世界の酒   ---常に酔っていなければならない--- ボードレール

第五十回 熊野古道でワインを飲む            2011.5.22

 

熊野古道を歩きたいと思う。中世から最も良く使われた、中辺路を滝尻王子から、熊野本宮大社まで、距離にして、38.5km、ガイドブックを見ると、歩いて14時間ほどとなっている。多分私の足なら、12時間はかからないだろうと思う。

5月の中旬の木曜日、仕事を午前中で終えて、羽田に向かう。飛行機で、南紀白浜まで、1時間足らず。夕方の早い内に、白浜空港について、しかしこの時間だと、古道に向かうバスの便はない。それは午前中に2便あるだけだ。そのため、タクシーを使う。滝尻まで乗って、そこから、いよいよ古道を歩く。今日は最初の4kmを歩き、高原霧の里で宿を取り、明日は朝早くから、残りの35km弱を歩く予定だ。

歩き始めて、しかしいきなり急な山道で、こちらはこれから明日一杯、12時間は歩こうと予定していて、その最初の10分ほど、速足で、かつ歩幅を大きく取り、険しい道を駆けるように登って行くと、もうそこで疲れ果ててしまう。胎内巡りと呼ばれる、洞穴があるところまで行くと、もう限界かと思う。そうして情けなくなる。わずか10数分で、ギブアップか。

この3月に、空手の昇段審査を受け、その直前には特訓をし、連続5時間の練習にも耐え、体力には自信がある。しかしどうも、空手に必要な体力と、山登りに必要な体力は異なるらしい。また、気負って、速足で歩いたのも良くなかった。

さらにその後、道に迷う。熊野古道は、あちらこちらに標識が出ていて、決して道に迷わないようにできているのに、疲労困憊して、意識が朦朧として来て、焦ってもいるためか、道なき道を進み、気付くと、山の腹を木の枝につかまりながら、降りている。おかしい。まだもう少し登らないとならないはずだ。慌てて元の道に戻り、気を取り直して、何、焦ることはない。明日だって、全部歩く必要はない。できる範囲で、ゆっくりと行こうと決めて、そう思うと幾分気が楽になって、そこからは、道も緩やかになったこともあって、あとは楽だ。全部で1時間半は掛からずに、高原霧の里に着く。時間から言えば、ほぼ予定通り。今日はここで泊まる。

最初の10分を歩いた段階では、もう今回の古道歩きは、全部やめて、明日はバスで本宮まで行こうとさえ、考えていた。しかし、その後の1時間余り、山道を歩き、それはそれで快適だと思う。さて、明日はどうするか。宿について、温泉に入り、あとは酒でも飲みながら、明日の予定を立てたいと思う。

宿に、しかし期待していた地酒はなかった。日本酒は、と聞くと、ある大手メーカーの酒の名が挙げられた。私が30年ほど前、良く飲んでいたものである。それはまずくはないが、しかしわざわざ熊野古道まで来て、飲む酒ではない。飲み物のメニューを見せてもらうと、有機ワインとある。これは何かと聞いて、実物を見せてもらうと、スペインのLandum Natureとあり、これをボトルでもらう。料理は、山菜の盛り合わせがあり、てんぷらがあり、鍋が出て来て、焼き魚もある、典型的な和食で、それにこのワインは良く似合い、うまかった。コルクを抜いて、空気に触れさせて、30分もした頃から、味に深みが出て来る。一体に、有機ワインは、味わい深く出来ていて、これもしっかりとした味わいで、ゆっくりと飲みながら、少しずつ私は元気を取り戻す。

宿の主人に聞くと、先ほど歩いた、滝尻王子からの最初の道が、熊野古道でも、最も険しい道だと言う。その最初のところで、私は挫けそうになってしまったのだ。しかし少しずつ酔って来て、良い気分になり、明日は明日で何とかなるかと思い始める。

