2002

ティーンエイジャーの理由なき反抗が世の中を騒がせたこの年、
陣馬神輿の原型となるコンタクトが始まる。


神奈川県北西部通称FUJINO。
この見捨てられた山間部に暮らしていた若者達は飢えていた・・・
体の中から湧き出てくるエネルギーの放出が出来る何かを求めていた。

誰かが言った「神輿でも作ってみないか」
断る理由なんて持ち合わせてなかった。
「やるなら派手にやろうぜ」と宮崎は言った。
元日に神輿を担いで陣馬山に登る・・・
この時陣馬神輿会が産声を上げた瞬間だった。

時間は有り余っていた。でも金は無かった。
まだ何も知識がないまま初期モデルが完成した。
ダンボールに角材を打ち付けるという最もシンプルなものだった。
だが皆の心には一体感という言葉が残った。






2003 

初期モデルよりグレードアップした神輿がそこにはあった。
渡御当日、町は大雪だった。
だがそんなのお構いなして陣馬に向かい出た。
見渡す限りの白銀の世界。
寒空のもと彼らの第二章は幕を降ろした。







2004

この年から本格的に3号機を作り始めた。
時間もコストもかけたが、出来上がったとき
一同は顔を見合わせ、感無量の表情を見せた。
この年の陣馬は最高に美しい初日の出を見せた。
この年から神輿舞踊が始まった。
かつて他の神輿会がやったことのない部類だろう。
新たしい伝説の幕開けだった。








2005

4号機の製作に入った。ベースは3号機を流用。
新たに枡組、巴の製作に入った。
枡組みは宮崎工房、巴彫りはメンバーひとりひとりが
思いを込めて丁寧に彫り上げた。
この段階で現在の神輿の原型が出来上がった。
だが・・・
当日、一面大雪。陣馬麓のへの峠道通行止め。
渡御中止が叫ばれる中
一同の強い気持ちで安全第一の心意気をモットーに
車を乗り捨て峠道20kmの道のりを担ぎ出した。
この年を持って2年間の活動休止となる。







2008

「集結セヨ」
それは石田会長の鶴の一声で始まった。
永い眠りから目を覚ました彼らは、また別の壁にぶつかっていた。
仕事、結婚、失業・・・創世記のメンバーは皆それぞれの道を歩き出していた。
メンバーは創世記の10分の1となっていた。
しかし陣馬への思いは以前よりも一層強めていた。
「とにかく集大成にしたい」皆が願った。
かつて無い神輿の完成度。より強めた絆。
バラバラになっていた心と心がまたひとつになった。
陣馬神輿への思いは尽きない。陣馬神輿は2009年さらに上を目指す。




2008/1/17
陣馬神輿會会長 石田隆一

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