世界の酒   ---常に酔っていなければならない--- ボードレール

第四十七回 イギリスの楽しみ             2010.9.13

 

 次女が、数週間前からロンドンにいる。一カ月ほど英語の講習があり、その後一年間の予定で大学院に通う。さしあたっての仮の住まいは、日本で決めて出国し、そのあと一年間住む場所は、現地で探すつもりで、9月に入ってすぐ、妻と私で、アパート探しを手伝うことにする。これはイギリスでパブ巡りをしたいと考えていた私にとっては、恰好の名目ができたことになり、学会に参加するのでもなく、大学の業務で出かけるのでもなく、また妻に説明するのが難しい理由でもなく、のんびりと、かつ公然とビールが飲める。

さて実際に夫婦で出かけると、娘はその直前に、住居を自分自身で決めていた。一軒家を何人かでシェアするという、こちらではよくある形式の住まいで、そうすると私たちの仕事は、荷物運びを手伝うことと、あとはこの数週間で溜まった娘の愚痴を聞いてやることだ。曰く、食事がまずい、お金の不安があるから贅沢ができない、言葉の壁があり、早くも人間関係のストレスがあり、そういった場合、日本にいるときは、好きな物をやけ食いしてきたが、こちらではそれができないとこぼす。そうすると、親のできることは、妻と滞在する数日の間、目一杯おいしいものを食べさせることに尽きる。

さて、では何を食べ、何を飲むのが良いのか。娘がひとりでは入れそうもない、ちょっと格式のある、イギリスの伝統料理を出す店に行く。私たちはそこでローストビーフとステーキを頼む。ステーキはまあまあだが、ローストビーフはおいしくない。この素材で私が作ったら、もっとおいしくできるだろうと思う。イギリスに来て不思議に思うのは、値段の高い店に入っても、決して料理がおいしい訳ではないということである。また、ハウスワインを頼むと、チリ産である。別に悪くはないのだが、イギリスに来て、チリワインを飲むのは、粋ではない。

それでいろいろと考えてみる。アメリカで一番おいしいのは、中華であるということを私たちは良く知っている。ロンドンにもチャイナタウンはあり、娘をそこに連れて行き、私がアメリカに出かけると必ず食べる、ダックをごちそうする。これは確かにうまい。野菜も、中華ならば、炒め物にして、豊富な種類と量が、おいしく食べられる。点心も悪くない。中華を満喫し、そのあとパブに行って、ビールを飲めば、これは結構満足できる。

インド料理も良い。私たちがアメリカに滞在していた時に、しばしばインド料理屋に出かけていて、私たちがその味に慣れているということもあり、これもイギリスの楽しみのひとつに入れて良いと思う。野菜を煮込んで、緑色になったカレーや、ヨーグルト味のするものなど、これは懐かしいという気になる。さて、このあとも、食後にパブに行く。イギリスのパブは、多くの場合、夜はビールを飲ませるだけである。つまみは出ないから、食事をしてから出かけることになる。カレーで満足した胃袋に、生ぬるいビターを注ぎ込む。この取り合わせは実に快適で、これはイギリスでしか味わえないものだ。

 イタリアンにも行く。アメリカで、イタリアンは、店によって、当たり外れが大きいのだが、ここロンドンで、偶然店の前を通り過ぎて、雰囲気が良さそうだという判断だけで入った店が、結構良い。烏賊のフライも、鮭のパスタもうまい。どうしてこうイタリアンだと、おいしいのか。ワインもさすがに良く揃えてあって、文句の付けどころがない。イギリス料理がまずい分、際立って、イタリアンや、上述の中華、インド料理がおいしく感じられる。

 かくして娘を満足させて、一方で、イギリスは初めてという妻とは、朝と昼とをともにすることになる。朝飯は結構おいしい。イギリスでおいしいのは、朝食だけだ、サマーセット・モームは、イギリスに来たら、一日に三回朝食を食べろと言ったとか、この薄いトーストは、主食ではなく、バターやママレードを乗せるための台であるといった講釈を、私は垂れ、ボリュームのある朝食を楽しむことになる。昼はパブに行き、フィッシュ&チップスやミートパイを頼み、昼間から、ビターを飲む。アルコール度数が少なく、それほど酔うことなく、午後の観光地巡りにも支障はない。また、私はあまり関心がないが、アフターヌーンティーも含めて、カフェで出て来るお菓子やケーキは結構おいしいらしい。これにはずいぶんと妻は喜んでいる。

 さてロンドンで数日を過ごして、妻は先に帰国し、ここから私はひとり旅である。妻を空港に送った、その晩はロンドンにひとり泊まり、なじみのパブをはしごして、その後は、友人のいる地方都市に出かける。ほんの二、三日の幸福な一時。ひとり旅ではいつもそうであるように、朝は未明に起きて、本を読む。朝食を挟んで、午前中はホテルにいることが多い。一体に、東京にいれば、様々な雑用に追われて、勉強などできないから、外国旅行に出かけて、飛行機の中か、ホテルにいる午前中しか、ゆっくりとものを考え、読書することができない。昼頃外に出て、少し散歩をしてから、パブで昼食を摂る。軽くビールを飲んで、そのあとは散歩をするか、ホテルに戻って、昼寝をするか。夜は夜で、友人とまた飲みに出かける。そういう至福の時を過ごして、しかしそういうことが許されるのは、わずかの期間である。

 ロンドンのパブのことを最後に書こう。私は実は、ロンドンは4年ぶりで、ここしばらくどういう訳か、遠ざかっていた。このエッセイのNo.8(2006)にあるBenthamは、残念なことに、Fullerを出さなくなっていた。他の馴染みの店も、いくぶんか雰囲気が異なっている。客層が少しずつ変化するのだろう。街を歩くと、Youngを出す店はまだいくらかは残っている。私はロンドンでは、このFullerYoungが好きで、このふたつは、ロンドンでAleを出すビール会社としては伝統的なものだし、私はこのふたつの工場とも見学をしたこともある。しかしどうも、昨今は大手メーカーに押されているような気がする。いや、パブそのものが減り、かつパブに来る客数も減っているのではあるまいか。パブは、ロンドンに限らず、イギリスのどこに行っても、実に夥しくあり、そして一見すれば、どこも繁盛しているように思われる。しかし私は4年前までは、毎年のようにロンドンに来ていて、その時に感じた勢いが、今や多くのパブで感じられない。もちろん一部の店は今でも混んでいて、パブはやはりイギリスの文化であり、昼間からビールを飲む人がいて、また夕方早くから、もう店の中に入り切れずに、外のテラスや、場合によっては路上で、飲んでいる人がいるのを見ると、イギリスも悪くない、やはり時々は訪れるべきだと思う。しかしどうも、少しずつ、パブのロンドンでの役割は減っているような気がしてならない。

 少しずつ変化をし、しかし変わらないところで、私たちはなお、イギリスを楽しむことができる。新聞に依れば、酒税はこの2年間で大幅に上がり、若者は、これは世界共通だが、ビール離れが進んでいる。寂しさを感じるものの、とりあえずなお、パブは健在と言うべきか。


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