世界の酒       ---常に酔っていなければならない--- ボードレール

第八回  ベンサムという名のパブ

                              2006.11.3

 

ロンドンに行くと必ず寄るパブがある。ロンドン大学の裏側、その名もずばりベンサムとある。もともとは別の名前の店だったが、ロンドン大学の「精神的な父」ジェレミー・ベンサムに因んで名付けられ、店内には、彼の半身像が置かれている。

ジェレミー・ベンサムは、少し前までは、そのミイラが、ロンドン大学の薄暗い廊下の隅に、ちょっとした踊り場があって、そこに展示されていた。ベンサム自身の遺志で、自らのミイラを、彼の進めていた急進的法改革のイコンとしたのである。残念ながら今は、保存のためということで、ミイラは倉庫に移され、一般公開はされていない。代わりに、人形が飾られている。

ベンサムの思想は、一般には功利主義として知られているが、私は徹底的な実証主義と考えるべきだと思う。彼は、伝統だの、歴史だのといったことを信じず、目に見える事実から社会理論を作ろうとしたのである。良く知られている「最大多数の最大幸福」という言葉は、そういう意味で解釈されねばならない。死後、自らの身体を解剖させ、その後にミイラとなってその姿を公開するというのも、彼の思想の現れである。

一昔前、ベンサムのミイラは、時々夜中に徘徊すると言われていた。実際に彼の遺志が世の中にどの程度残っているのか、自ら確かめたのだと思われる。今、ミイラは、人形に代わって、およそ迫力がなくなってしまい、仕方なく、私たちは、今度はその名を冠したパブで、彼の思想を偲ぶことになる。

このベンサムという名のパブは、私の好きな、リアルエールを出す。Fullerという醸造所のビールで、その中でも私のお気に入りは、London Prideというエールである。ロンドンにきたら、これを飲まないとならない。パイを突っついて、またはフィッシュ&チップスを頬張ってから、ゆっくりとエールを飲む。ロンドンの至福のひと時である。

ロンドンで、伝統的ビールとか、エールビールという看板を掲げた、そして私の考えではそれこそがまさしく本物のパブであるが、それらの店では、決まって、このFullerYoungという醸造所のビールを出す。Fullerでは他に、London PorterIndian Pale Ale を出す。一方Youngには、Special London Aleというのがあり、これもうまい。先のLondon Prideとロンドンで飲めるビールの双璧である。私の馴染みの数件のパブは、このどちらか、または両方を出す。

アメリカのパブが、自分の店で作ったオリジナルビールを売り物にして、どの町でも、ひとつかふたつ、住民や旅行者を喜ばせている、ということはこのコーナーで以前書いた。イギリス風、アイルランド風、ドイツ風とそれぞれ経営者の工夫があって、飲み歩くと楽しい。ところがイギリスでは、もちろん自分の店で作ったビールを出すパブもあるが、このふたつの醸造所のビールを、それぞれの店で、温度管理などに気を使い、店の雰囲気もうまく誂えて、提供している。

私はこのふたつの醸造所を訪ねたことがある。どちらもロンドン郊外にあり、駅から離れた、旅行者には分りにくいところにあるが、どちらも予約して出かけると、工場の中を見せてくれ、ロンドンの観光スポットのひとつになり得ると思う。どちらも小さな工場で、しかしその中に大きな醗酵槽があって、その中でビールが泡立つ様は興味深い。もちろんそれらの醸造所にはパプが併設され、長い輸送で味の落ちたビールに馴染んでいる私たちにとっては実に新鮮でふくよかな香りのエールを飲ませてくれる。

ロンドンの、リアルビールを出すパブで、このふたつのほかに目に付くのは、つまり三番目のシェアを占めていると思われるビールは、これは、ロンドンではなく、ケント州にあるのだが、Shephard Neameという醸造所のビールだ。残念なことに、私はこの醸造所を探したのだが、辿り着くことはできなかった。またもうひとつ残念なのは、私はケント州の都市で、イギリス国教の総本山のカンタベリーに、友人が住んでいることもあって、しばしば滞在したことがあるのだが、しかしその町のパブでも、この地元のShephard Neameのビールを出しているところは少ないということだ。もともと数少ないリアルビールを出す店の、さらにごく少数の店しか、この醸造所のビールを扱っていない。ケント州はホップの産地で、従って、このエールは巧みにホップの苦味を活用したビールになっていて、先のふたつの醸造所のビールとはまた異なった味わいが楽しめる。イギリスでは、パブのガイドブックは、毎年ランキングが更新されて売られているから、この醸造所のビールを置いているパブはごくわずかではあっても、しかし探し出すのは、それほど難しくはない。

さて、ビール談義はこのくらいで、ベンサムに話を戻そう。実は、ベンサム自身がパブに通ったという記録は無い。むしろ逆に、彼は酒を飲まず、極めて禁欲的な生活を送ったと思われる。ベンサムの功利主義が快楽の質を問わず、その唱えた快楽が量的なものに過ぎないとされ、その点で後にJ.S.ミルによって批判されたという通説は間違いである。ベンサムの快楽は、極めて質的に高度なものを彼自身考えていたはずだからである。

しかもヨーロッパの伝統では、どうしたって、ワインが高級な飲み物で、ビールは貶められてきた。だから、ベンサムとパブという組み合わせは、何重にもおかしなものなのだが、しかし酒ならば何でも好きだという無節操な思想史家にとって、しかもイギリスと言えばエールビールというステレオタイプに侵されている異国人にとっては、ベンサムの名とともに、反射的に、あの薄暗く、喧騒を伴ったパブと、軽やかな香りと、ぬるく、しかし奥深い味のビールが、それらの感覚を統合する、ほろ酔いという体感ともに思い起こされる。

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