世界の酒 ---常に酔っていなければならない--- ボードレール

第三十四回 谷根千で飲む

2009.6

24の年に日暮里駅近く、谷中に移った。間もなく長女が生まれようという頃、セールスの仕事がうまく行かず、借金だけが残ったので、しばらくは大人しく、塾の専任講師をしながら、ひとりで勉強しようと決めて、勤め先の塾の近くに借家を見つけて越したのだった。ここには6年住んだ。

しかし越して間もなく、大学に入り直そうと思う。そう思い立ったのは、当時は共通一次と言われた試験の出願期間が始まってからで、大慌てで願書を用意して出願する。翌春から4年間、物理学を学ぶことになる。入試の前に生まれた長女を背負い、翌々年に生まれた次女を乳母車に乗せ、満員の地下鉄に乗って大学に行く。出欠の返事だけはして、しかし子どもが泣けば、教室にはいられなくなり、廊下に出る。そんな大学生活だ。卒業間際には、長男も妻の腹の中にいて、間もなくこの世に出ようとしていた。

また在学中に、自宅の隣にもう一軒古屋を借りて、そこで塾経営を始めた。2年間は赤字で、妻から借金をし、また妻の実家から米を送ってもらって、それで何とか生き延びた。学費は奨学金をもらって何とか賄い、さらにもうひとつを借りて、こちらは生活費に充てた。妻は一日働いている。私は、育児と学業と塾経営の鼎立を図らねばならず、それはしんどいものだった。

飲み屋に行く金もなく、毎晩生徒の帰ったあと、安い日本酒をひとり塾の教室で飲んでいた。ずいぶんと太って、あまり良い時期ではなかった。小説を書かなくなり、大学で専攻した物理は難しくて身に付かず、大学院受験にも失敗した。

卒業後、いったんは大学院進学をあきらめ、塾もようやく軌道に乗り、妻は三人の子どもを抱えて、ついに仕事を止めて、育児に専念することになり、私はアルバイトに予備校講師も掛け持ちするようになって、気持ちの上でも、金銭的にも余裕ができ、時々はひとり飲みに出かけるようになった。

谷中、千駄木で当時飲んだ店は今はほとんど残っていない。店そのものがなくなっているもの、店はあるが、看板が変わってしまったもの、看板も同じだが、どうも店の雰囲気が昔と異なるものと、様々だが、モツを焼き、焼酎ハイボールやホッピーを飲ませる店など、当時は至る所にあったのに、様変わりは著しい。

これが、根津まで足を運ぶと、少し値段の張る店で、私は入り浸っていた訳ではないけれど、何度か出掛けたのは、根津甚八だとか、はん亭で、それらは今でも健在である。昔とちっとも変わらない。あるいは、昔の青線地帯かと思われるあたりには、今も古い飲み屋があり、ある時、私はそういった店のひとつの、二階の汚い部屋で飲み、襖に寄り掛かっていたのだが、その襖を何気なく開けてみたら、すぐ隣に老婆が寝ていたということもあった。そのあたりも変わらない。

上野まで出掛ければ、大統領や大山がある。馬の腸の煮込みを出す、大統領はこのエッセイにしばしば登場する下町の安酒屋の典型だと思う。元肉屋という大山は、今でも、メンチカツやコロッケなどを出す。いや、これらの店に出入りしたのはもう少しあとだったか。記憶は定かではない。いつ頃から出かけるようになったのかは覚えていないけれども、多分一年に一度くらいは出かけている。今でも近くに寄れば、ちょっと店を覗いてみる。ただ残念なことに、これらの店は、いつでも満員だ。こういった飲み屋は、つぶれてしまうか、あるいは生き残って、神格化されるか。いずれにせよ、飲み屋の現在はあまり良いものではない。

谷中にいた6年間のうち、最後の1年余りは、そういった店を飲み歩く。谷根千と言われる、谷中、千駄木、根津から、上野、根岸、西日暮里あたりまでがテリトリーである。そうしてそれらの店の多くは、今はなくなり、残っている店は、異常なまでに混んでいる。

一体、飲み屋を紹介する本は多く、名著『下町酒場巡礼』があり、最近は、橋元健二『居酒屋ほろ酔い考現学』だとか、坂崎重盛『東京煮込み横丁』といくつも本が出て、私はそれらを、パラパラと読み、そこに出ている店の、半分くらいは知っていると思う。しかし名著の方は、初版1998年で、結構多くの数の店が今や畳んでしまっている。あとの二冊は最近のもので、それらに紹介されている店は、やはり混んでいる。

葛飾の高砂に越したのは、30になった頃。塾の経営が軌道に乗り、支店をつくるつもりで、高砂駅近くに、借地権付き平屋の古屋を買い、二階を付け足して、一階を塾にし、二階に家族が住んだ。谷中の家は、風呂がなかったから、三人の子を育てるのに、自宅の風呂ができたのはうれしかった。葛飾に越しても、さらに一年余りは、谷中の本教室を中心に教えていたから、相変わらず、このあたりで飲んでいた。葛飾で飲み歩くのは、まだだいぶ先のことだ。その後、アルバイトのはずの予備校が忙しくなって、そちらの専任になったので、塾は畳み、葛飾の家は、一階は私の書斎と子ども部屋になった。そうして飲み歩くのは、予備校のある高円寺のあたり。それから、予備校の仕事の合間に大学院に通い、間もなく大学の専任になって、地元葛飾で飲むようになったのはそれからだ。

先日は、日暮里から出発して、谷中、千駄木、根津、上野と歩いて、昔を懐かしみ、一軒の店で、ちょっと酒を引っ掛けて、しかし昔の名残がまったく感じられなかったので、慌てて引き払い、そうして最後はやはり、谷中に戻って来る。さて、日暮里駅近く、もう数十年は通っている中華の珍珍亭で餃子をつまんで、紹紅酒でも飲むか。あるいは、荒川区側に降りて、これは老婆の給仕で焼酎の梅割りが飲めるいづみやにでも行くか。あるいは、京成電車で葛飾に帰って、どこかに寄るか。

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