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言語過程説とは何か?


はじめに

私がこのページで取り上げている言語過程説は、国語学者の時枝誠記(1900〜1967)がその主著『国語学原論』(1941)において体系的に叙述した言語学説を、のちに言語学者の三浦つとむ(1911〜1989)が唯物論的に修正し発展させたところの理論をさしています。
時枝誠記の言語過程説は、三浦以外にもこれを受け継いで研究している学者が少数ですがいます。けれども、私は、時枝理論の本質をもっとも深く理解して、これを発展的に継承させた学者は、やはり三浦つとむだけだろうと考えています。いいかえれば、三浦によってはじめて、言語過程説は本格的な科学的な理論として、また体系的な言語学説としての性格を与えられたものと、私は理解しています。ですから、ここに紹介する言語過程説の理論は、時枝誠記の学説を批判的に継承した三浦つとむの理論であることを、まずはじめに断っておきたいと思います。もっとも、叙述の流れで、時枝自身の理論を叙述する箇所もあるとは思います。
言語過程説の理論について具体的に説明する前に、まずは、既成の言語学における特殊な事情について説明しておこうと思います。

言語学における対象規定と言語本質論

一般に、言語学とよばれる学問には、何となく複雑な、捉えどころのないイメージが付きまとっていると思います。皆さんの中には、それはようするに「語学」だろうとか、個々の言語の歴史を調べたり個々の言語間の比較をするのだろうとか、いや、それは言語記号に関する体系的な学問だとか、いろいろなイメージを持つ方々がおられることと思います。
私は、言語学がこのように複雑かつ曖昧な学問として受けとめられている最大の原因のひとつは、本来ならば理論言語学の基礎として位置づけられているべき「言語学の対象とは何か? またその本質はどういうものか?」という問題を正面から取り上げて、これを究明する理論、すなわち言語本質論がなおざりにされているところにあるのではないか、と考えています。このことは、言語学の概説書を数冊手にしてみれば誰でも気づくことです。そこで皆さんは、言語学の対象としての「言語」の定義は決して統一されておらず、なかには最初から対象の定義を放棄してしまっている概説書が存在することすら発見されることでしょう。そうです、実は言語学の世界では、いまだにその対象の規定が一般的に確立されておらず、その対象が具体的にどういうものであるかを取り扱う言語本質論が盛んに論じられてはいない状況なのです。とりあえず、あとで解説する言語過程説の理論は、この言語本質論を本格的に論じている数少ない例外のひとつであるということを覚えておいてください。

日本における「言語」

日本における「言語」という語彙は、きわめて多様な使われ方をする語彙といえるでしょう。たとえば、日本語の「言語」は、その時々の表現において、抽象的な言語行為・言語現象一般を意味したり、日本語や英語など個々の固有語を意味したり、あるいはこのすぐあとに説明する構造言語学におけるlangueを意味したりします。これでは、日本語で言語学の対象としての「言語」の一般的な規定を行おうとする際にきわめて不便であることは明らかです。なぜなら、「言語」について何か書こうとする場合に、たえず自らの使っている語彙がほかの意味にとられているかもしれないという不安感が付きまとってしまうからです。そこでここでは、とりあえずこのような混乱をさけるために、上に述べた言語本質論における「言語」を<言語>と表記することとします。ようするに、言語本質論の対象としての「言語」を、かりにここでは<言語>と表記することとします。

構造言語学と言語過程説における言語本質論

言語学の歴史を紐解いてみると、比較言語学、構造言語学、生成文法という三つの大きな理論的な潮流を挙げることができます。このなかで、上に述べた言語本質論を少なくとも具体的に論じているのは、構造言語学だけです。
構造言語学の創始者とされるF・ド・ソシュールは、複雑で混質的な「言語活動」(langage)の中から、ラング(langue)とパロール(parole)を区別して取り上げ、言語学の対象はラングであると規定しました。
 …それ(ラング―引用者注)は言語活動(langage)とは別物である。それはこれの一定部分にしすぎない。ただし、本質的ではあるが。それは言語能力の社会的所産であり、同時にこの能力の行使を個人に許すべく社会団体の採用した必要な制約の総体である。(ソシュール『一般言語学講義』p.21)
 それは記号体系であり、そこでは意味と聴覚映像との合一をおいて他に本質的なものはなく、また記号の二部分はひとしく心的である。(同上p.28)
 …われわれは概念と聴覚映像との結合を記号(signe)とよぶ。(同上p.97)
このように、ソシュールのいうラングとは、人間の頭の中に存在すると仮定されたところの、概念と聴覚映像とが統一された記号の体系のことであり、発話をするために必要な一種の社会的な制度のことです。パロールは、現実の発話行為をさしますが、ソシュールは、これについて具体的なことはほとんど述べていません。構造言語学における言語研究の対象は、主に前者のラングであると規定されたのです。つまり、頭の中の観念的な記号の体系という静的な対象が言語学の対象として規定され、現実の発話行為すなわち現実の言語表現行為という動的な対象は研究の対象から除外されてしまったのです。
現在も、少なからぬ言語学の概説書において、このような構造言語学の対象規定が採用されています。
一方、私の支持する言語理論、すなわち時枝誠記から三浦つとむへと継承された言語過程説(以下、言語過程説をこの意味で使うこととします)は、上のような対象規定を否定して、言語表現行為の過程的構造の全体像を重視して、これを研究の対象としています。つまり、<対象>→<認識>→<表現>という言語表現行為の過程的構造を重視するのです。もっとも、だからといって言語過程説は、ソシュールのいうラングを研究の対象から除外してしまったわけではありません。言語過程説は、ラングとパロールを敵対的に切り離してとらえるのではなく、両者を言語表現論の中に統一してとらえるべきことを主張するのです。
言語過程説における<言語>は、<対象>→<認識>→<表現>という観念的かつ物理的な過程的構造をへて現実的に表現されたところの物質的な音声や文字のことです。ソシュールのいうラングは、言語表現行為における<認識>の過程に関与する認識の特殊な形態のひとつにすぎません。この一事実をみても、言語過程説が構造言語学とは比較にならないほど大きな視野から<言語>をとらえていることがわかると思います。つまり、言語過程説は、言語表現の背後に存在する過程的構造まで研究の対象に含めているのです。実際、言語過程説の言語理論は、認識論や表現論、規範論、立場論、文法論など、きわめて多岐にわたる理論を包摂するものです。ここでは、その全部を詳しく論じることはできません。より詳しく知りたい方は、トップページの『言語過程説の研究』というところをクリックしてみてください。

