世界の酒   ---常に酔っていなければならない--- ボードレール

第三十三回    ウィーンの華やぎ ― ハプスブルク物語(4)

                                 2009.3.23

 

ウィーンを訪れるのは二度目であるが、一度目は、もう10数年前、東欧を歩き回った後、ちょっと寄っただけで、その時に何を見て、また何を飲んだのか、あまり良く覚えていない。2002年に、私は一年弱、ドイツに滞在したが、その時は西側のボンにいて、ドイツ国内は隈なく回り、またオランダ、ベルギー、フランスには列車で何度も出かけ、ロンドンとイタリア各地には、飛行機でしばしば出かけた。ドイツを真夜中発で現地に向かい、帰りもまた朝方ドイツに戻るという飛行機だと、往復3千円くらいで旅行ができ、向こうの大学生がよく利用していた。私も二泊三日程度の旅行をしばしば楽しんだ。しかし結局最後まで、ドイツの東側を訪れる機会はなかった。

二人の娘は、私がドイツにいたときは高校生で、ドイツに呼んで、私にとって最良と思われるドイツの風景を見せており、その後、大学生になると、今度は二人でよくヨーロッパに出掛けていた。そうしてウィーンが一番好きだという。あれだけ旅行好きのお父さんが、今まで一度しか、ウィーンに行ったことがない、というのは信じられないとまで言う。

しかし、私は今までの、本から得た知識で、大体ウィーンのことは分かっている。またあちらこちらの旅の経験からの類推で、ウィーンにどんな酒があるかも分かっている。

まず、この町には、次の三つのタイプのワインがあるはずである。第一に、ドイツがそうであるように、寒冷な気候のせいで、良質の赤ワインを作るのは難しく、白ワイン、特に貴腐ワインに特化して、技術を磨いているはずである。つまりここで、高級ワインというのは、貴腐ワインを指すはずである。しかし私は、貴腐ワインについては、パーティーの最後に、ほんの一口飲むのならば、うまいと思うが、ひとり旅行でゆっくりと感傷に浸りながら飲む酒ではないと思う。

第二に、ハプスブルクの歴史を考えれば、ブルゴーニュを支配した時期もあり、トスカーナも手中に収め、スペインを長く治めていたのだから、当然、そういうところから、良質の赤ワインがウィーンに流れ込み、人々はそういう酒を楽しむ文化を身につけているはずである。しかし私は、そういう酒は、それこそ、ブルゴーニュやトスカーナやスペインに出かけたときに飲めば良いのであり、何もウィーンで飲む必要はないと思う。またウィーンでも、それらのワインを作る技術を受け継いで、多少はまともなワインが作られているはずだが、しかしそれもわざわざ高い値段で飲みたいとは思わない。

第三に、しかし、地元の廉価なワインは、これは赤も白も大量に出回っているはずである。ところが、これも、私が長くウィーンに滞在するのなら、そういう安酒で、若い友人と飲んで騒ぐということがあるかもしれないのだが、ウィーン滞在が3日か4日という旅で、飲む酒ではない。こういう、廉価で、しばしばその年にできた、新しいワインを飲ませるところは、ドイツでは多くの町にあり、私のいたボンにもそういうところはあり、私は、友人たちと一緒に、ライン川に沿って、ぶどう畑を歩き、ワインを作る工程を見せてもらい、その後は、テラスで何倍かワインを楽しむということを経験している。ウィーンでは、ウィーンの森に、そういう店がたくさんあるそうだが、おおよその雰囲気は推測可能である。

とすればどうすべきか。結論は簡単で、ウィーンでワインは飲まない。上述の私の先入観が本当に正しいかどうかは確かめる必要があるが、もしこれが正しければ、ワインはここでは飲まない。それだけだ。

