世界の酒 ---常に酔っていなければならない--- ボードレール
第三十回 トリエステに行きたい ―
ハプスブルク物語(1) ― 2009.3.23
トリエステはハプスブルク帝国の南端にあり、現在はイタリアに属する港町である。19世紀にウィーンから鉄道が敷かれ、先ずはアルプスを越えて、グラーツに行き、そこから今のスロヴェニアの第二の都市マリボルを通って、首都リュブリャーナに到着。さらにそこからアドリア海に向かい、トリエステに着く。
そもそも、19世紀の皇帝カール6世が、オーストリア系ハプスブルクも、スペイン系と同じく、海外貿易振興をすべきとし、その拠点として考えたのが、この町である。続けてその娘マリア・テレジアも、植民地政策を掲げて、この町を重視した。
さて、私自身も、ウィーンから、グラーツ、マリボル、リュブリャーナ、トリエステという順に電車に乗って訪れてみたいと、日本で、トーマスクックの時刻表を買って、検討してみたのである。するとウィーンからリュブリャーナまでは、直行の列車が走っている。しかしそこからトリエステに向かう列車はなかった。この時刻表は、またどのガイドブックもそうなのだけれども、国別になっているから、オーストリア、スロヴェニア、イタリアと三国のものを見て、つなげて行かねばならない。あれこれと資料をひっくり返したけれども、どうしてもトリエステには行かれない。それであっさりとその時点で、トリエステ行きの案は消えてしまったのである。
ところが実際に、飛行機でウィーンに来て、そこから列車でリュブリャーナに向かっている時、私は再度トリエステに行きたくなった。せっかくここまで来たのだから、あともう少し。きっとリュブリャーナに着けば、そこから何かしらトリエステに向かう交通手段はあるはずだと考えたのである。
さてリュブリャーナに到着すると、この町に二泊することにして、ホテルを取って、荷物を降ろし、再び駅に向かう。そこで確認したことは、まず、トリエステに向かう列車はやはり走っていないということである。それからバスならば、一日一便ある。しかし、行きは朝6時20分発であるということであった。
私はここであっさりと、諦めてしまった。ホテルの朝飯は6時半からである。それも取らずに、早くから出かける元気はない。私は帰りのバスの時間を確かめるまでもなく、二度目の挫折をしたのであった。
そこで二日間、リュブリャーナで過ごすことにして、到着した日の午後、早速町を見学することにする。ところが、この中世の町は、ずいぶんと小さなもので、2時間もあれば、城や教会などを見て回ることができる。その日のまだ暗くならないうちに、私は町の観光を終え、さて、これから丸々一日以上、特にすることもなくなってしまった。
リュブリャーナの駅のすぐ近くには、Unionという名の大きなビール工場がある。これは相当に大きな工場であって、わずか人口200万の、スロヴェニア人の喉を潤してなお余りあるものと推測され、近隣諸国にも輸出しているに違いないと思われた。さて、その工場の中には、ビール博物館が併設されているとガイドブックにあり、私はそこを見学しようと思って、出かけたのである。
その日は雨が降っており、傘をさして工場内を探すのだが、博物館らしきものは見当たらない。それで工場で働いている人に英語とドイツ語で聞き出すが、スロヴェニア語でしか返事がなく、博物館という単語すら通じない。往生していると、やっと英語のできる女性と出会う。彼女は、その工場にビールを買いに来たのだった。工場から直接買うと割引されるそうなのである。
さてその女性に通訳してもらって、博物館のことを再度、工場内で働いている人に聞いてもらうと、博物館は、月に一度、第一木曜日にしか公開しないということであった。せっかく来たのに、残念ね、と女性に言われる。そして、この時期、リュブリャーナは毎日雨が降る。スロヴェニアを楽しむのなら、この町を離れて、アドリア海の町を訪れると良い。そこならきっと晴れていると思う。そう彼女は私に話してくれたのである。