結局、宿の主人と相談して、明日の朝は、宿からほど近いバス停まで、車で送ってもらって、そこから、近露王子までバスに乗る。あとは、そこから、本宮までは、25.5km。私の足ならば、7時間ほどで行かれるはずだ。10時間ほど歩く予定だったが、3時間分、縮めて、そのくらいがちょうど良いと思う。近露にバスが着くのが、9時半。そこから歩けば、暗くならないうちに、本宮に着く。二晩目は、本宮から、さらに山奥に入った、湯の峰温泉に取ってある。まだ明るい内に、宿に着きたい。

そうして、二日目は、実際に、前の晩に計画した通り歩く。山に入れば、急な登りが、30分は続き、その後に同じ位の距離の下りが続く。登っては降りるということを何度か繰り返す。谷川に沿って歩く道もある。杉の鬱蒼と茂るところもあれば、雑木林の中を行く道もあり、ツツジが咲き、藤が華やかな彩を添えるところもある。

一体に熊野古道は、良く古道が残っているところもあり、舗装されて、人家を縫うようなところもあり、大通りになってしまったところもある。あるいは古道が舗装されて、バス通りになり、その脇に、新しく山道をこしらえた、にわか古道もある。石畳の道があり、木の根っこだらけの道があり、砂利道がある。湿ったところ、日の辺りの良いところ、見晴らしの良いところと、様々だ。

昼食をとれるところも無く、しかし本宮に近付けば、コーヒーやジュースを飲ませてくれるところがあって、そこで一度だけ休む。あとは延々7時間歩いて、夕方、本宮に着く。そこからはバスで、湯の峰温泉に行く。

さて二晩目の宿にも、地酒はなかった。いや、ない訳ではないのだが、本醸造で、食指が動かない。実は出かける前に、インターネットで熊野の地酒については調べてあって、結構何種類も、酒は作られている。その内、いくつか純米酒を取り寄せて、練習と称して、家で飲んでいた。だから、それと同じような、あるいはそれを上回ると思われる酒があれば良いと期待していたのだった。しかしどうも見当たらない。するとここにも、ワインがある。聞けば、今度は、チリの、同じく、有機ワインだ。名は、Cono Sur。この晩も、和食にワイン。悪くない。この時のワインは、昨日のものよりも、もう少し空気にさらす時間を掛けた方が良さそうに思え、食事をしながら、半分飲み、あとは、食後にゆっくりと飲む。温泉も、さすが名湯の誉れ高く、宿に着いて一回目、寝る前に二回目、また朝に三回目と入る。これで疲れは残らない。

さて三日目は、バスで、新宮へ行き、速玉大社を詣で、その後はバスと電車を乗り継いで、那智に行き、滝を仰いで、那智大社に参詣。その後は、紀伊本線で半島を回って、白浜に戻る。ここでもう一泊して、翌日、日曜の朝に東京に戻る予定だ。

本宮、新宮、那智と併せて、三大社巡りができ、また夕方は、白浜の奇岩に立って、夕日の沈むのを眺めて、宿に着く。ようやくここで、地酒に出会う。黒牛という名の、純米酒。ここはアワビやら、カニやら、その他海の幸が食卓に並んで、またここでも温泉に入って、十分満足する。

木曜の夕方に現地入りして、日曜の朝に帰るのは、旅の効率としては、はなはだ悪いのだが、マイレージを使って、飛行機代を浮かそうとしたので、こういうことになる。ただ、宿代が多く掛かり、またタクシーを使ったりするから、決して安上がりの旅行でもない。

しかし良く古道を歩き、ワインと地酒とおいしい料理に恵まれて、温泉に入り、旅の醍醐味は勢揃いで、私は十分満喫する。夜は夜で、三晩とも、持って来た熊野古道に関する資料を、酔った眼(まなこ)で捲り、窓の外の暗闇を眺め、古(いにしえ)に思いを寄せ、昼は昼で、新緑を全身に感じて、私は幸せであった。


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