世界の酒   ---常に酔っていなければならない--- ボードレール

 

第六十五回  伏見で酒を飲む            2015.1.18

 

 冬の京都で学会があり、土曜日から祝日の月曜日までの、三連休の真ん中の日曜日、朝早くから晩までの、一日だけ催されるもので、私は、いつものように、前日の夕方に京都に入り、その日はゆっくりと散歩でもして、その後は祇園の馴染みの店で飲み、翌日は早起きして、歩いて会場まで行き、学会には最初から最後までいて、その日の遅くに帰京する。そういう日程を考えていた。しかし、本当にうっかりしていたのだが、宿を押さえるのを忘れていた。12月は多忙で、年末には、精神と身体と両方の不調があり、そこまで気が回らなかったのである。1月は三が日を過ぎて、ふと気付いて、大急ぎでネットで探したのだが、3連休の初日に、京都ではもう宿が取れない。部屋は著しく狭いけれども、安いことで有名な、Aホテルは、私はそこの会員なのだが、調べたら、一泊、素泊まりで2万円出せば、取れるらしい。しかし、さすがにそれは、馬鹿馬鹿しくなり、さて、学会会場は、点在する京都大学の建物のひとつで、京阪線の神宮丸太町から歩いてすぐのところだから、京阪線を利用すれば良いと思い、ずっと、その路線を大阪の方へ下って、特急の止まる駅の近くに宿がないかと探すと、中書島の駅から近くに宿がある。ここからなら、歩く時間も含めて、学会会場まで、30分で行かれて、写真を見る限り、風情豊かな、趣きのある宿で、これは楽しみだと思う。

 さらに、予約をしてから気付いたのだが、ここは、伏見の地で、つまり、酒どころである。あたりにいくつもあるだろう、酒蔵を見ながら、街を歩いたら、楽しいに違いない。俄かに元気が出て来る。

しかし、体調が回復したばかりで、そうたくさんの酒は飲めない。前日まで、禁酒し、腹八分目の食事を摂って、運動はたっぷりとして、睡眠も十分とるということを心掛ける。そうして、旅の日を迎える。

 

土曜は、昼前に家を出て、午後の早い内に、京都に着き、駅から歩いて、東福寺と伏見稲荷を見て回り、そこから京阪電車に乗って、中書島に行く。そこでは見たいと思っていたものがふたつある。ひとつは、月桂冠がやっている大倉記念館、もうひとつは、黄桜が運営する河童天国の資料館で、そこで、日本酒の作り方の基本と、伏見の酒の特徴について、ざっと学ぶ。その後、街中をあちらこちら散歩すると、酒蔵のほか、宇治川派流の柳や、往時の面影を残す伏見港など、見るところが多く、散歩にふさわしい街だと思う。

ゆっくりと時間を掛けて、街中を歩き回って、大体の輪郭を頭に入れ、さらに気に入った飲み屋を、ふたつみっつと、押さえておく。

さて、宿に入り、すぐに風呂に入って、それから、飲みに出掛ける。しかし、何度も繰り返すが、三連休の初日で、どこも観光客で満杯で、外観から判断するだけなのだが、雰囲気の良い店は、すべて、入れない。止む無く、空いている店に入る。

そういう経緯で店に入ったのだから、文句を言っても仕方ない。運が悪かったというしかない。そこでは、まず、日本酒は、吟醸ばかり並べて、それを売ろうとしている。しかし、何回もこのエッセイで書いたのだが、私はあまり吟醸は飲まない。そもそも90ccの小さなグラスで出しているのも気に入らない。酒は、一口飲んで、それで満足するということはないから、そして吟醸はたくさん飲むように作られている酒ではないから、ゆっくりと飲みたいと思うときには、それにふさわしい酒が欲しいと思う。しかし、この店には、純米は、あまり多くの種類を置いていない。それで、本醸造を冷やで頼む。すると、これは予想した通り、酒を氷の入った桶の中に入れてやって来る。燗にすれば、きっと熱燗になると思い、冷やを頼んだのだが、冷え過ぎだ。

料理もありきたりのもので、これは仕方ないと呟いて、早々に店を出て、宿に戻る。宿には、酒が置いてあり、それを頼むことができる。この宿は、かつては、夕食を出していたが、今、夫婦ふたりでやっていて、宿だけで手一杯、今度来て下さるときは、事前に言って頂ければ、夕食をご用意しますと言ってくれる。酒は、ここは本当に冷やで、つまり、常温で出してくれ、烏賊と数の子が、小さな皿で付いていて、それが肴で、私は、部屋で、こたつに入って、ひとり飲む。

飲んだのは、酒有夢(さけありてまどろむ)と桃の滴(もものしずく)のふたつ。前者は甘く、濃い酒だ。料理と併せて飲むには向かないかもしれないが、今回のように、食後に、これだけでゆっくり飲むとうまい。もうひとつは、すっきりした純米で、これは本当にうまい。今回の旅の最大の収穫かもしれない。

それと、ここは水がうまいと思う。本当にうまい。酒を飲んで、そのあとに飲む水は、うまい。朝飲んでもうまい。それで、私は、ペットボトルに、この水を入れて、日曜の学会の最中、一日、この水を飲んでいた。

 

いろいろとあり、とりわけ妻の病気が一番の原因で、なかなか外泊ができなかった。遠距離の学会にも出掛けない。ぶらっと気分に任せてのひとり旅行もしない。外国にもこの1年近くの間、出掛けていない。多分、その欲求不満が、私の中に強くあった。

ようやく、放浪癖が満たされたと思う。初めての街を歩き回り、気に入った飲み屋があれば、そこに入り、ほろ酔い気分で宿に戻り、そこでさらにひとり酒を飲み、本をぱらぱらとめくり、酔いが回って来れば寝る。それだけのことができれば、うれしい。

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