世界の酒 ---常に酔っていなければならない--- ボードレール
第二十七回 アウクスブルクで飲む
アウクスブルクは聖ウルリヒ&アフラ教会のすぐ脇に、その店はある。Zum Goldenen Gansという名で、煉瓦で作られた赤い煙突があり、色のくすんだ店の壁には、600年の歴史を持つと書かれている。正確には1346年創業なので、660年の歴史を有するビールの醸造所である。この赤煉瓦の煙突はずいぶんと懐かしいもので、というのも、私が初めてドイツに出かけた20数年前には、ドイツのあちらこちらに、こういったビール醸造所はあった。これがこの間に、数の上では半減し、さらに大手のビール工場に吸収されたもの、郊外に移転したものも多いから、街中で見かけるのは激減したと言うべきである。私にとって、ドイツの象徴でもあるビール醸造所は、今や見ることが困難になってしまった光景である。
さらに町の飲み屋を覗いて歩くと、どこもアウクスブルクの地ビールか、自家製ビールを売っている。数の上では、Riegeleを売るところが最も多い。このRiegeleは、1386年からの伝統を引き継ぎ、19世紀末に、Riegele氏という人物が設立した会社である。また、先のHasen Bräuを出す店も結構あり、さらにたくさんの小さな醸造所もある。ミュンヘンのビールを出すところもある。ここはミュンヘンから、ローカル線で、40分くらいのところだから、ミュンヘン文化の支配圏にあり、ミュンヘンビールの多いのは頷ける。またアウクスブルクビールも、基本的にミュンヘンビールと変わるところはない。すでに書いたように、ミュンヘンには、大手6社とその他小さな醸造所がたくさんあり、それらがアウクスブルクでも飲めるのである。ミュンヘンという町の名が、修道院を意味し、そしてその修道院で作られたビールがミュンヘンビールの原型であることも、すでに私は書いている。このアウクスブルクも、ミュンヘンビールとその祖先を同じゅうする。
さて私がこのアウクスブルクに来た一番の理由は、聖ウルリヒ&アフラ教会を見るためであった。ここは、カトリックとプロテスタントが同居する教会として有名である。ルターの出現以降、ドイツでは、各諸侯が、その領民がルター派になるか、カトリックのまま残るかを決めたが、ここアウクスブルクでは、結局どちらかを選ぶことができず、やむなく両方が共存することになったのである。しかし仲良く共存できる訳もなく、しばしば両派は文字通り血みどろの戦いを繰り返し、そうして次第に妥協していった。その名残りを見たいと思ったのである。
一体、宗教は共同体のものであり、個人のものではない。フランスでは国家がカトリックを選び、イギリスではイギリス国教が作られ、それは次第にプロテスタント化して行った。ドイツでは、諸侯がそれぞれ自分の領民の宗教を決めた。しかし例外があり、いくつかの帝国自由都市では、両宗派の共存が認められていた。アウクスブルクはその一つとしてよく知られている。私はその教会を実際に見てみたいと思っていた。私はドイツのたいていの町は訪れていたのだが、アウクスブルクに滞在するのは初めてであった。
町の中央から向かって歩いて行くと、教会の敷地内に二つの建物があり、手前にある説教堂がプロテスタントの建物だが、それはずいぶんと小さなもので、その奥にある大きな主教会堂を、中庭も含んでカトリック側が使っている。何だ、ずいぶん小さいな、というのが、プロテスタントの建物に対しての最初の感想で、しかしそれはバロック調の厳かなもので、あとから強引に割り込んだプロテスタントが精一杯見栄を張ろうとしている、といった風である。
さて、私にとって興味深いのは、この宗教対立が何か、ビールの歴史に影響を与えてはいないだろうかということであった。カトリックは伝統的に、とにかく領民に教会に来てもらわねばならないと考えるから、教会は一種の社交場になっていて、そこではビールも飲めたのである。ところが、プロテスタントは、聖書をドイツ語に訳し、各人が教会の権威に頼らず、自分で聖書を読むことを促し、そして領民には勤勉に働くことを要求した。さてそうなると、修道院で作られてきたビールの文化はどうなるのか。それが私の関心事であった。
