世界の酒   ---常に酔っていなければならない--- ボードレール

 

第五十五回 リューベックでボルドーワインに出会う ドイツ三部作(1) 2011.12.31

 

 思いがけず、リューベックに出かけることになる。これは本当に予定していなかった。

 まずは、ドイツでクリスマスを過ごしたいと思う。これには二つのポイントがある(No.39参照)。ひとつは、クリスマスマーケットの華やぎを味わうこと。これを味わうには、1223日までにドイツに行かねばならない。24日には、それらの催し物はすべて片づけられてしまうからだ。幸い今年は、年内最後の仕事が22日で、23日の昼に東京を発つと、12時間弱の飛行機で、時差が8時間あるから、その日の夕方にはドイツに着く。今回はフランクフルトに着いて、そこからローカル電車で20分ほどのマインツという街で、23日の夜を過ごすことにする。街には、私が気に入っているロマネスク様式の大聖堂があり、その前の広場にマーケットが出ている。華やかである。そこにいるだけで、楽しくなって来る。

 もう一つ、ドイツでクリスマスを味わうポイントは、24日、街が静寂に包まれ、誰もがそれぞれの家庭でクリスマスイブを過ごすのだが、その際に、受け入れてくれる家のあることである。幸い、これも私は、年に一度は訪れる、ママと呼ぶ老女がボンにいる。マインツからボンへは、ライン川に沿って、急行で北上して、1時間20分。そのママの家に今年も留学生たちが、集まって来る。2002年に私がドイツにいたときに知り合って、一番仲の良かった台湾人も、私のためにワインを用意してくれる。そうして、その家で、パーティーを楽しみ、翌25日は、ひっそりと散歩と読書で過ごすのである。

 ここまではこの二年間、やってきたことだった。昨年は、最初の晩は、これもまた私の好きなゴシック様式の大聖堂のあるケルンで過ごす。数年前に、フランクフルト空港からケルンまで走る線路ができ、特急に乗れば、1時間余りで着く。翌日、そこからローカルで、30分ほど、南に戻れば、ボンに着き、ママの家に行く。パーティーの後は、そこに泊めてもらって、その後は、ベルギーを横切って、イギリスにいる娘のところまで出掛けた。一昨年は、同じく、ケルンとママの家で過ごしたのち、北ベルギーを放浪した。さて今年はどうするか。特に何も考えず、ボンで一週間過ごしても良いと考えていた。遠出をするのは、お金もかかるし、疲れてしまう。何もせず、ただ読書と散歩とワインとビールで過ごしたい。そう思っていた。

しかしママの家にずっといるのは苦痛である。ひとつには、自堕落な生活がしたいと思う。つまり、昼間散歩をしていて、つい飲み屋に誘われて、昼間からビールを飲むことがある。夕方早くから、自分の部屋でワインを空けながら、本を読み、酔いつぶれたら、そのまま寝たいと思うこともある。そうして早くに寝て、明け方早くと言うより、まだ未明にごそごそと起き出して、持参したラックトップに向かって、日記でも書こうかと思うこともある。そういうことが他人の家に厄介になっていたのではできない。ホテルの方が楽だと思う。また、もともと得意ではないドイツ語が、年を追うごとにできなくなっていって、英語がまったくできないママと二人で食事をするのは、これも苦痛になってきている。そういう訳で、ママの家にいるのは、25日までで、さて、どこかしら、ドイツ国内を歩こうと思う。

 まず候補に挙がったのは、ボンから急行で2時間ほどのミュンスターだ。ここも何度も訪れていて、私の好きな街のひとつである。そこからさらに、急行に2時間乗ると、ハンブルクに着く。ここはまだゆっくりと見学をしたことのない街だ。ドイツの主な街はすべて制覇したと思っていたが、実は良く知らない街があった。この機会に、このドイツで二番目に大きいと言われている街に出掛けようかと思う。それで順番を変えて、先にハンブルクに行き、その後にミュンスターで過ごし、大晦日には帰国しようと思う。そういう予定を立てた。また、ハンブルクから、さらに北の、ロストックという街に、同僚が滞在している。彼にハンブルクまで来てもらえれば、一緒に酒を飲むことができる。

 それでハンブルクまで来て、ロストックから駆けつけてくれた同僚と一夕過ごし、さて翌日どう過ごそうかと思って、地図を見ると、ここからリューベックまで、ローカル電車で40分ほど。すぐ近くではないか。ハンブルクの宿を拠点にして、これは日帰り旅行ができる。そう思ったのである。