言語本質論における時枝誠記と三浦つとむの相違

言語過程説の創始者である時枝誠記と、その後継者である三浦つとむは、<言語>を表現としてとらえ、言語表現の背後に表現主体による観念的な過程的構造を想定する点で本質的に同じ立場をとりますが、両者の<言語>の本質に関する説明は、異っています。
時枝は、ソシュール理論のように、頭の中の観念的な記号のような何らかの実体的なものに<言語>の本質を見ることを否定して、表現主体による観念的な認識過程、すなわち<言語>における《継起的過程現象》、すなわち《一の心的過程》を<言語>の本質としてとらえていました。
一方、三浦は、時枝が<言語>の過程的構造を取り上げたことを評価しつつも、過程的構造そのものが<言語>なのではなく、過程的構造が反映されたところの物質的な音声や文字が<言語>であり、過程的構造と、物質的な音声や文字とを過程と結果の関係としてとらえるべきことを、すなわち両者を統一してとらえるべきことを主張しました。別のことばでいえば、三浦は、<言語>を過程的構造が関係づけられた実体としてとらえ、この実体と関係とを統一してとらえるべきことを主張しているのです。この点で、三浦の見解は、ソシュール的な素朴な言語実体論とは区別されるものです。
以上をまとめると、時枝は、表現主体や理解主体の表現活動・理解活動そのものに<言語>の本質を見たのに対して、三浦は、唯物論の立場から、表現すなわち過程的構造が反映されたところの物質的な音声や文字に<言語>の本質を見た、ということになります。つけ加えておくと、三浦にとって、<言語>を理解するということは、読み手や聞き手が目や耳などの感覚器官を使って<表現>をとらえ、そしてそこに関係づけられている過程的構造を観念的に追体験することである、ということになります。

言語学の基礎理論としての言語表現論

本来、<言語>を科学的に分析しようとするならば、必然に論者は、人間の認識と<言語>との間の関係について、あるいはまた、人間の認識のダイナミックな運動の構造について、本格的に論じなければならないはずですが、既成の言語学は、これらの問題領域に関しては概して沈黙を保っています。もっとも、このことは、そもそも、ソシュールやチョムスキーのように、認識と<言語>との区別がつかない言語学者が大半を占めているということが影響しているのかもしれません。そのせいかどうかよく分りませんが、認識と<言語>との関係の問題については、おもに認知科学や言語心理学、あるいは脳神経科学の学者たちに委ねられているようです。
三浦つとむが継承し発展させた言語過程説は、<言語>を認識の表現としてとらえるべきことを研究の出発点にしていますから、当然、上の両者の関係について詳しく論じています。三浦は、言語表現がどのような認識過程を通してなされるか、ということについて具体的に論じています。これは、表現として<言語>をとらえる立場をとるならば、当然、論じられなければならないことでしょう。時枝も<言語>を表現行為としてとらえる立場をとっていたので、言語表現の過程的構造について詳しく論じています。私は、このような言語表現論、すなわち言語表現の過程的構造に関する理論が、言語学の基礎に措定されているべきだと考えます。なぜなら、表現としての<言語>が単なる実体ではなく、その背後に表現主体による観念的な過程的構造が関係づけられているとするならば、表現としての<言語>が生成されるその過程を詳しく論じることは、すなわち<言語>の本質を論じることであると思うからです。

おわりに

以上、見てきたように、言語過程説は、「言語とは何か?そしてその本質はどういうものであるか?」という言語本質論について本格的に論じている数少ない言語理論のひとつであり、そしてその言語本質論から導き出された「言語は表現の一種である」という結論から、言語表現の過程的構造を分析する言語表現論について具体的に論じています。
また、言語過程説は、そのような言語本質論や言語表現論を展開するにあたって必然的に必要とされる表現論や規範論、<像>の理論、認識論などについても具体的に論じています。私は、『言語過程説の研究』において、それらを含む言語過程説の全体像を体系的に紹介していますので、興味のある方や、さらに詳しく知りたい方は、どうぞそちらの方もごらんになってください。

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『言語過程説の研究』