世界の酒   ---常に酔っていなければならない--- ボードレール

 

第五十六回 ハンブルクの華やぎ ドイツ三部作(2)   2011.12.31

 

 ハンブルクはこれまで馴染みのなかった街である。ドイツの主な街はほぼすべて知っていると思うのだが、私にとって、最後の残された街が、ここである。クリスマスが終わって、二、三日たつと、街はまた元の賑わいを取り戻す。そこに、大きな街ではしばしばあるのだが、クリスマスのマーケットが、完全には取り外されないで残っていて、一層の華やかさを添える。

 話はいつものように、飲み屋から始めよう。Groningerという、倉庫街の近くにある、醸造所を兼ねた飲み屋があり、そこで、日本風に言えば、つまみのセットを注文し、ハムやソーセージや、ベーコンの厚切りと言うよりも、豚肉の塩漬けの焼いたものとでも言うべき塊などを突っつきながら、1リットルジョッキでピルスを飲む。私はいつもドイツではエールを飲むが、この店の売り物はピルスだ。このピルスも結構うまい。悪くないと思う。

一杯をすぐに飲み干して、さてこのあとどうするか、考えた後、これはお代りをするしかないだろうという結論を出して、もう1リットルのピルスを飲むことにする。これも短い時間で飲み干してしまう。腹が膨れて苦しいけれども、飲んだのはビールであって、特に酔うと言うほどではない。夕方4時から飲み始めて、飲み終えたのは、5時過ぎ。腹ごなしに、街を歩こうと思う。

 まずは倉庫街を歩く。19世紀に造られた赤れんがの倉庫が並ぶ一帯である。建物の壮大さに驚かされる。この街が、かつて相当に繁栄していたことが窺える。

 それから、街の中心地に行く。これも19世紀に造られた、ネオ・ルネッサンス様式の市庁舎があり、その周りには、夥しい数の商店があり、夥しい人がいる。

 歩きながら思うのだが、ドイツで、これほど大きな街を私は知らないのではないか。フランクフルトなら、近代的なビルが乱立している。街全体が広い範囲に亘って、歴史のある建物で満ちているというのではない。ベルリンはやたらに広いだけだ。この街の賑わいは、ミュンヘンやケルンを上回る。百年以上昔に建てられた、そして戦争で大分やられたであろうが、そこから再建してできたであろうと推測される街で、これほど規模が大きい街が他にあるだろうか。

 ここでは、古い建物と、しかし新しい商店街が共存している。新しさの象徴は、パサージュである。この、ガラスのアーケードの付いている商店街は、普段ならば私の好むものではない。私はそもそも洋服を眺めて歩く趣味はなく、妻や娘と歩くと、彼女たちがしばしば店の前に立ち止まるのに、いらだつことが良くあり、それで彼女たちも私と街中を歩くことは好まない。また、ドイツの他の街を歩いて、どこでも、いくつかパサージュはあったはずだが、特に記憶に残っていない。それが、先だって、たまたまベンヤミンのパサージュ論を読んでから、認識が変わる。なかなかこのパサージュと言うもの、ただ単に、洋服屋をたくさん並べて、人を集めようというものであるだけでなく、結構興味深いのである。そのことを私は、ベンヤミンに教わっていたのだった。

ベンヤミンのパサージュ論は、晩年のベンヤミンが残した、夥しい草稿群の総称である。そのモティーフは、19世紀のパリである。

その主張するところは何か。パサージュは、当時、高度に発達しつつあった、資本主義社会の象徴である。織物取引業が発達したことや、鉄骨建築が始まったことが相まって、パリに盛んにパサージュができる。その都市の、様々な遊歩体験を拾い集めたのが、このパサージュ論である。しかしベンヤミンは、勃興しつつある資本主義を体現していると言うべき、街の華やぎの礼賛に終始した訳ではない。

ひとつの主題は、そこに遊歩者を登場させることで、近代的な意識を持った個人と、街を行きかう人々の集団性と、その対比を描いたことだと思う。そうして、ここにはボードレールの影がある。つまり、パリの街中を、目的も持たずに放浪する男として、ボードレールがベンヤミンの頭の中にあったはずである。

だから私はここでボードレールを気取ることができる。このエッセイの冒頭にいつも掲げている、まさにその詩句の通りに、酔ってパリを歩いたであろう男を、私も真似ることができる。知識人の孤独と、群衆の集団性が主題だ。

もうひとつの対比は、パリの伝統と新しさとのそれである。ヨーロッパを歩く者が誰でも感じる、街全体に残っている古き良きものと、華やかな服や装飾品の数々と、それらを展示する近代的な建物と、その対比である。そして、ベンヤミンの思想を考えると、社会主義の到来が彼の頭にある。資本主義の最も輝かしい象徴の中に、それを超えようとする契機を、ベンヤミンは感じていたはずだ。

それは確かに、19世紀のパリ、または、ベンヤミンが滞在した、20世紀前半のパリにおいては、そうだったかもしれない。しかし、2011年末、ユーロ危機の最中の、ここハンブルクにおいては、残念なことに、来るべき社会主義という希望は、どこにも感じることができない。今や私たちは、資本主義しか選択できず、しかも誰もが、それを最善の経済システムだとは思わず、とりわけ、2011年にあっては、ギリシア、イタリアの負債を、ドイツがいつまで支えられるのか、その不安が極みまで高まった年であった。有効な対策も取り得ず、ただ単に不安があるだけで、しかし私の見るところ、人々は存外明るい。

古き良きものと新しきものとの共存は、ベンヤミンのパリも私のハンブルクも同じ。その中に、来るべき社会への、儚い希望を見出すか、不安に満ち溢れているけれども、しかし何とかなるのではないかと、微かな希望をつなぐか。その差はあるけれども、両者、大して違わないのではないかと私には思える。伝統の重みが、人々を絶望にまでは至らせない。何とかなる。そういう人々の思いを私は感じる。

ビールを二リットルも飲まなければ、私は、ハンブルクの街を、そしてパサージュなど歩かなかったかもしれない。しかし酔っているのは私ではなく、大衆の方である。夢と酔いは、孤独な遊歩者には無縁である。

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