みに、一、二週間就業体験をさせると、多くの学生が満足して帰って来る。三十代、四十代と一緒に昼飯を食べながら話ができたのが一番うれしかった、などと言う。私の授業でも、私が自嘲気味に、失敗談などを語ると、この先生、大丈夫かしら、という反応をするが、自慢話をしたり、訓示を垂れたりすると、学生は素直にそれを受け止める。私が二十歳の頃なら、説教をする四十代など、はなから馬鹿にするか、敬して遠ざけるかのどちらかであったが、今や、ストレートな物言いを学生は好み、容易に感動してくれる。これが大人のルールだと言えば、直ぐに受け入れる。だから、三年生になって直ぐに、ゼミの飲み会を、私が場所を設定して、学生に働きかけて、誘い出し、教育していくと、その期はすんなりと、OB会にも出掛けるようになる。教育効果は直ぐに現れる。しかし私は忙しいし、心の中で、そこまで俺にやらせるな、そんなことは勝手に学んでくれ、という思いはある。何よりも、酒は一人で飲むのが一番、次いで、気の置けない仲間と飲むのが楽しいと思う。この楽しみを学生と共有する必要はない。

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