世界の酒 ---常に酔っていなければならない--- ボードレール

第三十七回 沖縄の女

2009.10.1

9月の下旬、沖縄の小さな飲み屋のカウンターに座り、私は泡盛を飲んでいた。女将はふっくらとした美人で、馴染み客にからかわれ、ああ疲れた、ああ大変と言いながら、ひとり炒めものをし、山羊の生肉を切り、酒を拵え、給仕をしていた。それは少し騒がしく、しかし心地良い空間であった。

私は昨年と同様、沖縄に空手の練習に来ていた。数日の滞在の予定で、連休を利用し、うまく大学の授業をやりくりして、同僚には内緒で来る。ラップトップを持ってくれば、メールをどこから出しているのかは知られないから、午前中はホテルでメールのチェックをする。私は役職についてしまったので、事務連絡が毎日大量に来るが、それをしらばっくれて、自宅から指令を出しているかのように装い、仕事をこなしていく。そうしてそのあと、午後と夜と、一日二回の空手の練習をする予定である。

昨年も、数日練習をし、仲間と酒を飲んで帰ったのだが、実は今年は昇段審査を受けねばならない。緊張している。いや緊張どころではなく、審査そのものは絶望的で、審査の数日前にここに来て、特訓の後に審査を受けるという段取りであるのだが、こちらに来て、最初の日の練習で、昨年に比べて上達が著しいと褒められた後、この調子であと半年ほど毎日練習すれば受かるだろうと、こちらの師範に言われる。それはショッキングなコメントで、わざわざ金もかけ、今年はいつも出かけている夏休みのドイツ行きもキャンセルして、空手の練習に励んできたのに、もう最初の日の練習で、今回は無理と言われれば、落ち込んでしまう。しかし、こちら沖縄本部には、達人が勢揃いで、彼らの演舞を見ると、もう私のレベルではどうやっても太刀打ちできないことが分かって、初日から私は気落ちしている。

しかし沖縄滞在二日目の晩、午後の練習が終わって、その後事情があって、夜の練習がキャンセルになったので、これ幸いと、ひとりで飲みに出かける。初日の夜は、練習のあとはへとへとになって、また今書いたように、すっかり打ちのめされてしまったこともあり、どこにも出かける気力はなく、空手着を洗濯して、缶ビールを飲んで寝てしまった。今夜はせっかく沖縄に来たのだし、少しは楽しんでも良いだろうと思う。

大通りからちょっと小道に入った、泡盛と山羊肉を出す飲み屋に入る。ここは私の微かな記憶を辿れば、21年ほどにもなるか、私が20代最後の年に来ている。その記憶を辿って、店を探し、多分ここだろうと思って入り、カウンターに座る。少し違うかなという思いと、しかしこの辺りの店だったはずだという思いと両方が交差する。お婆さんと女将とふたりが忙しく働いている。泡盛と山羊の刺身を頼んで、しばらく粘っている。お婆さんは、そのうち店を離れてしまって、女将は、ひとりで店を切り盛りしている。6席ほどあるカウンターは満席、その奥に二部屋ほどあって、どちらにも客はいる。女将ひとりでは到底こなせない。あちらこちらの客に、ごめんね、もうちょっと待って下さい、今行きます、と声を掛けつつ、しかし一向に手順ははかどらない。客は皆、馴染みらしく、まだ料理が来ないのかと文句を言いつつ、しかしそれは決して苦情ではなく、この店ではいつも飛び交う、いわば挨拶のようなものらしい。こんなに忙しいと痩せるよね、と言う嫌味な客に対しても、本当、まったくと、軽く交わす。それを見ていて、私が20年以上前に入った店はここに違いないと確信する。あの時は、もっと客も多く、従業員もいたはずだが、しかしこの女将が、当時は娘さんという印象だったが、ひとりで張り切っていたのは変わらない。

そのうちに、客が、女将をナオミさんと呼ぶのに至って、私は確信する。その名前を聞いて、20年余りの時間は一気に縮まる。そう、私は間違いなく、この店に来ている。この、元気が良くて、愛想があり、しかしどうも要領の悪い女将は、私とほぼ同い年か、最初はアルバイト店員のようにも思えたが、どうも店の看板娘らしく、すべての客に愛想を振り撒いていた。ナオミさんと呼ばれていたはずだ。それが、私が50歳になって、再び、ひとりこの店を訪れて、相変わらず彼女は、忙しく、しかも接客振りはまったく変わらずに店を切り盛りしている。

