世界の酒           ---常に酔っていなければならない--- ボードレール

第二十三回  玉ノ井で飲む

                                  2008.3.5

 

 久しぶりに玉ノ井を歩こうと思い、まだ暗くならない内に、家を出る。

まず京成線は八広で降りる。ここから水戸街道に向かうと、その交差点に「丸好酒場」という飲み屋がある。ここは、名著『下町酒場巡礼』(1998)の冒頭に紹介されている店である。自家製の炭酸で、酎ハイを作り、ファンは多い。しかし今回は、まだ玉ノ井に着かないうちに飲んでしまうのはどうかと思い、その店に敬意だけを払って、素通りする。

そこから鐘ヶ淵通りを北上し、そののちに西に曲がると、古い酒場がたくさんある。このあたりは、そう、多くが「酒場」という看板を出している。さらに、西南に進むと、東武伊勢崎線東向島駅がある。ここが玉ノ井である。私は高校生の時に、『墨東綺譚』を暗記するほど読んでいたから、ここに来ると本当に懐かしい気持がするが、しかし、小説の中にある昭和十年代の風景は全く残っていない。いくつかの酒場は、昭和三十年代の雰囲気を売り物にしていて、そのころの面影が感じられれば、それで十分である。

しばらく歩いて、もう一度、鐘ヶ淵通りに戻ったあたりで、ずいぶん昔に何回か飲んだことのある店に入る。夕方5時過ぎ、先の、「丸好本店」は人でにぎわっていた。この店を開けると、老婆が店の準備をしていて、客はいない。数年前に最後に出かけたときは、おやじがモツを焼いていたはずだ。その時分、それはいつだったか、覚えていないのだけれども、このあたりは賑わっていたはずだ。

付き出しは、せんべいだ。これを肴にまずは焼酎ハイボールを一杯飲む。老婆と私と二人だけで、店は寒い。石油ストーブが、少しずつ店全体を暖めている。それからお代わりをして、今度は鳥と皮を焼いてもらう。老婆は冷蔵庫から、鳥ももの小さな塊を出して、皮を剥いでいる。皮は一本しかできない、と言う。私は肉の塊を見て、焼き鳥の方ならば三本はできるでしょう、と聞く。それで皮を一本、鳥を三本の焼き鳥を作ってもらう。肉は少々古い。しかし私は、あちらこちら世界中を歩いているので、この程度なら平気だ。私の胃袋は耐えられるはずである。

 息子が店をさぼって来てくれないので、仕様がない。この年で一人で店をやるのは大変だ。親子なのだけれども、仲が悪いと老婆はこぼす。私もいろいろと聞き出す。彼女がここに嫁いだのは、60年前、18の時だった。25の時に、ご主人はなくなり、二人の子を、店をやりながら育ててきた。はじめは屋台から、やがてカウンターだけの店を持ち、それから次第に座敷を広げた。玉野井から流れてきた芸者が手伝ってくれたりして、その内、息子が大きくなって、手伝ってくれるようになり、店も大きくなった。しかし最近は、その息子は埼玉に越してしまって、働かなくなった。春になったら戻ってきて、またモツを始めるからもう一度来てほしい、と言われる。

 話が戦争のことになると、老婆は結構饒舌である。以前はこのあたりは、玉ノ井の客で賑わった。それが、空襲で皆焼けてしまった。荒川を渡って、この荒川も、私が子どものころは、荒川放水路と呼んでいたのだが、その向こうの葛飾に入ると、そこでは空襲の被害はなく、同業者も随分、立石あたりに引っ越して行った。彼女も、幼い二人の子を連れて、一時期葛飾に身を潜め、またここに戻ったというのである。この話はなじみがある。私の母方の祖父母も、地方から、浅草に流れ着いて、戦後葛飾に渡った。浅草、玉ノ井界隈と雰囲気を同じくする店が、四木、立石、青砥、高砂に多いのは、店も客も戦争を挟んで、大挙して移動したからである。この老婆は、二年前に死んだ私の祖母より少し若く、数年前に店に来た時にいたおやじは、私の父親よりも少し若い。そんな計算だ。

浅草、玉ノ井のモツや鳥、メンチカツまたは泥鰌を食わせる酒場が、戦後、京成線沿線に移り、安く飲ませるために、焼酎ハイボールとホッピーを生み、昭和三十年代には、それらが盛んに飲まれて、その一部が今日まで残っている。さらには常磐線と総武線沿線にも広がっている。私が下町の酒場と定義している店は、戦後すぐ、遅くても昭和三十年台か四十年台には始められた店で、モツなどが安くてうまく、焼酎ハイボールかホッピーが飲める、そういう店である。

残念ながら、永井荷風にはそういう店は出て来ない。『墨東綺譚』には、浅草、玉ノ井が大正12年の震災ですっかり変わってしまったとか、関西から食べ物屋が入って来たとか、新しい道路ができて、店が増えたといったことが書いてあり、今、それらを偲ぶものはほとんどない。私の「墨東綺譚」は戦後のものだ。

 ただ、そういう下町酒場も、今や後継者がいないと、次々とつぶれていく。先に挙げた『下町酒場巡礼』に紹介された店も、この10年で多くがなくなっている。私自身の経験でも、例えば、高砂のある店は、先日友人と二人で出かけたら、メニューは変わらないのに、若い女の子がふたり、「おかえりなさいませ」と迎えてくれるようになっていた。いつからここはそういう店になったのだと思うが、どうも客は増えていて結構である。ただし、私はもう行くことはないと思う。

一方で、これも私の行く店だけれども、青砥駅前の「あわのす」という店は、ご主人が亡くなって、一時休んでいたが、奥さんが再び始めて、先日久しぶりに出かけたら、名物の特大のメンチカツは健在だった。もっとも、私は、ガツ生などをつまむ。これもこれで、十分量があり、食べがいがある。また、私は、ホッピーに黒があるというのを知ったのも、確かこの店である。

 老婆の話を聞きながら、そういったことを考えていた。この店の、怠け者のおやじも、戻って、またモツを焼いてほしいと願うのみである。

滞在一時間余り、ついに他の客は来ない。私は三杯焼酎ハイボールを飲んで、帰ることにした。一杯目は、せんべいをつまみに、二杯目は古くなった肉の焼き鳥で飲み、三杯目は、老婆の繰り言を相手に飲んだ。

まもなく310日になる。東京大空襲のこの日、西は浅草かっぱ橋あたりから、東はこの玉ノ井のあたり、そしてここから、南の江東区にかけて、一面が焼け野原になった。そのために戦前の建物が残っていないのである。時は流れて、今や、昭和三十年代の名残でさえ、数少なくなっている。

世界の酒 トップページに戻る