世界の酒 ---常に酔っていなければならない--- ボードレール
第四十回
再びベルギービールに挑戦
2009.12.31
二年半ほど前、私はベルギービールを飲もうと、ブリュッセルに出掛け、そこで盗難に出会っている(No.20)。そのときは、ついにベルギービールは飲めなかった。さて、2009年末のほんの数日を利用して、私はまたベルギーに来た。今度こそはビールを楽しみたいと思う。
今度もドイツからベルギーに向かう。まずブリュッセル南駅で降りる。前回はこの駅を出て、すぐのところで三人組に囲まれて、私は荷物を奪われている。用心しないとならない。今回も駅の出口のあたりには、失業者がたくさんいて、どうにも雰囲気は芳しくない。
しかし今度は、私は、左右を見ながら、また時々後ろを振り向いて、誰も近付いて来ないことを確認しながら、速足で、立ち去る。駅から、予約をしてあるホテルまで、1km余り、そこを歩くのが一番危険だ。急いでホテルに着かねばならない。また、途中の大通りの、あちらこちらに、数人の若者が立っていて、こちらを見ている。これも怖い。油断せず、とにかく速足で逃げるように歩く。幸い、これだけ警戒しながら歩いていると、誰も近付いて来ない。こうして何とか無事ホテルに到着する。
緊張するのは、しかしそこまでで、その後は楽である。荷物を置き、財布はコートの中に隠して、あとは地図とメモ帳だけを小さなバッグに入れて持ち、外に出る。これで一日、観光を楽しむことができる。
このようにして、私は今回、ブリュッセルだけでなく、そこから北西に電車で30分ほどのところにあるヘント(以下、地名はオランダ語読みで表記する。英語読みでは、ゲント。私が高校生の時から使っている地図帳では、オランダ語読みをしている。ガイドブックの多くは英語読みである。因みにフランス語読みでは、ガンと発音し、歴史の本ではしばしばこのように表記されている。)と、さらに30分のところにあるブルッヘ(フランス語読みではブリュージュ。ガイドブックではこちらが使われる。)にも行く。毎日、昼前からビールを飲み始め、午後は何軒かの店をはしごして、その間に、美術館や博物館、教会をこまめに見て回る。夜は早めにホテルに戻って、就寝し、朝未明に起きて、ホテルで読書をし、朝食後はすぐに街に出て、散歩をして、その後電車で移動し、再び新しい街で、ビールの飲める店の開くのを待つ。そんな風にして、数日を過ごす。
さて、ベルギービールを飲みながら、ベルギーの歴史と現在を考察したいと思っている。まずベルギービールそのものについて、これは調べた限りでは、おおよそ千余りの種類がある。同じビールを、異なる銘柄で出しているものもあって、その重複を除いて、千余りである。重要なのは、この千余りの種類、すべて味、香り、色が違い、製法が異なっていることである。
すでに私は何度かこのブリュッセルには来ていて、また東京のベルギービール専門店にも行ったことはあり、ベルギービールの全種類のうち、1%か、2%は知っているのだが、今回はそのレパートリーを3%程度には増やしたいと、これはささやかな目標を持ってここに来ている。
また、事前に飲み屋についても調べてある。行き当たりばったりに店に入ったのでは、ピルス(ラガー)ビールを出す店も多く、そんなところに入ったのでは、何のためにベルギーに来たのだかわからない。ベルギービールを数多く揃えている店をそれぞれの町について、リストアップしてある。飲み屋のひとつのタイプはカフェと呼ばれるもので、ここはビールのみを出し、つまみ等の食事はごくわずかなものしかない。あとはレストラン形式で、おいしいベルギー料理をビールとともに出す。
実際に店に行くと、混んでいて入れないこともあり、定休日のこともあり、また店名が調べたものと違っていて、入るのに躊躇する時もあり、またついに探せなかったり、ようやく住所を頼りに探し出したら、つぶれていたりということもあるから、少し多めに、これはブリュッセル、ヘント、ブルッヘと、リストアップしてある。
そうやって訪ねた店には、ユニークなものが多く、数百年は経っているだろうと思われる建物の中にあったり、店の中に、トナカイや熊など、大型獣のはく製やら、様々な人形やらを飾っているものもある。暖炉の火が雰囲気を盛り上げているところもある。
