世界の酒      ---常に酔っていなければならない--- ボードレール

第二十五回  綾瀬で飲む

                                2008.6.30

 

 地下鉄千代田線の終点で、常磐線も乗り入れている綾瀬駅の東口に、「みやはら」という飲み屋がある。今から四半世紀も前、私はここに入り浸っていた。21歳になったばかりのころ、私は妻と、ここから、京成線のお花屋茶屋に向かって、自転車で10分ほどのところに、小さな一軒家を借りて住んでいた。私はもう大学に籍がなく、週に三日か四日、塾の講師を務め、あとは家で小説や文芸評論を書いていた。妻は、綾瀬から電車に乗ってすぐ近くのところで働いていた。二人が仕事を終えると、しばしばこの店で落ち合って、一緒に帰った。

私はたいてい、ホッピーを二、三杯飲んで、それから日本酒に切り替えて、モツ焼きや泥鰌をつまんで、しかし長居はせず、帰るのだが、まだ酒の飲み方は知らず、ある時、妻が来るまでに、二合徳利を三本飲んで、今日は、三合しか飲んでいないのに、なぜこんなに酔うのだろうと妻にぼやいて、きつく叱られたこともあった。一方妻も、「みやはら」に来るまでに、同僚と会社の近くで飲んでいて、すでに泥酔して現れるということもあった。そういうときは、すぐに私の飲んだ分だけ勘定してもらって、妻はそこでは何も飲まず、夜道、二人で自転車を走らせるのだが、途中で何度も妻が転ぶ。あちらこちらに擦り傷を作って、やっと家に帰り、さて翌朝、妻は、なぜ私は体中擦り傷だらけなのか、訝るということもあった。

店は今でも健在である。私は20年ほどここに来ることがなかったのだが、数年前、地元で一緒に住民運動をやっている年上の友人が、私と同じように20数年前、この店をひいきにしていたということを聞き、懐かしくなって、彼と一緒に飲んだことがあり、その後も時々は来る。店はしかし、小奇麗に改築されて、昔の安飲み屋ではなくなったが、旦那は無口で、ひとり黙々と料理を作り、奥さんは相変わらず無愛想で、客と無駄話をすることもなく、そこは全然変わらない。「今から2728年くらい前、週に一度は来ていた」と奥さんに話しかけても、乗ってくれない。私はホッピーと日本酒という飲み方のパターンは変えず、料理は、味噌カツや天麩羅とこちらは格が上がって、ひとり昔を思い出している。そう言えば、当時、二階の窓には、おしめが干してあった。その子は今どうなっているのか。余計な話は一切しない、この奥さんでは、多分聞いても教えてくれないだろう。

その町に住んだのは、3年余りである。21から24まで、その間に、酒の飲み方については、私は確実にこの「みやはら」で鍛えられた。金をかけずに、どうすれば、上手に酔えるか。短い学生生活では学べなかったことを、大学中退後に私は独学で学んだのである。また、朝早くから、夜遅くまで仕事をする妻と、話ができるのも、この店でしかなかった。それは幾分かは楽しい思い出であった。そうして残念なことに、この店での思い出以外、私はこの時期にあまり良い記憶はない。

私はどうやら文筆業で食べて行くのは絶望的に困難であることに気付いて、安定した副業を求めて、怪しいセールスに手を出して、すぐに失敗した。そうして却って借金を作ってしまった。精神的にまだ幼く、自分は何でもできるという万能感に満ち溢れていたのに、現実には何一つできなかった。10代の後半に作り上げた、自分は数学の天才で、小説を書けばすぐに芥川賞が取れて、また在野の哲学者として若くして大作をものすという像は、20代の前半にことごとく崩れてしまった。妻に夢を語り、楽しく酒を飲むこともあり、とりわけ妻は酔っているときは機嫌が良かったのだが、しかしときに口論になることもあり、そうして私の大言壮語に妻が辟易しているのは明らかだった。しばしば私はひとり自棄酒を飲むこともある。様々な酒を、私はこの「みやはら」で味わった。

まもなく私は、知人の経営する塾で専任になることを決め、その塾の近くに越すことになった。妻は仕事を辞めた。長女がもうおなかの中で大きくなっていたのである。そうして私は、ある日新聞で、共通一次試験の締め切りが迫るという記事を見て、塾の仕事をしながら、もう一度大学に入り直そうと考えたのである。それはようやく私が現実的な選択をし始めた第一歩であった。

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