古い話だが、私は唐津市の志道小学校に通っていた。
学校から帰ると小さな自転車の荷台に、日によってヴァイオリンケ−スや絵画の用具をセットした木箱が紐で括り付けられていた。「お稽古の日」という無言のメッセ−ジであった。「宿題もないしルンルン遊べるぞ」とランドセルを揺らしながら走って帰ると「ガッカリ」する日も多かった。
小学校の6年間はヴァイオリンと絵画と少年マガジンと草野球に明け暮れる日々だった。高校教師で唐津焼の陶芸作家であった父は「小学校時代は宿題だけをやり、勉強をするな」と私に厳しく言った。
従って勉強しなくても怒られたことは1度もなかった。その代わり、絵画やヴァイオリンの教室に行くフリをして無断でサボルと狂ったように説教されたものだった。
そういう父であったので、ヴァイオリンも絵画も共にその世界では有名な先生の教室を見つけてきては私に通わせた。
わざわざ、片道1時間もかけて自転車で通ったことを懐かしく思い出す。
青い空の下、揺れる麦わら帽子と荷台でガタガタ揺れているヴァイオリンケ−ス。遠くからはセミの声が聞こえてくる。
教室にやっと着くと荷台の振動で緩んでしまった弦を先生のピアノの音に合わせて、音を合わせるのが大変だった。
ヴァイオリンの先生は妙に神経質な人で市民オ−ケストラのコンサ−トマスタ−だった。
ド−ナツを揚げて食べさせてくれる時、まぶした砂糖を床に散らかすと人が変わったように怒る人だった。
指導方法はとても厳しく、よく弓をムチのように使い私の両手をピシッピシッと叩いたりしたものだった。
それに、先生はピアノの鍵盤をバ−ンバ−ンと大きく叩いて怒鳴っていることも多かった。
「ここのビブラ−トとそこのシンコペ−ションがデタラメで話にならん」バ−ンバ−ンという具合に…
それくらい厳しかったが小学校6年生の時、サラサ−テのツィゴイネルワイゼンという名曲にめぐり会えてジプシ−的な曲にのめり込んでいった。この曲の悲哀・衝動・情熱・即興の要素は、私のア−ティカルなポリシ−に強い影響力を与えている。絵画は、日本画・洋画を共にやり、細密画では「うずら」という鳥を徹底的にやらされた。
先生は私にまるで生きているように思えるまでのリアリティ−とテクニックを極限まで要求した。
6年間も「うずら」をやっていると写真のようにうまく書けてしまうので、知らない人に「すごくうまい絵だ」と誉められてもさっぱり嬉しくもなかった。小学校3年生からは絵画コンク−ルの県展荒しとして「立花正人」の名前が新聞に連続的に載ったが、感動すらなかった。
私の絵は先生の教えの通りに描いた先生の絵と単なる「同一物質」だったからかもしれない。
「形態模写」は突き詰めていっても「形態模写」に過ぎない。
そこに魂は存在しない。ア−トをよく理解していない人々又は理解する事が出来ない人々は、他人の絵を見て「うまい」とか「へた」とかいう表現でまとめてしまおうとするが、それは「形態模写」が「うまい」とか「へた」とかいうことを言っており、芸術的なスタンスからは無価値な表現方法と言える。
まず、彼らはイラストレ−ションとア−トの違いがわかっていない。
イラストレ−ションは形態模写あるいはそれが進化した具現化の方式であるが、それらは写真やトレ−スで事は足りうるのである。それに対してア−トは「その時々の魂の叫びをキャンバス等に露出した終わりなき旅路」と言える。
昔、日本に一流のア−チストグル−プで「具体」というのがあった。そのメンバ−であった白髪一雄は、キャンバスの上に立ち、両足で油絵具をグチャグチャにこねてアクションペインティングへの旅路へと出発し、現在もなお同一スタイルで活動中である。
同メンバ−であった嶋本昭三は、ガラスビンにペンキを詰め込んでキャンバスに投げ付けて自己内面を表現した。
彼は現在、80才以上になるが現役バリバリで活動を続けている。
2005年クレ−ン車で地上30mまで吊し上げられ上からペンキ入りのガラスビンを地上のコンクリ−トに投げ続ける作品にとりかかっている。
彼は、180才までやり続けると言う。
終わりなき旅路を表現した言葉である。
私は「形態模写」に対する「うまい絵」という嬉しくない誉め言葉から脱出を決意し、ア−ト路へと旅へ出たのは小学校6年生であった。
そして、現在やはり終わりなき旅をジプシ−のように続けている。
すべては「反動」からのツィゴイネルワイゼンなのか。