また、店によって、ビールの分類も、その店独自のものを作り上げ、ていねいにメニューが作られている。この分類については、結構それを追うことは難しい。ベルギービールを世界に広めたマイケル・ジャクソン(Michael Jackson's Great Beers of Belgium)と、彼の本を日本語に訳した田村功(訳書は『マイケル・ジャクソンの地ビールの世界』、また著書に『ベルギービールという芸術』がある)は、それぞれ別の基準で、それを11のカテゴリーに分けている。別の著者の本では、それが10になっている。それらを参考にして、しかし私自身は、その千余りのビールをすべて制覇した訳ではないし、またその野心もないのだが、飲んだ限りで、次のように分けてみた。
まず、私がそもそもベルギービールという名のビールで、最初に飲んだのは、ブリュッセルの西南部のみで造られるLanmbik(以下ビール名はすべてオランダ語表記をする)である。これは野生の酵母を使い、発酵後、熟成させてから市場に出す。またこれをいく種類かブレンドしたのが、Gueuzeで、こちらの方が味は整っている。強い酸味が心地良い。これにさらに、果物が入ったものも、多くある。
また、修道院ビールと呼ぶべきカテゴリーがある。これはさらに二つのサブカテゴリーに分かれ、Orvalなどの修道院で造られるTrapistと、修道院から許可を得て、一般の会社の作るAbbaye(Tongerloなどがある)に分かれる。このカテゴリー内のビールの種類は際立って多く、日本でもいくつかは飲むことが出来る。
それから、Hoegaardenが有名だが、白色の小麦ビールのカテゴリーがある。また、高アルコール濃度ビールと呼ぶべきものもある。Pauwel Kwakなどが知られている。これは8.0%の濃度である。一般にベルギービールのアルコール濃度は高く、名前にDubbelと付くものは6%位、Tripelとあれば、9%ほどある。
さらに今回出掛けたのは、ヘントは東フランデル地方、ブルッヘは西フランデル地方であって、その地方の地ビールと呼ぶべき、長期熟成型という新たなカテゴリーのビールを知ったのが、旅の収穫のひとつであった。西フランデルには、赤いワインのようなビールがあり、強い酸味がある。東フランデルには茶色の、果物の匂いのするビールがある。どれも数カ月から数年寝かせて、それから市場に出す。こういったビールを知り得たのは幸せである。私の分類はここまでとしよう。
さて、容器にも注意がいる。原則として、すべてのビールに、そのビール向きの入れ物が作られていて、容器にそのビールの名前が記されている。つまりひとつのビールにひとつの入れ物が決まっている。チューリップのような形をしたものがあり、すり鉢状のグラスに、太い脚をつけたものもあり、ワイングラスそのものと言うべきものや、細い円筒形のグラスで、一見通常のビールの入れ物なのだが、ガラスの分厚いものなど、様々である。
また、料理について言えば、ブリュッセルでは誰もが食べるムール貝は、ビールに実に良く合う。これは注文すれば、バケツのような形の鍋に一杯出て来るのだが、まずは、酸っぱいLambikとともに、これを味わい、次いでさっぱりした白ビールで食べ進み、最後は長期熟成型のビールで締める。また、フランデル地方の名物、牛肉のシチューや、ヘントの名物、鶏肉のクリーム煮もうまい。とりわけ、がちょうのレバーを一切れ口に放り込んで、それが口の中で溶けて拡がり、複雑なうまみを味わった後に、高アルコール濃度ビールを飲むと、さらにそのうまさが口中に増幅する。これはイタリア料理やフランス料理を食べながらワインを飲む快楽に決して劣らない。
しかし繰り返し書くが、私が飲んだビールは、ベルギービール全体のわずか3%程度にすぎない。ベルギービールの全体像をここに描くつもりなどない。ただ、このあまりにもユニークで、かつ驚くほどに種類が豊かで、中にはワインにも劣らない味わいと深みがあり、芸術の域に達しているとまで言うことのできるビールが、なぜワインのように、ヨーロッパ文化の主流とならなかったのか。またなぜ、これほどまでに知られていないのか。それが不思議である。
私が訪れた街のどこにも、すばらしいカフェがあり、店の演出に凝り、ビールの容器を多く揃え、料理の工夫をし、さらにビールを出す際には、その最も適切な温度をビールごとに調節し、客に提供する。どの店もそれだけのことをこなせる程度に、技術と伝統を有している。しかしそのことがなぜ、あまり世界に知られていないのか。この問題を考えるために、ここで、ベルギーの歴史を振り返ってみたい。その際に、私は歴史の通説に対して、それに異を唱えたく、いくつかの仮説を提示する。これらは素人の仮説に過ぎないが、しかしいつか実証してみたいと思っているものである。
