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評論的論文

 三浦つとむは、評論とは、その構成において、具体的な事実の認識から出発して抽象的・普遍的な認識に至るものであり、論文とは、抽象的な諸規定から出発して思惟過程においてそれらを具体化していく構成をとるものである、と述べていますが(『認識と言語の理論 第三部』p.303)、さらに評論と論文の中間形態として「評論的論文」と呼ぶべきものもあると言っています。「評論的論文」とは、次のようなもののことをさします。
《長い評論を注意して見ていくと、たしかに全体としては<評論>でありながら、筆者の原理的な把握が最後のところに位置づけられていないものに、しばしばぶつかるのであるが、これが無意識的につくられた<評論的論文>の一つのタイプというべきものである。筆者は「結論をさきにいうならば……」とか「前もって私の考えをいっておくが……」とか、断り書をつけて、具体的に検討する前に結論的なものを述べることが多い。これは論理的強制を自覚したからである。与えられた問題が複雑多様で、それぞれの部分にさまざまな異った解釈が可能であり、現に各人各説の状態にあるような場合には、これに正しい解決を与えるための筆者の原理的な把握もまた単純なものでは不充分であって、ある程度体系的なものを必要とする。こうなると、具体から抽象へという構成を固守しているわけにはいかない。それでは、それぞれの部分を扱うたびごとに筆者の原理的な把握を明らかにしながら諸説を反駁しなければ充分に解明にもならず説得力もないわけで、そんなことをつぎからつぎとくりかえしたのでは無駄なくりかえしが多くなり、立体的な展開も困難である。それでコースを逆転させ、まず結論に相当する筆者の原理的な把握を示してから、それを前提として具体的な問題をある程度体系的に整理しながら原理の体系的な展開と相応させて論じていくならば、複雑多様な問題も体系的な理論の応用ないし実証として解明されていき、説得力のある無駄のない展開がすすんでいく。だがこの構成はほかならぬ論文のそれであって、<評論>の中に抽象から具体への<論文>の展開がはめこまれ浸透したものといわなければならない。それゆえこれは<評論的論文>とよぶのがふさわしい》(三浦つとむ『認識と言語の理論 第三部』【勁草書房、1972】p.308)
――ここでは、このような評論的論文を掲載して行きたいと思います。


○「日本語の起源」に関する覚書(2002/3/18)


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