世界の酒   ---常に酔っていなければならない--- ボードレール

第四十六回 カナダのウォータールーで飲む             2010.7.26

 

 カナダのウォータールーというところで学会が開かれる。トロントまで飛行機で行き、そこからバスに乗るのだが、どうもウォータールーにまっすぐに向かう便はなさそうで、空港からまず、どこそこの町まで出掛け、そこでバスを乗り換えねばならない。バスの時刻表はインターネットではうまく調べられず、一日に何本出ているのか、分からない。外国に出かけて思うのは、バスというのは結構使いこなすのが大変で、どこに、どういうルートで行くのか、良く分からないことが多い。果たして無事に着くことはできるのか、また帰りも大丈夫なのか、不安に思う。

このウォータールーという町自体も、『地球の歩き方』を買ってみたが、一言も説明が出て来ない。そんな不便な所ならば、今年は参加をあきらめようと考えたのだが、4月の学会参加申し込みの期限を過ぎて、ようやく日本語の本の出版の準備が整って、さて次はどうするかと考えたときに、いくつか書きかけのまま放ってある英語論文を整理しよう、それにはどこか英語圏に短期間でも良いから出かけて、ゆっくりと考える時間を取りたいということになり、大学は役職の仕事があって、長期間の休暇はしばらく取れる見込みがなく、とにかく一週間でも良いから、どこかに出かけたいと思ったところに、この学会が、今年は参加者の集まりが悪いのか、参加申し込みの期限を一カ月延期するという通知が来る。とすればこのチャンスに、一週間の出張を申し出るか。

 さて実際、相当の苦労をして、ウォータールーに着く。ここにはウォータールー大学という、そこそこ有名な大学があり、その周りにいくつもの小さな大学が集まっている。今回の学会は、その中のひとつの大学で行われる。小さな大学と言っても、日本の大学よりははるかに広いキャンパスを擁する。その大学の近くのモーテルに宿泊して、街を歩くと、ここは本当に田舎町、と言うと語弊があるが、地方の小都市であって、広大なキャンパスの中に、大学の施設が点在し、その外には、一軒一軒、庭の広い中産階級の家がずっと続いて、その他には何もない。大学の近くには、学生相手の、セブンイレブンとスターバックスといくつかのファーストフードの店があり、大通りには、モーテルや、ドライブスルーのハンバーガー屋などがあるが、それだけだ。アメリカを旅して、しばしば出会った、典型的な地方都市である。

 いつもの学会なら、特に発表の前の晩などは、外食する時間も惜しく、ワインとサラダとチーズを買って、それで夕食とする。サラダもチーズも、相当の量があって、日本人の胃には、それだけで十分な量で、あとはワインを少しずつ口に運び、明日の発表のために、下書き原稿の校正をし、パワーポイントの最後の手入れをする。それは幸福な時間で、ワインは、どこに出かけても、地元のおいしいものがあるし、ホテルにひとりでいて、誰からも邪魔されず、時間はたっぷりある。赤ワインをボトル一本飲み干せば、適度に酔って、早めにベッドに入って、翌日は朝早く起きて、今度はコーヒーを飲みながら、また勉強する。この職業を選んで良かったと思うのは、こういう時である。

 しかしこの街で、ワインを売っている店は見つからず、コンビニでは、入手できる食べ物にも制約がある。仕方なく、毎晩外食することにする。人に聞くと、歩いて230分は掛かるが、breweryもあり、ステーキ専門店もある。breweryは、これもアメリカに良くあるタイプの店で、お奨めは店自慢のAleで、そこにBitterStoutも置いてあって、味はまあまあ。食べ物も上品に作ってあり、炙った肉に、アスパラガスなどを上手にあしらって、控えめの自己主張をする料理なら、これでビールがおいしく飲める。ステーキ専門店も、rib eyeのステーキは申し分なく、半リットルのハウスワインも良い。これはCabernet SauvignonShirazのブレンドで、残念ながらオーストラリア産であるのだが、今度はこちらが強く個性を出さず、料理を引き立てる。また、生のホウレンソウにチーズをふんだんに使ったサラダも良い。一方、大学近くのパブに入れば、ここは学生で賑わっており、周りは皆、鳥のウィングをつまみにしており、私は、fish & chipsを頼む。二本の大きな揚げたてのcodは、たっぷり油を吸って、付け合せのジャガイモも大量に供され、そこにいささか冷たくし過ぎた感のあるビールを、これも何倍か飲んで、胃の中で、食べ物が膨れて、安上がりに満腹感が味わえる。これはこれで良い。