そこで私はその足で再び、駅に向かい、ここからアドリア海の町、コーペルまで列車が走っていることを確認して、翌朝出かけることにしたのである。
さてホテルに戻って、地図を見ると、コーペルはスロヴェニア内、イタリアとの国境にあり、すぐ隣はトリエステであった。それで私は再再度、トリエステに行こうと思う。列車でコーペルに行き、そこからきっとバスが隣町のトリエステに向かって走っているに違いない。そう考えたのである。
翌朝、朝食を大急ぎで終えて、ホテルを発つ。駅でコーペル行きの列車の切符を買おうとすると、その列車は、夏しか走っていないという。次の列車はだいぶ先だ。そこで急きょ、バスに切り替えることにして、バス停に向かうと、幸い、コーペル行きのバスが間もなく出るという。切符を買って乗り込む。
乗客は数人。その後もさらに数人乗って来るが、すべて女性で、しかも2時間ほどの行程の途中で皆降りてしまい、やがて乗客は私一人となる。バスは、山道を上ったり下ったりと起伏の飛んだ道を走る。やがて遠くにアドリア海が見える。折から雨も上がって、青い空と、青い海が同時に私の目に飛び込んでくるのである。いささか私は興奮していた。内陸の、陰鬱な気候のウィーンの住人が、イタリアの海に憧れる気持ちはよく分かる。そもそもドイツ人はイタリアに憧れる。古くはゲーテがイタリアに恋し、そしてハプスブルクの皇帝たちは、このアドリア海の港町に固執する。
しかしトリエステは同時に死の誘惑に満ちた町でもあった。ウィーンの物理学者ボルツマンはこの町で自殺している。そしてまたハプスブルク帝国内、プラハに生まれ、ミュンヘンで育ったリルケは、この町で『ドゥイノの悲歌』を書く。この町で彼は死者の声を聞く。あるいは、『ヴェニスに死す』の主人公は、ミュンヘンから、ヴェニスに向かい、そこで自殺をするのだが、このヴェニスは、トリエステから、すぐ近くにある。太陽の燦然と輝く海の町は、山の民の憧れであるだけでなく、死にいざなわれる町でもあったのだ。
そういう思いをしながら、バスの一番前に一人座り、車窓に飛び込んできた景色にうっとりとしていた。まもなくコーペルに着くはずである。
ところが、バスはなかなかコーペルには着かず、アドリア海に近づくと、どうやらコーペルには向かっていない。回り道でもするのかと思っていると、やがてピランという町に着く。そこで運転手はバスを止め、たった一人の乗客である私に向かって、スロヴェニア語にドイツ語の単語を混ぜつつ、この町は良い町だから、ここで見学をしたら良いと言う。一体どういうことなのか、最大限好意的に解釈すれば、私がリュブリャーナからアドリア海の町に半日の観光に来たようだから、コーペルよりもこのピランの方がよほどきれいなので、ここで観光すれば良い。そう考えたのか、あるいは客が私一人しかいないから、たまたま自分がピランに用があり、仕事より、私用を優先させたのか、そこは分からない。しかし私は観光に来たとは言え、コーペルに行くことが目的だし、そもそも私の持っている切符は、コーペル行きと書いてあり、バスの窓にもコーペル行きと明示されていて、また私はバスに乗るときにコーペルに行くことを確認して乗っている。それなのになぜ、コーペルに行かないのか。そのように私が言うと、おまえはコーペル、コーペルと本当にうるさいやつだ、もういい加減にしろと怒鳴って、運転手はバスを降りてしまう。
私はどうしたら良いか分からなくなり、とりあえず私もバスを降りて、付近を歩いてみる。まったくこのあたりが旧社会主義社会のいい加減なところだ、と文句も出て来る。しかし私が手にしていたスロヴェニアを紹介するガイドブックを見ると、確かにこの町は結構見どころも多く、きれいな町ではある。ここで私は、どうせ、トリエステも、同じアドリア海に面した町で、この町と変わらないのなら、もうトリエステに来たつもりになって、ここで半日遊んで、それからリュブリャーナに戻れば良い。私はあやうく三度目の挫折をするところであった。
