世界の酒       ---常に酔っていなければならない--- ボードレール

第九回  トーマス・マンのミュンヘン

                              2006.12.29

 

 トーマス・マンの『ドイツとドイツ人』をはじめて読んだとき、そこでマンが繰り返し言及するドイツ的なるものとミュンヘンとを、私が頭の中で結び付けなかったのは迂闊であった。実際、その短い講演で、マンは一言もミュンヘンに触れていない。マンは、ヒットラーがなぜドイツに出現したのか、亡命先のアメリカで反省し、ヒットラーを生むに至った「ドイツ的なるもの」の批判をするのだが、その際に、生まれ故郷のリューベックや、ルターについて専ら語っている。そしてそれを読んだ私が、マンの少年時代の頃と、あるいは中世から少しも変わっていないであろうハンザ同盟で栄えた北ドイツの町と、ルターがひたすら聖書のドイツ語訳に没頭したアイゼナハの古城を思い浮かべたのは、むしろ自然である。しかしマンの短編小説『ヴェニスに死す』を読むと、マンが如何にミュンヘンと関わりが深かったのか、あらためて痛感させられ、そしてその上で、もう一度、『ドイツとドイツ人』を読み直すと、マンがここでドイツ的なるものと呼んでいるものが、すべてミュンヘンにも見られることに気付く。

 私は年末のミュンヘンの酒場で、ビールを飲みながらマンを読んでいた。マンはリューベックで生まれたが、18歳で、家族とともにこのミュンヘンに来て、実に40年近く、この街で過ごしている。代表的な小説のほとんどすべてをここで書いているのである。マンはミュンヘンで小説家として育てられたと言っても良い。そしてそのマンが小説家として有名になった頃、一人の芸術家志望の男が、ミュンヘンに流れ着く。マンの家からそれほど遠くないところに一室を借り、売れない絵葉書なんぞを描いていたこの男は、やがて、アジテーターとして頭角を現す。ヒットラーである。ヒットラーもまたミュンヘンに育てられ、ここを根城にドイツを支配していく。そしてまもなくマンは、そのヒットラーにミュンヘンを追われ、その後は、スイスに行き、ついでアメリカに渡り、再びスイスに戻って、その80年の人生を終えている。あらためてマンのエッセイや小説を読み返すと、その至るところにミュンヘンの刻印があるのに気付く。とりわけ、ヒットラー批判には、自分自身とヒットラーとを生み出したミュンヘンこそが、まさしくドイツ的なものとして、マンの念頭にあったはずなのである。

 ミュンヘンはドイツの代表的な町だと、旅行者の私は思う。ミュンヘンの中央には、私にはドイツの中で一番美しいと思われる市庁舎があり、その周りにはいくつも、これもまた華麗な教会があり、ビールを供する酒場が実に夥しくある。旅行者にとって、これほどドイツを感じる町は少ない。

しかしドイツ人に言わせると、バイエルンはドイツではない。いや、少なくともドイツの典型ではない。バイエルンは、ドイツ本流のプロイセンからは、常に田舎者扱いされて来た。また、ルターを生んだプロテスタントの国ドイツで、ここはカトリック信者が多く、宗教的にもドイツの中では異質である。マンが人生の大半をこのミュンヘンで過ごしながら、ドイツ的なものを挙げたときに、ミュンヘンに言及しなかったのは、このあたりに原因があるのだろうか。

 マンは、実は相当にこのことを意識していたはずである。『ヴェニスに死す』は、マン自身を思わせる芸術家を主人公にしているが、その主人公は、参事会員の父のもと、リューベックに生まれ、父の死後、南方系の母と兄弟とともに、このミュンヘンに来る。北の官僚的で、「律儀で切り詰めた人生を送った」父と、官能的で芸術家肌の母との対立は、マンの得意な、二項対立の一例である。そうしてマンが「ドイツ的なもの」を考えたときに、この二項対立とその止揚、ということが頭にあったに違いなく、つまり北ドイツ的なものと南ドイツ的なものの止揚こそがまさしくドイツであるという意識があったはずだ。あるいは、マンの場合、対立は止揚されるのだが、しかし常にアンバランスで、結局どちらかが優位となって行き、場合によっては再び対立が始まる、といったヴァリエーションを取る。だから、このアメリカ人向けの講演の中で、ドイツを説明するのに、ミュンヘンに言及しなくても、ドイツに詳しい人は、その話の中にミュンヘンを見出すだろうし、ドイツを知らない人にとっては、別に一地方の固有名詞が重要なのではなく、ドイツ的なものが伝われば良い。そういう事情があったのだろうと思われる。