 飲んだ後は、もう勉強は諦めて、早々と寝て、あとは朝、未明というより、まだ真夜中と言うべき時刻に起きて、モーテルに備え付けられたコーヒー沸かし機で、コーヒーを何杯も淹れて、それを飲みながら、外が明るくなるまで勉強する。それはそれで楽しい時間である。

6時過ぎに散歩に出かけ、場合によってはさらにスターバックスでコーヒーを飲み、一旦モーテルに戻って、9時前には、学会に向かう。

学会は、朝は9時から、夜も9時くらいまで、月曜から木曜まで、びっしりと発表があって、その前の土曜と日曜には、ワークショップがあり、最後の金曜も、午前中に、いくつかの催し物が用意されている。真面目に参加すると、これは相当に大変である。しかし私は、自分の発表の他は、いくつか、知り合いのものを、これは義理で聞いたり、面白そうなものがもしあれば、ちょっとは参加したりするが、たいていは、モーテルに閉じこもって、ひとりで勉強していたり、街を散歩したりして過ごす。

発表は、自分のことは棚に上げて、玉石混交、刺激的なものに交じって、どうしようもないものもある。それはそれで良い。一体に文系の学会は、英語の上手な人しか参加しないが、理系の学会や、今回私が参加したような、理系も交じった学際的なものだと、結構英語の下手な人も来ていて、これはほっとする。友だちになれるかどうかの基準は、大体同じくらい英語ができる(あるいはできないと言うべき)か、どうかである。この学会では、結構顔馴染みがいる。

発表の翌日は、さすがに疲れて、朝の内、ちょっとばかし、人の話を聞いたら、もう椅子に座っているのが耐えられなくなり、昼を迎える前に遠出をすることにする。隣町に行くと、ここにはメノナイトがいる。以前アメリカに滞在していた時、フィラデルフィアに行く機会があり、ここの郊外にはたくさんのメノナイトが住んでいて、私はレンタカーを借りて、見て回ったことがある。彼らは今でも、車に乗らず、馬車を使い、電気製品も拒否し、聖書に従った生活をしている。ルターの訳した聖書を読み、数百年前に、彼らの出身地であるスイスで話されていたであろう言語を今も使う。それはなかなか興味深く、まさに、宗教的迫害から逃れて創られたアメリカを象徴している。そのことを思い出し、カナダのメノナイトは、一体どのように暮らしているのかと思う。しかし今回は車を借りる余裕はなく、徒歩で向かう。

1時間ほど歩いて、大きなファーマーズマーケットに着く。メノナイトだけでなく、近郊の農家も参加して、野菜、果物、乳製品などが売られている。これは相当に大きなもので、明らかにメノナイトだとわかる衣装の人たちがいる。私はここでホットドッグの昼食を取る。そこからさらに30分あまり、見渡す限り、トウモロコシ畑が続く道を歩くと、ちょっとした観光スポットがあり、そこにはメノナイトの生活を示す博物館があり、キルトなどが売られている。そこが今回の遠出の終点で、ぐるっと、そのスポットを一周して、それで帰ることにする。

この広大なカナダを、車を使わずに歩いて回るだけでは、さすがに限界があり、残念ながらメノナイトの生活に直接触れることはできない。それでもしかし、マーケットには馬車があり、博物館の中をていねいに探ると、確かに彼らもまたルター訳の聖書を使っていることが分かる。展示物を見て、一応の歴史も理解する。その生活の一部を垣間見ることができたと思う。フィラデルフィア郊外に比べると、ここはずいぶんと小さな集団なのかもしれない。

学会に出掛けて、しかしこの程度の観光はしても良いだろうし、また宗教改革史は、私の専門のひとつだと強弁もでき、資料収集に出かけたのだと言い張ることもできる。有意義な午後を過ごすことができたと思う。

カナダの夏は暑く、東京よりはましだが、一日中蒸している。来年の学会は、もう少し涼しく、便利な場所でやって欲しいと思う。とは言えこの街も、何日か過ごすと悪くない。キャンパスの周りには、広大な公園があり、散歩に良い。リスもいるし、野ウサギもいる。

ウォータールー大学は、地元の産業界との強く、就職率も高く、他大学と比べて1年長い、5年制なのに、人気はある。その周りの小さな大学を含めて、街としては、この辺りを、カナダのシリコンバレーにしたいのだと思う。夏休みなのに、キャンパス内に学生はたくさんいて、一日中勉強をしている。スターバックスでは、皆がパソコンを持ち込み、コーヒーを飲みながら、ひたすらパソコンに向かっている様はユニークである。活気溢れる小都市と言うべきである。

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