それでビールを飲むことにする。町を歩くと、まず気付くのは、レストランの看板を見ると、どこもGösserという名のラガービールばかりである。

今回の旅は、ウィーンに先ず来て、そこからスロヴェニアやハンガリーを回り、最後にまたウィーンに寄って、そこから帰ろうというものである。初日、観光地から離れて、地元の人たちが多く集まるレストランで、このGösserビールを飲んだ時、ホップも強く、モルツも濃く、ラガービールの原点という感触を得ている。うまいと思う。しかしこれを飲むためにわざわざウィーンに来たいというほどではない。私は何度も書いたように、デュッセルドルフやブリュッセルならば、その土地のビールを飲むために、わざわざその地を訪れたいと思い、実際何度も訪れたことはある。今回のビールは、しかし繰り返し書くが、うまいと思うのだが、そこまでではない。

ウィーンのレストランで、ビールは8割方がGösserを出すのだが、他にもある。Ottakringerは、オーストリア航空で、機内で出されるビールである。甘みが強く、苦みが少なく、飲みやすい。Schwechater Bierは、これがかの、アントン・ドレーアの伝統を受け継ぐビールである。しかし、ここウィーンで、現在ビール生産量の中で占めるシェアは大したことがなく、またこのビールが、ドレーアビールであることもあまり知られていないのではないか。ウィーンにビール好きの知り合いを持たないので、そのあたりは分からない。加賀美雅弘『ハプスブルク帝国を旅する』からの孫引きでは、ウィーンを出た列車が、ブダペストに向かう途中、「帝国最大のビールメーカードレーアの巨大な工場が見える」と、1903年に刊行された旅行書の紹介がある。現在は、ウィーンミッテを出て、空港に向かう途中に、Schwechater という町があり、そこにかつて工場があったはずである。

Gösser ビールは、元々はオーストリア南部、グラーツを州都とするシュタイヤーマルクのビールである。ドレーアビールが、ドレーアの子孫が死に絶えて、会社を受け継いだ縁戚がビールに興味がなく、それを売り飛ばしたり、会社の名前を変えたりして、シェアが落ちる中、代わって伸びて来て、今やウィーンでは最も売れているビールとなった。

さて、おおよそそこまでは最初の晩に調べ、その後短い旅を、ウィーンから始めて、スロヴェニア、ハンガリーと経て、最後の二泊三日を再びウィーンで過ごすことにする。

 まず昼間をどう過ごすか。ハプスブルクの総仕上げでもしようか。

ここに来たら、シェーンブルン宮殿、王宮、美術史博物館は、一応は訪れるのが、礼儀というものだろう。また、ベルヴェデーレ、ボナパルト美術館、セセッションと、クリムトやエゴン・シーレを追い掛けるのも良い。またこれは私の趣味だが、ヨーロッパの町では、必ず、教会を可能な限り見ることにしている。最後に本屋をいくつか冷やかす。そうしてめぼしいものがあれば購入する。いや、本屋によると、必ず何かしら買ってしまうのは、これは悪癖というより、職業病と言うべきであろう。かくして一日歩きまわれば、圧倒的なハプスブルクの遺産の山に疲れるかも知れない。

では夜はどうするか。旅の最後の二晩をどうするか。

散々考えて、私は再びGösserビールを飲むことにした。今度は直営店に行く。ここのビールは、先のレストランのビールと違って、甘さが強く、最初に感じるのはその強い甘みである。やはり直営店のビールであって、瓶詰めではない、樽から直接出してもらうビールはうまいと思う。この程度においしいと、少しうれしく、一日、今日は良く歩いたと、余韻に浸ることができる。夜飲む酒に、この程度の、ほどほどのおいしさは欲しい。

 そうして翌日も、良く歩き、さて夕方になり、今日は何を飲もうかと再び考えるのである。またもや散々悩んで、結局、最後の晩もまた、Gösserの直営店に行く。ここはサーヴィスは悪く、昨日担当してくれた若いボーイには苛々させられたが、その彼が、今晩もまた来たね、と笑って迎えてくれる。

ビールをゆっくりと飲んでいるうちに、この、甘いGösser のビールの、苦みが強くなってくる。これはこの旅の最初の夜に、町外れのレストランで飲んだ味だ。甘いビールが、少し時間がたつと苦みが増すのである。瓶ビールだと最初から苦みが出て来るということになる。

それは一気に、10日前の、この町に降り立った最初の日のことを思い出させた。そして私は、この短くも、結構楽しんだ今回の旅すべてに、あらためて思いを馳せ、それを反芻したのだった。

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