折りよく、しかしこのピランからコーペルに行くという別のバスが来る。私は再度運転手に本当にコーペルに行くのかと確かめて、それに乗り、予定よりも二時間ほど遅れて、ようやくコーペルに着く。そして思うのだった。ピラン、コーペル、トリエステと地図を見ると、アドリア海に三つの都市が並んでいる。バスの車窓からが主ではあったが、期せずして、ピランという町を知り、その南国の街並みを、オリーブとブドウ畑の続く郊外、亜熱帯の植物が茂る家々の庭先などを見て、ずいぶんと楽しむことができたのではないか。
一体、旅に事故はつきもので、それに対しては、すべて肯定的に解釈し直すしかない。回り道をしたお陰で、良い旅ができたと思うしかない。とにかく今は、何とかコーペルに着いたのだから、ここからどうやってもトリエステに行きたい。
コーペルのバスターミナルで聞き出すと、ここからトリエステに向かうバスは一日に何本か出ていた。しかし接続は悪く、私はバスは諦めてタクシーに乗ることにする。乗ったタクシーの運転手はイタリア人である。運転手と話をしながら、車は10数分で、イタリアの国境に行き、さらに10数分で、トリエステの中心に着く。
トリエステは、先のスロヴェニア内の二つの港町に比べると、ずいぶんと大きな町であった。しかし燦然と輝く太陽の光と、海から吹く風が心地良く、その点では、この三つの町は共通している。
私はやみくもに歩いた。スロヴェニアのガイドブックにイタリアのこの町のことは全然書いていないし、イタリアのガイドブックは持っていない。何ら予習をしていないし、またツーリストセンターなどを探す時間もない。町をひたすら歩いて、この町の雰囲気を体で実感するしかない。
町を歩いて、そこで、Dreherという名のビールを出す店を見つけた。このDreherというビールは、18世紀のウィーンの伝説的なラガービール職人アントン・ドレーアの名から取ったビール会社の作ったものである。本家のウィーンでは、とうにDreherの名を残すビールはなくなっているが、このトリエステには、残っている。イタリア人は、ワインしか飲まず、ビールなど口にしないのに、なぜ律儀に、このハプスブルクの遺産を大事に守っているのか。
それは強い個性を出さず、すっきりとしたラガービールであった。前の日に工場を訪れて、かつその晩に飲んだリュブリャーナのUnionビールとよく似ている。Dreherビールは、南部鉄道でウィーンから運ばれて、途中のリュブリャーナにラガービールの技術を伝え、ここトリエステには、そのままその名前まで残したのである。
思えば、今回の旅は、ビールがつないだ旅であった。Unionビールの工場内で知り合った女性が、ウィーンからリュブリャーナまでやって来た私を、さらにこの町にまでいざない、ここでウィーンの名残というべきビールに出会った。これは幸運というべきであろう。
死への誘惑は、次々と困難に出会い、それを瞬間的に対処しなければならない旅人を襲いはしない。私は、このDreherビールを飲み、そしてこのビールだけを昼食として、もうそれだけで満足であった。午前中は散々な目にあったが、午後はきっと良いことが続くに違いないと確信した。そうして、短く、しかし充実したトリエステの滞在を、このビールを飲むことで終えて、夜遅くならないうちに、バスでコーペルまで帰り、そこからさらにリュブリャーナまで帰ろうとした。もう十分に太陽と風とを満喫した。
そうして私が帰路に着くべく、バス停に向かうと、そこで待っていたのは、あの、一日に一本しかない、リュブリャーナに直行するバスであった。午前中の様々なトラブルに近いものを、このあとの午後も起こり得ると、ある程度は覚悟していたのだったが、これで何も考えずに、2時間余り後には、ホテルに戻ることができる。私は深く安堵するのだった。