 しかしミュンヘンでビールを飲んでいて、私は、あらためてミュンヘンこそドイツの典型でないかと思う。それはビールに現われている。ドイツ各地のビールに親しんで来た私にとって、ミュンヘンのビールが、必ずしもドイツで最もおいしいものだとは思わない。すでにこの連載で幾度となく書いたように、ケルンやデュッセルドルフや、ボンやミュンスターのビールを私は愛する。私がドイツのビールと聞いて、真っ先に頭に思い浮かべるのはそちらの方である。しかしミュンヘンの小麦ビールやラガーも実にうまい。フィルターを濾していないビールはとりわけうまい。それはここで、毎日、昼食とおやつと夕食と、三度ビールを飲み続けて実感している。そして多分、大部分の日本人に、ドイツのビールのイメージを聞けば、このミュンヘンを真っ先に挙げるだろうと思う。つまり多くの日本人にとって、ドイツと言えばビール、ビールと言えばミュンヘン、となるに違いない。そしてそれはそれで間違ってはいない。

 本来、ドイツはすべてが地方であり、ドイツビールはすべてが地ビールである。ミュンヘンはドイツの一地方であり、ミュンヘンビールは一地ビールに過ぎないが、しかしそれをドイツの典型と読んでも間違いではない。

もう少し正確に言えば、こういうことだ。ミュンヘンは、そもそも「イーザル川のアテネ」を目指して、19世紀の王によって、芸術の都として作られた。また20世紀初頭には、パリの雰囲気を真似、芸術家たちが集まってくる街となったのだが、しかし実際には、アテネやパリの洗練には程遠く、野暮であり、時に悪趣味な街である。そういうところが私には、実にドイツらしく思われる。ドイツ人ならばそうは考えないだろうし、ミュンヘンをドイツ的と言えば、気を悪くするかもしれないのだが、しかし外部から見れば、ヨーロッパを志向し、それでいてヨーロッパ的になれず、田舎であり続けるところこそが、まさにドイツ的なのである。

 ビールもまた、私はここの小麦ビールこそが、後の英米のエールビールにつながったと思うし、もう一方で、ラガービールもここからヨーロッパに広がった。ミュンヘンの語源は、英語のmonkつまり、修道院であり、そこで作られてきたビールが、ヨーロッパ全土に広がったのである。ところがその本拠地の、小麦ビールもラガーも、あまり洗練されることなく、野暮ったいまま、今日に至っている。その野暮ったさが、私には実にドイツらしいと思われるのだが、しかし、例えば、ライン川周辺地域では、小麦ビールを洗練させて、アルトを生み、またラガーに刺激されて上品なケルシュを生んだ。その地域の人達からみれば、多くのドイツビールはもっと洗練されていて、ミュンヘンのビールは野暮な一地方のビールに過ぎない。

 この、ドイツ内部から見れば、一地方に過ぎないのに、そしてドイツ人から見れば、必ずしもドイツの典型ではないのに、外部から見れば、まさしくドイツ的であるという点に、ミュンヘンの魅力がある。ヨーロッパを志向しつつ、しかし田舎の一地方に過ぎないというのも、またドイツが常に持ってきた屈折である。

ミュンヘンには、六つの大手醸造所があり、ミュンヘンの飲み屋は、たいていこの六つの銘柄のどれかを供する。また、ひとつないしは数件の店にしか出さない小さな醸造所もたくさんある。私はそれらのビールを飲み歩き、また飲み屋によっては、醸造所を見学させてくれたり、博物館を併設していて、客を楽しませてくれるところもあるのだが、それらもていねいに見て回って、多種多様ではありつつ、しかしミュンヘンビールとしての特徴をそのどれもが持っていることに気付いた。麦の甘さがあり、酵母の強い香りのする素朴なビールである。その素朴さこそが、ビールと言えばドイツ、ドイツと言えばミュンヘンと私たち外国人に思わせ、かくしてミュンヘンはドイツの典型となるのである。

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