世界の酒 ---常に酔っていなければならない--- ボードレール
第五十一回 『世界の酒』を読む 2011.7.27
『世界の酒』という本があることは知っていて、確か中学生か、高校生の時分に、図書館で手に取った覚えがある。内容はまったく覚えていない。その後、いつだったか、今からは随分前になるが、岩波書店に注文しようとしたら、絶版である。それで諦めて、その後長い間、その名を忘れていた。このエッセイを始めるときに、確か、どこかに同名の本があったはずだという意識が、かすかに私の中にあったのだが、特に強く意識することもなく、その名前で連載を始めてしまった。本当は、「我酒を飲む、ゆえに我あり」とでもするつもりだったが、それもまた嫌味で、題は単純なものが良いと考えたのである。
それが、先日新聞広告で、名著の「アンコール復刊」とあって、昔と同じく、岩波新書で出るらしい。それでさっそくインターネットで注文しようと、検索すると、その復刊されたものよりも安い値段で、昔のものが中古品で売りに出ている。すぐに購入し、読む。発行は、1957年1月とあり、私の生まれる少し前だが、収められた18本のエッセイは、さらにその前、1950年から51年にかけて、雑誌に連載されたものだと言う。60年以上も前の著作。著者は、発酵学の権威、坂口謹一郎。『日本の酒』という名著もあり、たくさんの発酵学に関する本も出している。
さて、本書は、「キャンチの国イタリー」に始まり、欧米10カ国の訪問記に加えて、最後に、ソ連のウォッカと中国の紹興酒を紹介している。発酵学の権威だけあって、酒の作り方についての記述は正確だ。
ただ、時代の制約と言うべきか、私たちの常識とは異なる記述もある。まずイタリアのワインは、この頃はまだ良く知られていないらしく、なぜ、世界的に知られた銘醸が出ないのかと著者は嘆いた後で、ワインはヨーロッパの北の方では軽くて酸っぱく、南のものは重くて甘いので、北の方が、人気があるのだと説明している。現代では、イタリア料理店は至るところにあり、東京でも、おびただしい種類のイタリアワインを飲むことができ、ワインと言えば、まず真っ先にイタリアのいくつかの銘柄を思い浮かべる私たちには、そういう時代もあったのかと思わせる記述である。また以前、私がドイツに滞在したときは、しばしば休日にイタリアまで出掛けて、イタリアのワインを飲み歩いたが、というのも、安い飛行機が頻繁に飛んでいて、なかには片道数千円というものもあったからなのだが、一体、ドイツ人は、ゲーテの昔から、南の国に憧れていて、ドイツ人でも、ワインはイタリアのものの方がうまいことを知っている。そういう私たちの常識からすると、少し違うと思うところはずいぶんとある。だから『世界の酒』を読む楽しさは、60年前の日本人に、欧米の酒がどのように映ったのかという歴史的な興味にある。
とりわけ、私が興味を覚えたのは、ワインと言わず、「葡萄酒」という表現を使うところであった。子どもの頃、小説の中に出て来る、この葡萄酒という言葉の響きは、妙に色っぽく、またこの世の至福を暗示していた。私は、貧乏な下町育ちだから、ワインの実物を見たことはなく、また葡萄ジュースでさえ、滅多に口に入らず、金持ちの友達の家に招かれて、そこでありついた葡萄ジュースは、本当にこの上もなくおいしく、これがあの、小説の中に出て来る、葡萄酒の元になっているのか。こんなにおいしく、かつ、これがお酒になるのだから、うちの父親が毎晩そうであるように、すぐに、人を、あの酩酊状態に誘うのかと、それは何だか、得体の知れないものなのだけれども、とにかく、大人になったら、まず真っ先に飲んでみたいと思うものであった。
さらに、高校生の自分に、アルバイトで稼いだ金で、安物のワインを買って来て、飲んだこともある。国産か、どこかの国のものか、何も覚えていない。しかし、その時のラベルも、葡萄酒ではなかったか。しかしそれは、悲しいことに、まずかった。子どものときからの憧れを全部打ち砕くような味だった。それは悲しい記憶で、少年時代から、10代の終わりころまでの、ワインのまつわる、懐かしい記憶が全部、この「葡萄酒」という表現に込められている。
ワインがおいしいと思ったのは、20代になって、妻と度々、ドイツの白ワインを飲む機会があってからのことだ。次いで、少しずつ赤ワインにも馴染んでいって、決定的なのは、40歳を過ぎてから、アメリカに一年余り、ドイツに一年弱滞在して、週に二本はワインを飲むという生活をしたときである。そのときに、ワインに開眼したと言って良い。そうして、これらの記憶は、すべて「ワイン」として頭の中に残っていて、それ以前の「葡萄酒」とは、私にとって、カテゴリーが異なるのである。
『世界の酒』で紹介されているワインは、多くは私が馴染んでいるもので、しかしそれが「葡萄酒」として、紹介されている。このカテゴリカルミスが、私の頭を混乱させ、しかしその混乱は、むしろ気持ちの良いものだ。つまりこの当時の日本人が何を考えていたのか、それを想像することは、私の少年期を思い出すことと重なる。
さらに後半では、ビールが多く紹介され、そのビールも大半は私の良く知るところのものだ。しかし例えば、「ビールの本場ドイツ」の章では、ミュンヘンビールだけが紹介されている。著者は、ミュンヘンに行く前に、ケルンに寄っているのに、ケルシュビールには触れていない。ドイツと言えば、ビール、ビールと言えばミュンヘンと、これは日本人の多くは今でもそう思っているのだろうけれども、ドイツ人にとって、ミュンヘンは片田舎の町に過ぎないし、ミュンヘンビールは、地ビールのひとつに過ぎない。そのあたりは、どうもこの本を読んでいて、もどかしさを感じ、戦後間もない時に、良くこれだけの旅行ができたものだという思いと、もう少し情報があれば、また違った酒の面白さがあったであろうにという思いと、交差する。ただ、当然前者の思いの方が圧倒的に大きく、それは鴎外の『独逸日記』を読む面白さに似ている。酒と言えば、日本酒しかなく、ビールは貴重品で、ワインなど、滅多に口にすることのできなかった時代の日本人が何を感じたのか。永い鎖国の後に、急速にヨーロッパ文化を吸収しようとした日本人と、戦争の後に、欧米を旅行できる自由を享受する日本人の姿は重なる。
さらに勢い余って、私は結局、『坂口謹一郎集成』全五巻を買ってしまい、三晩掛けて,読むことになる。これはこれで、楽しい。これについては、後日あらためて書こうと思う。これだけのインパクトがある本については、少し時間を置かないと、書くことができない。
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