 ここまでが序論。長い前書きだ。さて、なぜリューベックなのか。ここはトーマス・マ

ンが生まれて、少年期を過ごした街で、自らの少年期を描いた「トニオ・クレーゲル」の舞台となった街でもある。私には、さらに、「ドイツとドイツ人」という講演で、彼がこの故郷に言及していて、それが気になっている。その部分を訳してみよう。

 

 それはバルト海に近い、古いリューベックで、かつてはハンザ同盟の本拠地であり、すでに12世紀には創られ、13世紀にはバルバロッサによって、帝国直属の自由都市になっていました。とりわけ美しい市庁舎は、私の父が参事会員として、出入りしていましたが、マルティン・ルターが、95個条の綱領をヴィッテンベルクの城内教会の門に打ち出し、つまりそれが近代を告げたのですが、その年には完成されていました。しかし近代の改革者ルターが、考え方や、魂の形式から見れば、かなりの程度中世的で、生涯を悪魔と格闘したように、このプロテスタントの街リューベックは、ビスマルク帝国の一翼を担ったのですが、それでいて、深く、ゴシック的な中世の雰囲気が漂っていました。そしてこの際に、私は、門や壁を伴った尖塔のそびえたつ都市の姿、マリエン教会の死の舞踏に由来する滑稽かつ不気味な戦慄、・・・曲がって、魔法に掛けられたかのような路地、絵のように美しい家々を思い出すのです。

 

 私がドイツを感じるのは、まさにここである。これはケルンでも、マインツでも、ミュンヘンでも、近代的なものと中世的なものとの共存と言うより、近代的な街の中に、突如現れる中世的なものに触れるときこそ、ここがドイツだと思う。そしてそのことを、私はドイツのどの街に出かけても感じる。そうしていつも、マンの、この文言を思い出す。今回はぜひ、その本家の、つまりマンの故郷のリューベックにどうしても出かけたいと思ったのである。

 実際、マンの言う通りに、門を通り、市庁舎の前を通り、そのすぐ隣にあるマリエン教会に入って、死の舞踏画(これは、今は残されておらず、レプリカが飾られているのだが)を見る。そうしてその辺りを歩くと、ここは紛うことなく、中世の街だと思う。しかし街全体は、ハンザ同盟で富を蓄え、近代化を真っ先に達成させたことを伺わせる、大きな建物が並んでいる。マンの祖先も商人であった。

 このハンザ同盟こそ、曲者ではないか。中世のギルドを主体に、北ドイツで発達した都市同盟は、近代化を推し進めたが、しかし近代になると消滅して行く。それは北ドイツに、中世的でもあり、近代的にも見える、街並みを残した。

 ここで再び思いがけず、私は、ハンザ同盟が残したリューベック名物に出会うことになる。それはボルドーワインであった。rotsponと言う。なぜボルドーワインがリューベックの名物なのか。ここでもハンザ同盟が関わっている。つまり彼らは、盛んにヨーロッパ中を移動して、商業をして行ったのだが、特に、この地で採れる塩をヨーロッパ各地に送り、帰りに今度は、ヨーロッパ各地の産物を持ち帰る。その際に、ボルドーからは、そのワインを、樽に詰めて持ち帰り、リューベックで熟成させてから、売り出したのである。rotsponrotは赤を意味し、sponは樽の意味である。このワインが、もともとのボルドーのものよりもうまいという評判だったそうである。

 確かに、飲んでみると、ボルドーのものよりもうまいかどうかはともかく、紛れもなくボルドーワインである。上品で、軽く、そしてコルクを抜いてから1時間もすると、味にまろやかさが加わる。私は例によって、と言うのはしばしば旅ではそうしているのだが、ボトルを一本買って、ホテルに戻り、チーズとサラダも手に入れて、本を読みながら、ひとりでワインを飲む。そうして、北ドイツとフランス南西部のつながりに思いをはせる。

 ハンザ同盟は、自国で産出しないものをうまく取り入れて、自国で加工して、自国の名物にしてしまったのである。そのたくましさに私は感心する。このワインは、つまりリューベックのワインであり、ドイツのワインなのである。それはまた、中世来の文化をそのままに、今日まで残しているものでもある。

 

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