世界の酒   ---常に酔っていなければならない--- ボードレール

第四十四回 I drink Therefore I am               2010.5.31

 

イギリスの哲学者Roger Scrutonのカント論を読もうと思い、インターネットで注文をする。その時に、同じ作者にI drink Therefore I am -A Philosophical guide to Wine- という本があることを知り、序でにこちらも注文し、入手する。

カント論の方は、読みやすいものに仕上がっているが、記述が平板である。カントの面白さをまったく伝えていない。そもそもイギリス人にドイツ観念論のダイナミズムを理解するのは無理かと思う。常識的なカント論に終始している。

それでこのワイン論も、あまり期待できそうにない、イギリス人にワインの味が分かるのだろうかという先入観を持って読み進める。ところがこれが意外のほど、面白い。

前半は、I drink編。「我、酒を飲む」ということが、具体的に語られる。幼少時、葡萄の育たないイギリスで、ニワトコの実のワインを飲んだという思い出話にこの本は始まる。大学は奨学金をもらって、ケンブリッジに進み、貧乏学生をしながら、ワインに親しむ。フランスにも度々出かける。著者のワインの経験は、相当に年季が入っている。

著者はまた、イギリス人が世界でどう見られているかを知っている。つまりイギリス人にワインの味が分かるかという、先の私の偏見を、真摯に受け止め、彼自身は、そのハンディを、恐らくは旅行と読書でカバーする。ワインに関してのみならず、ヨーロッパの精神史全般について、その歴史と地理は言うまでもなく、哲学、文学、芸術とありとあらゆる分野の知識に精通し、その該博な知識を披露する。

後半は、Therefore I am編。「故に」「我」「あり」という三つの単語は、推理、意識主体、存在という哲学の三つのキーワードになっている。そして著者は、ワインを飲むことで思索が促され、この哲学的な考察に導かれると言う。

しかしながら、どうもこここで私の見るところ、著者の思索が、ワインによって深まるとか、ワインと哲学の因果関係を探るというような展開がなされるのではない。あくまで著者のワイン体験と読書体験とがパラレルに語られる。例えば、スピノザに言及したところでは次のような説明がある。まず、スピノザ哲学の概要が簡潔に語られる。そしてその哲学について、著者は、ワインを飲みながら、新たに気付いたことがあったが、そのことを書き留めておく前に、次のグラスを口に運んでしまったために、その考えは思い出されることがなかった、とこんな風に締めくくられる。

語り口は軽妙で、様々な哲学が語られ、様々なワインに言及がなされる。話は広がるが、しかし深まる訳ではなさそうだ。

さらに、ここで著者は、酔うことと、泥酔することを峻別する。ここは著者の感性の良く出ているところである。つまり、私たちはこの本を読み進めて、そして著者の目眩くほどの該博な知識に感心し、読書の愉悦に浸ることはできる。プラトンからフーコーまで、その言及先は無限に広がる。しかし読み終えて、どこか不満が残る。著者はワインを良く知っている。ワインへの思い入れも理解できる。しかし何かが物足りない。

酔うことと泥酔することは確かに異なる。適度に酔いつつ、哲学的な考察をするのは楽しい。私のこのエッセイも、たいてい、飲みながら書いている。泥酔しては書けなくなってしまう。しかし私はしばしば、酒を泥酔するまで飲む。書きものや読書をしている場合は、酔った時点で、パソコンのスイッチを切り、本を畳んで、あとは静まり返った書斎で、最後の一、二杯の酒を楽しみ、かすかに飲み過ぎてしまったかという後悔の念とともに、床に就く。あるいは人と飲むときは、調子に乗って、しばしば飲みすぎる。言わなくても良いことを相手に言い、また、その時はどうやって家に帰ったのか、あまり良く覚えていないのだが、翌日はちゃんと自分の部屋に寝ていて、そして意識が戻って来ると、どっと後悔の念に襲われる。しばしばそういう飲み方をする。

それはこの本の著者の、恐らくはやらないことだ。しかし私は思うのだが、時に泥酔しないで、何の楽しみか。

著者の筆の対象がワインに限定されていることにも不満がある。しばしばワイン飲みは、ワイン以外の酒を馬鹿にする。しかし夏の暑いときにビールはうまいし、冬の良く乾燥した日でも、暖かくした部屋で飲む、最初の一杯のビールはうまい。ビールは、そうそう馬鹿にはできない。イギリスやアイルランドやドイツやベルギーのビールの多様性はまた、世界の多様性の有り難さそのものを物語ると思う。日本酒だって、それは、冷や、日向燗、人肌燗と様々な飲み方があって、料理にも良く合い、やけ酒にも合う。安い酒でも、ひれ酒にしたり、骨酒にすると、おいしく飲める。その多様な飲み方を許すのが、日本酒の良さである。酒そのものの多様性と飲み方の多様性と、その両方が、日本酒の歴史と日本の歴史そのものを物語る。

ワイン、ビール、日本酒は、私にとっての三つの代表的な、そして最も摂取量の多い酒であるが、その他にも、焼酎は馴染みの飲み屋で、梅割りか、ハイボールか、またはホッピーで飲む。沖縄に行けば、泡盛、中華料理屋では紹興酒、昔はウィスキーやウォッカも良く飲んだ。ヨーロッパでお祭りのときに飲まれる蜂蜜酒はなかなか趣があり、簡単に作れる椰子の酒は、東南アジアを旅する際には必需品である。まだまだある。マッコリは私が作るどぶろくに良く似ており、アラックも捨て難い。日本には、梅を焼酎に漬けて飲む習慣があり、私はサクランボとレモンを漬けたものを好む。イチゴや枸杞の実でも良い。こうなるとどんな酒でも良いのかと、これはもう卑しいと言うほどになって、しかしこの卑しさもまた酒の魅力のひとつである。

私もまた、「我、酒を飲む。故に我あり」と言いたいと思う。どんな酒をどんな風に飲むかということが、まさしく私を作っている。酔いの進行とともに、私は自己韜晦し、ときに自虐的になる。自己陶酔して、その後に自己嫌悪に陥る。饒舌になった日の帰路は憂鬱だ。ひとり酒を飲むときは、これは静かな快楽が続き、しかし何も必ずしも飲まなくても良いのにという後悔もわずかに伴う。しかしいずれにせよ、最終的には大いなる自己肯定をして、ここに私の存在は正当化される。

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