世界の酒 ---常に酔っていなければならない--- ボードレール
第二十六回 マディソンで飲む
2008.7.22
7月の中旬、私はウィスコンシン州マディソンのパブで飲んでいた。この町の中心部は、ふたつの大きな湖に挟まれた、細長い地形をしている。これをisthmus(地峡)と言う。この単語をはじめて知ったとき、まったくイメージが湧かなかったのだが、地図を見て、そして実際に町を歩くと、直ぐにその意味が分かる。ウィスコンシン大学はその入り口がメンドータ湖畔にあり、そこから湖に沿って、南西部に広がっているが、キャンパスと反対側北東に1kmも歩くと、また別の湖、マノナ湖に出る。ふたつの大きな湖に危うく押しつぶされそうになって、幅1kmの紐状に、かろうじて地面を残したかのような形をしているところに、町の中心、州の議事堂がある。そのふたつの湖を渡る風は涼しい。やや湿り気があり、少しだけぬるく、しかし肌に適度な暑さで、散歩に適する。
そのマノナ湖の近くにこのパブがある。マディソンを代表する自家製のビールと宣伝文句にある。
ビールは期待していたほどではなかった。ビールを売り物にしているというのに、店にはコカコーラを飲んでいる若者もいるし、店の半分くらいは、ビリヤードの台に占められていて、それに興ずる者も多い。その辺りは、アメリカによくある飲み屋のパターンで、ビールの味も風味も、悪くはないのだが、もう少しこうした方が良いのにという粗が見えてしまう。まあ、これは仕方ない。
私はペールエールを飲み、次いでレッドエールを、さらにはスタウトを頼む。料理はフィッシュ&チップスである。
私は長い間、この町に来たいと思っていたのだった。私の所属する国際学会が、今年の会合をこの町で開くと知ったとき、その学会に必ずしも出たいと思っていたのではなかったが、この機会にマディソンに行きたいと思って、無理に応募した。今、その思いが適ったと思う。
ここは私の記憶では、反戦の町である。2001年、私はバークレーにいた。911またはSeptember 11thと私たちが呼んでいる事件のあと、アメリカは戦争に向かっていった。そのときのアメリカ人の反応を私は目の当たりに見ていた。そして当時、バークレーとこのマディソンの住人だけが、戦争に反対していた。どちらも、リベラルな大学町として知られている。私はバークレーで、反戦活動に参加し、しかしバークレーを離れると、アメリカ全体が異常なまでに好戦的な雰囲気になっていくことに辟易し、遠くのマディソンに思いを馳せていた。
さてブッシュ政権も末期に、念願かなって、実際にここにやって来ると、この町は至って静かな、平凡な町のように見える。いや、この町だけではなく、アメリカ全体が、表面的には平和に見えるのである。
しかし今日のニュースでは、アフガニスタンで9人のアメリカ兵が死んだと報じられている。2008年の7月になってもまだ戦争は終わっていない。大統領選で、マケインの売り物は、ベトナム戦争体験であり、オバマは戦争を知らない理想主義者、または観念論者という批判を払拭するために、中東に出かける準備をしている。常に戦争が話題になり、常に戦争が語られて、しかしその中で、人々の生活は平和に見えるのがアメリカなのかもしれない。アメリカでは、戦争は常に人々の平和と隣り合わせにある。
マディソンは、大学キャンパスの雰囲気や、大学から州議事堂に続くメイン通りの賑わいも、バークレーと良く似ている。通りには、雑貨屋、洋服屋、カフェなどが並び、アフガン料理屋もあり、そういう点でもバークレーと似ている。2001年のマディソンで、どんな風に反戦運動が行われていたのか、容易に想像が付く。
マディソンがバークレーと繋がっている点がもうひとつあった。大学の中を歩いていたら、Muir woodsと名付けられた森があった。ジョン・ミューアは、ここウィスコンシン大学の卒業生で、その森は彼に因んだものなのである。アメリカの自然保護運動を語るときに、その第一人者としてその名を欠かせないミューアについては、2001年にアメリカ滞在中、良くその本を読んでいたから、彼がウィスコンシン大学出身であることは知っていたはずなのだが、ウィスコンシン大学のキャンパス内で、彼の業績を称える案内板を読むまで、私はそのことに気付かなかった。そしてそのことに気付くと不思議な気がした。
Muir woodsと名付けられた公園は、実はもうひとつある。バークレーから近く、サンフランシスコの北に、広大な面積を擁し、レットウッズの巨木が生える、ここも私のお気に入りのスポットがそれである。実際私はしばしばここに出かけた。サンフランシスコという都会から、こんなにも近くに、こんなにも豊かな自然があるというのは、当時の私には新鮮だった。
また、ナチュラリストとして知られるミューアの功績のひとつに、シエラクラブという環境保護運動の団体を創立したことが挙げられるが、その本部もバークレーの近くにある。私はアメリカ滞在中、そこの会員になっており、本部に資料を求めに出かけたこともある。バークレーとマディソンはこんな風に繋がっている。
私がアメリカに出かける直前に行われた大統領選挙は、後にノーベル平和賞を取った、史上最も環境問題に詳しい候補であるゴアと、最も環境問題に疎い候補の一騎打ちであり、2001年の9月以前は、ブッシュ大統領誕生を嘆く雰囲気が、私の周りにはあった。その政権の末期、不思議なことに、大統領は、京都議定書に言及し始め、少しは環境問題に歩み寄るつもりもあるのかもしれない。しかしアメリカの政治全体から、環境問題が重要であるというメッセージは相変わらず、発せられていない。
2001年に私がアメリカで感じ、そして今、2008年に再度訪れて感じているのは、アメリカ国民は平均すると、先進国の中では最も環境に対する意識が少ないが、しかし自然それ自体は、驚くほど豊かであり、一部の人は熱心にその自然保護に取り組んでいるということだ。
例えば、ここマディソンにもいくつか植物園がある。そのうちのひとつ、市が運営する植物園に出かけると、広い庭は隅々まで手が行き届き、それが無料で市民に公開されている。これを可能にするためには、市民のボランティアや寄付が相当にないとならない。そして実際、それを可能にするのがこの町である。この町の財政的基盤と市民の社会資本は大きなものがある。私の知る限り、この町はアメリカの最も美しい町のひとつなのであるが、しかし同時にアメリカの典型でもある。
人々はよく整備されたサイクリングロードで、上半身裸になって、自転車に乗り、またはジョギングを楽しんでいる。湖でヨットや釣りに没頭している。住宅街では、家々によく木が茂り、朝は、自宅の芝生の上のテラスでコーヒーを飲んでいる人も多い。カフェの外に広がるテラスは、ブランチの客で一杯である。
2001年も、バークレーの山の上にある、大学の所有する、そしてここも良く整備された、美しい植物園を私はしばしば訪ね、キャンパスの中の森を歩き、そして大学の近くにあるパブで、それはもちろんbrewing pubであるのだが、そこでエールビールを飲んでいた。2008年も、戦争と平和が隣り合わせに棲み、豊かな自然としかし途方もない浪費とが共存する、このアメリカで、私はビールを飲んでいた。
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