世界の酒   ---常に酔っていなければならない--- ボードレール

 

第五十三回   オランダとベルギーの比較              2011.9.20

 

8月は、大学の雑用がたくさんあって、結構忙しいのだが、9月に入って、ようやく少しはまとまって、休みが取れる。ドイツからオランダに行き、ベルギーに寄る。とりあえず、今回のエッセイはここまでの旅で感じたことを扱う。オランダは本当に久しぶりで、多分、2002年以来である。夏にベルギーに出かけるのも数年ぶり。2006年に出掛けているが、泥棒に遭い、数時間で退散している(エッセイNo.20)。ゆっくりと夏にビールを飲むのは、これも2002年以来だ。

出掛ける前に、オランダ語の文法書をぱらぱらとめくり、オランダとベルギーの歴史の本を数冊読む。そこで収穫はあった。長い間の疑問がひとつ解決する。

それは以下のようにまとめられる。ベルギーが、北半分はオランダ語を話し、南半分はフランス語を話すということはすでに書いた(No.40)。今ここで私の関心は、ベルギー北部とオランダは、同じ言語を話すのに、片や料理がうまく、ビールの種類も多様であって、片やどうにも料理が単調で、ビールもベルギーと同じ歴史を持つのに、種類は限られていて、しかも、いつの間にか、ハイネケンという大手が現れると、それに吸収されて、ますます多様性を失ってしまう。その違いはどこに由来するのかということである。その答えは、誰もが感じるように、宗教の違い、つまりベルギーはカトリックで、オランダはプロテスタントであるということに起因すると思う。このことは、その内に、マックス・ウェーバーやその他を動員して、説明したいと思う。多分説明できるはずである。つまりカトリックでは、イタリア、フランス、スペインの伝統があって、料理も酒もうまいが、プロテスタントは、ルターやカルヴィンの禁欲性が、社会の隅々まで支配して、料理や酒を楽しんではいけないというエートスが広がった。そこに持ってきて、元々イギリス、ドイツ、オランダは、気候風土も厳しく、そもそもうまい食べ物も飲み物も少ないということもあって、うまい料理と酒を楽しむ気風が生まれなかった。そういう解釈である。

しかしオランダとベルギーについては、疑問が残る。一体なぜ、同じ言語を話し、気候風土も、一続きのところで、人々がふたつの宗教に分裂したのかということだ。

歴史的な話をしておく。16世紀に、今のオランダ、ベルギー、ルクセンブルクに、フランス北東部の地域を併せて、その辺り一帯が、ネーデルランドとして、統合される。今のベルギー北部ヘント(これはオランダ語読み。英語読みでは、ゲント、フランス語読みではガン)出身のドイツ皇帝カール5(スペイン国王カルロス1)の手によってである。ハプスブルクの最盛期である。彼は、スペイン語を身に付け、スペイン王でありながら、またヨーロッパ中を駆け巡って、ドイツ皇帝として職務を全うした。しかし16世紀後半、カール5世が、スペイン王位を子のフェリップ2世に譲った頃から、オランダで、スペイン-ハプスブルクに対する反乱が起こり、ついに、オランイェ公ウィレムを中心として、ネーデルランドは南北に分裂し、北部は1581年にオランダとして独立する。

この南北分裂、つまり大雑把に言って、ネーデルランドがベルギー部分とオランダ部分とに何故分裂し、後者だけがプロテスタント国家として独立、前者がスペイン=カトリックとして残ったのか。私が高校時代に読んだ参考書では、この説明に、北部と南部の宗教の違い、つまり北部がカルヴァン派で、南部がカトリックだということを挙げていた。しかしここでそれはおかしいと私は思っていた。どこの地域でも、この16世紀では、カルヴァン派は少数である。何故北部は早々とカルヴァン派が多数派となったのか。ここで参考になったのは、川口博『身分制国家とネーデルランドの反乱』(彩流社1995)で、この本では、はっきりと、「南北の分離を宗教事情から説明する俗説は、実は原因と結果の取り違えにほかならない」(p.22)と書く。宗教の違いは反乱の結果である。つまり反乱が北部ではうまく行って、その結果、北部に少数派のカルヴァン派が続々と集まって来る。またカルヴァン派への改宗が進む。そういうことだ。