ベルギーは、ブリュッセルを真ん中にして、おおよそ北半分の、私が今回訪れた、ヘント、ブルッヘというフランデル地方がオランダ語を話し、南半分のワロン地方がフランス語を話す。両者は交わることがない。
民族から言えば、このあたりはもともとケルト族が住んでいて、そこにローマから人が移り、これが南半分のフランス語を話すワロン地方の原型となり、そこにゲルマン民族が大移動して、北半分のオランダ語圏が出来上がる。
フランデル地方は、早くから独特の文化を有して栄え、一方、ブリュッセルは、ブルゴーニュ公国の首都であり、ブリュッセルとその南のワロン地方は、フランスの影響を受けていたことが分かる。つまり現在のベルギーの二言語(厳密に言えば、一部にドイツ語圏もある)、二文化共存は、かなり早い内から、そうだったのである。
そのフランデル地方は、街を歩く限り、ここはドイツの一地方都市と呼んでも構わないようだ。建物の造りや街並みは、まさに北ドイツのそれである。しかし人々の話すオランダ語が、ここをドイツとは異なる雰囲気にしている。オランダ語は大雑把に言えば、英語とドイツ語を混ぜたようなもので、そのために私はある程度、この言語を解することができるが、しかし人々の話すのを聞けば、ここはやはりドイツの一都市ではない。
では、ここはオランダ語を話す地域だから、オランダなのかと言えば、そうでもない。それはまず何より、料理に現れている。ベルギーは、フランス、イタリアと並んで、料理がうまい。一方やオランダは、私の偏見では、イギリス、アメリカと並んで、人々の味覚が鈍く、出される料理に見るべきものがない。またビールについて言えば、オランダにもトラピストビールはあり、一部はベルギーのそれと重なるが、しかし基本的に、ベルギービールの持つ種類の豊かさと華やぎがない。ビールと料理のうまさは、ベルギー独特のものだ。
このような地理的状況を生み出した歴史の中で、特に私が注目するのは、ハプスブルク支配である。ヘントは、ハプスブルク皇帝カール五世の生まれた所でもある。彼の祖父はマクシミリアン一世、祖母はブルゴーニュの公女マリア。マクシミリアンは、奇襲、買収、説得、そして最終的には、政略結婚を重ねて、現在のオランダからベルギー、フランスの一部を支配し、そこを息子フィリップ美公に任せて、自らはドイツに拠点を置く。そのフィリップは、当時のブルゴーニュ公国の首都であったブリュッセルを拠点としつつ、南スペインのアラゴン王の娘ファナと結婚し、スペインをも支配し、それを息子カール五世に委ねる。このヘント生まれで、ブルゴーニュの文化も受け継ぐ息子は、のちにスペイン王カルロス一世を名乗り、アウグスブルクの豪商も手懐けて、神聖ローマ帝国の皇帝となり、事実上、全ヨーロッパを支配した。時代は、ルターが着々とその影響力を増していた頃、しかしプロテスタントが定着するのは、このあと百年はかかろうという、そんなときである。
このカール五世のビール好きは良く知られていて、スペインに移ったのちも、ビールを取り寄せて好んで飲んだという逸話を、これは私はいくつかの文献で読んだことがある。たいていは、それは彼の、奢侈を嫌って、質実剛健を旨とした、彼の生活スタイルの現れとして描かれるのだが、しかし私はベルギービールの魅力を知れば、これが決してブルゴーニュやスペインのワインに劣らないものであって、カール五世は案外美食家で、贅沢を好んだのではあるまいかと思っている。私自身、フランスやスペインのワインは相当に飲んでいるが、しかしなおこのベルギービールは捨てがたい。これが私のひとつの仮説である。
フランデルとワロンの両方の地方で、現在もビールの醸造が盛んだが、それは、このカール五世の影響力のためだと私は考えている。一方、現在のフランス、スペインのあたりは、早くからワイン文化が栄えていて、ベルギーのビール文化はそれには敵わなかった。やがてワイン文化の方が、全ヨーロッパの主流となる。
さらに宗教について言えば、この百年の後、オランダ地方にプロテスタントが広がるが、ベルギーは、カトリックのまま残る。それは明らかにここが、ハプスブルクの領土だったからに他ならない。フランデル地方が、オランダ語を話しつつ、オランダと文化が異なるのは、そのためで、ここで私の偏見を付け加えれば、ベルギーの料理がうまいのは、この地方がカトリックのまま残ったためだと思う。つまりフランデル地方は、料理と宗教の点で、フランス、スペインとつながっている。