結論から言えば、あまり影響はなかったかというところではある。プロテスタントを選んだ領邦では、日曜日の酒屋の営業は禁じられた。そして平日は勤勉に働き、貯蓄をし、日曜は教会に集まって、聖書を読む一部の敬虔な人々と、読み書きができず、始終酒場にたむろする大衆とに分かれたが、酒場の文化が完全になくなった訳ではない。それはプロテスタント文化と大衆文化との分離をもたらしたが、どちらかの優位に終わったのではない。従って、プロテスタントの地域で酒場がなくなった訳ではない。ただし、エリートはワインを少しだけ嗜み、大衆はビールを大量に摂取する、という二分化は確立し、従って、私がアメリカでも、ドイツでも、ビールが好きだと言うと、プロフェッサーなのにと、怪訝な顔をされるのだが、そういう結果をもたらしはしたのである。せいぜいその程度のものかと思う。
現在ドイツで、一番地ビールが残っているのは、オクトーバーフェスト(ビール祭り)で有名なミュンヘンと、ケルシュを擁するケルン、及びその周囲であり、そしてミュンヘンはカトリックの強い南部ドイツの拠点であり、ケルンもまたカトリックの総本山の大聖堂を抱えている。それで私は、カトリックの強い地域に地ビールが残っているのではないかという仮説を持っていたのだが、しかしそれ以外の地域でも結構ビールはあるし、プロテスタントの強いオランダ、イギリスにビールが広がっていることを考えれば、プロテスタントとカトリックの違いは酒に与えた影響という点で、小さなものにすぎないのかもしれない。ただ単に、北の地域では葡萄が育たないから、麦から作られるビールが発達し、しかしヨーロッパの北側では、ローマに対して、またのちにはフランスに対して、常にあこがれの気持ちを持っているから、ワインが高級なものとされ、地元で作られるビールはランクが下がるとみなされた。そういうことにすぎないのか。あるいはその傾向を、先の勤勉なプロテスタントの持つ文化と放埓な大衆の文化との対立が、助長した。そういうことではないか。
しかしもう少し何か、宗教と酒は関係がありそうである。プロテスタント地域では、蔑まれながらも、そしてカトリックの地域でも、やはりワインは高級なものとして、ビールと棲み分けをしながら、とにかくビールは残って来た。とりわけ、ドイツの各地では、主食の堅いパンを食べるためには、それをビールに浸けて柔らかくして食べる習慣があり、長くビールは主食のひとつであったのだが、次第にその正当な地位を失っていった。それは宗教対立が促したというよりも、印刷技術の普及やブルジョア階級の経済的勃興がむしろ宗教対立を促し、そうして聖書を自ら読める者たちは、信仰を持ちつつ、行政にまで入って行くことができるようになったのに対して、そうでない大衆は教会から離れて、酒場で文化を維持するしかなくなった。つまり、広がったのは格差なのである。時代を経て、そんな風にビールは、主食の座から大衆の慰安物へと変容しつつ、何とか生き残ってきたと思う。
そのようなことを考え、とにかく何と言っても、教会の隣に数百年も堂々と構えているビール醸造所なのだからと、私は期待を持って、その醸造所に出かけ、併設された飲み屋に入ったのである。店の外の壁には、そのビールは、Scheyernというさらに1119年まで遡る、これもまたミュンヘン郊外にある、大聖堂で作られたビールの伝統を引き継いでいると書いてあり、いよいよ期待は高まる。
しかしその飲み屋は、中に入ると、どうも雰囲気が違った。サラダやチーズを量り売りし、その場でそれらを食べることのできる、今で言うサラダバーになっていたのである。私は平日の昼間にそこを訪れたのだが、大きな木が陰を作り、涼しい風の吹き渡る、風情ある中庭で、ビールを飲んでいる客は少ない。多くは職場の昼休みに食事を取りに来たOLであり、彼女たちは、水かジュースを飲みながら、サラダを中心とした軽食を楽しんでいる。しかしここはやはり伝統ある酒場であり、私はビールを飲むためにわざわざここに来たのである。私は、私自身も、量り売りのサラダを買い求め、その野菜とチーズをつまみながら、ビールも注文した。もちろんビールも飲むことができる。ここは、一応は酒場なのである。
私は最初に小麦ビールを飲み、次いでお代わりをして、修道院ビールを飲んだ。小麦ビールはミュンヘンで飲み漁ったものと変わらない。修道院ビールは、これは、甘みも苦味も少なく、かと言って、ケルシュのような透き通った繊細なものではなく、ビールの原点とでも言うべきか、素朴なビールであった。モルツの甘さもホップの苦みも、酵母の香りもが少ないのである。しかし紛れもなくそれはビールであり、そこに力強さは感じられ、結構行けるのであった。
ビールを飲みながら、しかし複雑な思いである。このようにしてビール会社は生き残っている。サラダバーをやりながら、店は何とか維持し、しかしビール好きにはちゃんとビールを出して、営業はしている。本当にたくましく生きていると思う。冒頭に書いたように、この数十年で半減したビール会社が生き残るための、これはひとつの戦略ではある。