長年の私の疑問は氷解する。と言うよりも、長く哲学や思想史を勉強して来て、しかし歴史はまともにはやらず、いくつも曖昧な知識が、曖昧なまま、私の頭の中に留まっていて、その中には、どうにも腑に落ちないものもあり、ただ、それを徹底的に究明しようという根性はなく、疑問のまま、放ってあるという問題がいくつもある。今回のものも、その中のひとつである。

こんな風に考えれば良い。当時、カルヴァン派は極めて少数である。しかしあちらこちらでカトリックに対する反乱がある。フランスでは、それはユグノーの反乱として知られる。それは、結局はつぶされてしまうのだが、しかしこのあとずっと、フランスの宗教と国家の関係を考える際に、重要な要因となる。反乱は、さらにヘントでもあった。カール5世の生まれた地である。長くスペインに滞在していた彼は、その知らせを受けて、フランスを経由して、ヘントに入り、反乱を弾圧する。フランスからの援軍を当てにしていたヘント反乱軍の期待は裏切られる。このように、実はネーデルランド南部でも、反乱はいくつもあり、しかしそれらは、フランスにおけるのと同様に、ことごとくつぶされたのである。

ではなぜ、北部においては、反乱は成功したのか。まず多数のカトリックも、スペイン支配に対しては反感を持ち、共同の敵スペインを前に、少数派のカルヴァン派に対して、シンパシーを持っていた。また多数派のカトリックも、熱心な信者であったという訳ではなく、多くは、言わば、カトリックとカルヴァン派の中間的存在で、カルヴァン派に協力することに違和感を持たなかった。

このようにして、スペイン絶対主義からのナショナリスティックな解放が成功し、その後に、宗教的にカルヴァン化すると考えるのが自然である。そうして私たちが今日知っているベルギーとオランダの宗教的、かつ文化的差異が生じるのである。

ここで話を強引にビールに持って行く必要はないかもしれない。しかし実際にオランダに来て、ビールを飲もうとすると、多くの飲み屋では、数種類のベルギービールが置いてあり、しかしオランダビールは、それよりは、はるかに少ない種類しか置いていない。またベルギービールの専門店もオランダにはある。マーケットに出かけても同様で、大きな店では、ベルギービールの種類は、10種類を超え、一方オランダビールは、わずかしかない。また、そのうちのいくつかを飲んでみても、それらはすべて、ベルギービールの多様性の中に収まってしまう。つまりオランダビールは、ベルギービールの一部でしかなく、ビールから見れば、オランダは、ベルギーの一地方に過ぎない。

実際には、かつてオランダとベルギーは併せてネーデルランドを形成し、その後、オランダは独立して、17世紀においては、世界の商業の中心であり、カルヴァン派の拠点としても、イギリスをリードする。一方ベルギーは、ハプスブルク内に残り、その後フランスに支配され、さらにオランダに支配された時代もあり、独立はずいぶん経ってからである。両者はあまりにも対照的だ。

つまり、ウェーバーが論じたように、プロテスタント諸国家では、資本主義は栄えたが、酒の文化は、栄えなかった。カトリック諸国は、イタリア、フランス、スペインと、普通はワインを産出、消費する諸国家だと考えられるが、ベルギーは、ビールの国で、そして、ビールの国は、一般には、ドイツ、イギリス、オランダと、プロテスタントの国々だと思われているが、それは間違いで、一番ビールが、おいしく、かつ多様な国は、ベルギーであって、後の国々は、ベルギービールの亜流である。つまり、カトリックの国々でワインが栄え、プロテスタントの国々でビールが栄えたのではなく、ワインもビールも、おいしいのは、カトリックの国々であるということになる。そういうことが、オランダとベルギーを比較考察することで見えて来る。

 

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