もうひとつ、美術史から、このあたりを見てみたい。ヘントはファン・アイク兄弟が、またブルッヘはメムリンクの活躍したところである。ファン・アイク兄弟の代表作「ヘント祭壇画」は、ヘントの聖バーフ大聖堂で今も見ることが出来、それが完成したのは、1432年である。メムリンクが活躍するのは、その少し後。彼の描いた静謐な宗教画は、ブルッヘに保存され、私の印象では、ブルッヘの町そのものが、メムリンクの、落ち着いて、穏やかなその画風を体現している。
また、ボッシュはさらにその少し後、15世紀後半に世に出る。生まれは、ベルギーの北、オランダの南部である。ブリュッセルで活躍するブリューゲルが生まれるのは、16世紀に入ってから。ここからやや北に位置するアントワープの画家ルーベンスは、16世紀後半の生まれである。
そうすると、神聖ローマ帝国と言い、これらの画家たちと言い、ここは紛れもなく、近代の最初の主役となり、多くの良きものを残し、現代もなおその魅力を失わないけれども、しかしその後、ヨーロッパ文化の主流には成り得なかった。
実は私はもうひとつの仮説を持っている。ボッシュやブリューゲルの絵の中には、しばしば酒を飲む人の姿や、酒樽が描かれる。例えば、ブリューゲルの「謝肉祭と四旬節の戦い」には、樽の上に跨る男が出て来、また左右の画面の端には、居酒屋が描かれている。樽の中身は何か、居酒屋で飲まれる酒は何か。ふたつともこれは、普通はワインだとされているが、実はビールなのではあるまいか。
ビールの歴史は、中世の終わりに、すでに各種のエールビールを作る技術を持ち合わせていたのに、それはドイツとオランダの一部の地方と、イギリスやアメリカの一部の醸造所と、そしてここベルギーにのみ残り、あとはラガービールが世界のどの地方にも普及し、大衆化した。一方で、ワインは、葡萄の育つ暖かい地方だけでなく、ヨーロッパの北の方の地方でも、上流階級の飲み物として認知され、その地位を確立している。
つまりエールビールや、その最も洗練されたベルギーのビール文化もまた、近代の最初の主役となり、多くの良きものを残し、現代もなおその魅力を失わないけれども、しかし現在はヨーロッパの酒文化の中の主役ではない。
そうして私は思うのだが、このことは、ヨーロッパそのものにもあてはまるのではないか。つまりヨーロッパは世界史において、明らかに近代の主役であり、多くのものを後世に残し、なお現在も輝きを持っているが、しかし残念なことに世界の主役ではない。20世紀はアメリカが、そしてそののちには日本が一時、台頭し、現在は中国がその関心を独占している。
折しも、ベルギー前首相が、初代のEU大統領となった。独仏から代表を出す訳には行かず、イギリス前首相も候補ではあったが、しかしイギリスはEUとアメリカを結ぶパイプ役に専任して、その代表には成り得ない。その国内に多様性を持ち、うまく独仏を調停するベルギーがEUの代表となるのは、EUの外にいる人間には、一番望ましいように思われる。
私はアジアもヨーロッパのように、統一したら良いと思うし、世界もまたカントの夢見たように、効力のある世界連合を有すべきだと思うが、しかし残念ながら、アジアも世界もヨーロッパのようにはならない。つまりEUのような統一はできない。従って、EUは世界のモデルとはなり得ないのである。今後は、アメリカと中国と、ついでロシアやインドが、世界の主役の座を巡って、争うだろう、世界はしばらくの間、まだ騒がしいだろう。そういう中で、世界の主役ではないし、世界のモデルともならないが、ひっそりと、その多様性と輝きを維持するヨーロッパがあり、その象徴的な地位をベルギーが占めるだろう。
あまりにも観光客が多く、また治安の悪いブリュッセルはともかくとして、ブルッヘとヘントは観光に最適だ。ブルッヘは、完璧なまでに、中世の美しさを保存している。ヘントもまた、例えば運河の両岸には、かつての栄光を示すギルドの建物群が美しい。とりわけ、朝、まだ明るくならないうちに、人のいない街中を歩くのは心地良い。あるいは11時ともなれば、カフェやレストランも開かれ、人々はビールを楽しむ。少し酔って午後の街を歩くのも良い。おいしい料理と一緒にビールを味わい、満腹の後の、腹ごなしのための夜の散歩もまた良い。
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