その他に二軒、今回のアウクスブルク滞在中に入ったいくつもの飲み屋の中で、私が感心した所があった。ひとつは、König von Bayernという名の店で、町の中心部を挟んで、教会とは反対側の、大聖堂の近くにある。ここは、ミュンヘン郊外にあるAndechs修道院ビールを出していた店であったが、近年、店名を変えたと、古いガイドブックにあった。Andechs修道院ビールは、1455年に遡る、修道院ビールとしては著名なもので、かねてから私はそのビールを飲みたいと思っていた。しかしその店に出かけてみると、店の壁には、1270年以来の伝統を持ち、その後数度の建物の建て替えがあり、1803年に今の店となったとあるのだが、肝心のビールは、Schloßbrauereiというビールに代わっていた。このビール会社は、正式には、König
Ludwig GmbH & Co. KG Schlossbrauerei Kaltenbergと言い、しかしこれも、ミュンヘン郊外に、13世紀から続く、伝統的なビールである。このビールは現在は、ミュンヘン郊外の城で作られており、その城、及びビール会社の現在の所有者は、バイエルン国王の末裔を自称している。それに由来して、この店は、König von Bayernを名乗っていると言う。
ちなみに、Ludwig一世は、バイエルン国王の二代目であるが、彼の結婚を祝して始められたのが、かのオクトーバーフェスタであり、それが行われる場所が、妃テレジアにちなんで付けられた「テレジアの草原」(Theresienwiese)という牧草地である。これは、ミュンヘン中央駅から南西に歩いてすぐのところにある。ミュンヘンの歴史は常にビールの歴史である。
私は、鳥の半身を齧りながら、ここでも酵母入り小麦ビールを飲んだ。料理はずいぶんと種類が多く、店は地元民らしい人たちで溢れている。レストランとしては結構繁盛している。この店がビールを変えた理由は、店員に聞いても分からなかった。客の応対に忙しく、それどころではない、という感じであった。何か店の歴史を示すパンフレットのようなものはないかとも聞いたのだが、店の壁に書いてある以上のことは分からないと、冷たくあしらわれた。それはそれで仕方ない。店は一部のマニアのためにあるのではない。
最後は、König von Flandernという店について書く。ここも伝統は古く、1516年からのビールを受け継ぐとあるのだが、しかし店ができたのは最近で、1988年のことである。伝統復活にかける経営者の熱意が随所に感じられる。醸造は店の中で行っていて、客はその大きな釜を見ながら、ビールを飲むことができる。かつてはよくあったタイプの店を、見事に復元している。地下蔵の薄暗さも快適である。ここの小麦ビールは、少し甘いものであった。飲みやすく作られている。少し割高であるが、これはこれで仕方ない。採算をとるためには、やむを得ない処置だ。ここでは私は豚の腿の焼いたものを注文する。ザウアークラフトやジャガイモといった付け合わせはなく、肉だけが皿の上に出て来る。こういったところも良い。それら付け合わせが欲しければ、別に注文をすれば良いからだ。
こういう形で、ビール醸造所は残っている、と私は感じた。これが今回の旅の収穫である。
プロテスタントとカトリックの争いは、今や遠い昔である。近年ではキリスト教の形骸化が、とりわけヨーロッパでは進んでいる。
そうしてビールを飲む階級と飲まない階級の対立も、昔のものとなった。ビールは次第に、どこででも飲まれなくなっている。世界的にこの傾向は見られる。そういう中で、ビールの伝統は守りつつ、店の形態を変える所。取引先のビールを変えつつ、店を維持する所。新しく店を興して、古いビール文化を再生する所。様々な形で、ビール文化は守られている。
聖ウルリヒ&アフラ教会の説教堂はバロック様式のもので、教会全体としては後期ゴシックやルネッサンス様式の混在したものだ。町にはさらにロココ風の建物ものもあり、アウクスブルクという町が、それぞれの時代に栄えていたことを示している。各時代の様式は、溶け合うことなく、その独自性を主張している。
伝統と現実的なニーズも、決して溶け合わない。しかし妥協はしなければならない。それはカトリックとプロテスタントのように、溶け合わず、争いつつ、共存し、そして両者ともに少しずつ変容していくのである。
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