私は泡盛を三杯飲んだ。その間に、頼んでもいない、サラダや、牛肉の刺身や、そうめんなど、他の客のために作ったものを少しずつお裾分けしてくれる。その彼女のいい加減な手裁きや、帰る客に対するいい加減な会計を見ていて、本当にここは20年余り変わっていないと私は思う。

肝心の山羊の刺身はなかなか出て来ないで、泡盛ばかりどんどん進んで、私は酔って来る。泡盛は、まだどの銘柄がうまいのか、その違いが分かるほどに習熟していない。三杯とも全部銘柄を変えて、どれもうまいと思う。

29歳で、私はやっと大学を卒業し、在学中に始めた学習塾もようやく生徒が増え始め、極貧の生活からは何とか抜け出すことができ、少し余裕ができたので、これは塾を開いてから初めてのことだったが、確か6月の、沖縄では梅雨の終わった頃、塾はアルバイト講師に任せて、私は45日の休みを作り、出かけたのである。西表島でジャングルを歩いたり、カヌーを漕いで、マングローブ林を蛇行する川を遡ったり、珊瑚の海に潜ったりして、3日ほど過ごし、そうして最後の晩は那覇に戻って、一泊し、この店を見つけたのだった。異郷の地で出会った、愛嬌のある女性の印象は強烈で、旅の最後を締め括る思い出として、その後しかし特に思い出すことなく、私の胸に眠っていたのだが、今それはまざまざと蘇って来る。

そのときは、人生の転機だと私は思っていた。今思えば、その後も私は何度も転機を経験しており、当時の苦境はその、たくさんある中のひとつに過ぎなかったのだけれども、しかし本当は大学院に行きたかったのに、塾の仕事に追われて、勉強はできず、諦めざるを得ない状況で、この後、一生を学習塾経営者としてやっていくのか、決断を迫られていた。最初の二年間はまったく儲からなかった塾が、この年から、急に生徒が増えだし、食べるのには困らなくなっていた。多分これでやって行かれる。折りしも、予備校から話があって、週に一、二度は予備校に出かけて、小遣いも稼げそうだし、あとは勉強をどう続けるかが問題だが、これはしかし、大学に入学する前の状態に戻っただけのことで、もともと独学をしようと思って、19の年に最初に入った文学部を止めたのだし、その後物理学をやりたくなって、これは独学は無理だからと、大学に入り直して、こちらは奨学金ももらって、何とか4年で卒業し、さて、その後はどうするか。大学入学前に長女がすでにいて、在学中には次女が、卒業と同時に長男が生まれて、もう大学院どころではない。理系の研究者になる夢は諦めて、また元の文学青年に戻って、これからひとりで勉強しようと、これは苦い決断を下したのである。これがこの店で飲みながら、21年前の私が考えていたことだ。

その時に生まれたばかりの長男が、今ここ沖縄に一緒に来ている。この飲み屋には私ひとりできているのだが、沖縄には、東京で空手を一緒に練習している仲間数人と来ている。さて、21年前に、生まれたばかりの子とその母親を置いて、ひとり進路に悩んで、旅に出ていた、自分勝手で冷たい父親は、21歳になって物理学を専攻する長男に、自分と同じ道場で、空手も習わせている。子の方が、我が儘な父親に、適度に付き合ってくれている。一体、小説家志望の文学青年がどうして思想史を専門とする大学教員になったのか。どのように三人の子供を育てて来たのか。またなぜ、いい年をして、空手を習い始めたりしたのか。それは先にも書いたように、その後何度も転機が訪れて、そうなったのであり、私には私の21年間があった。それはずいぶん長いものでもあり、過ぎ去ってしまえば、短いものでもある。そうして目の前にいる女性には、この女性の21年間があったはずだ。それは多少は私の想像力を刺激した。この女性は、結婚はしたのか、今までに店を止めようと思ったことはないのか。どんな出会いがあり、何を楽しんで生きて来たのか。この空間には、私の知らない時間が流れていた。

ひとりカウンターに座って飲む酒で、長居は禁物である。酔って女将に絡み、俺は21年前にこの店に来たのだと言い出すのは野暮というものだ。思い出は、ひとり心の中に留め、大分待たされてやっと出された山羊の刺身を急いで食べて、もう一杯だけ泡盛を飲んで、これでホテルに戻る。

さて私の会計もいい加減である。泡盛も山羊肉もそう安くはないのに、3千円ちょうどで良いと女将は言う。ここはありがたく、その通りにしてもらって、また来ようかと思う。沖縄には、今後も来なければならない。昇段審査は容易には通らないだろう。幸い沖縄の大学にいる友人と共同研究をしようと思っていて、それも口実にして、これからちょくちょくここに来ることになると思う。旅先に馴染みの店があるのは良い。

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