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メッセージ

羊飼い 母の日合同礼拝
『諸悪の原点』
申命記 21章18−21節
2006/5/14 説教者 濱和弘

今日は、母の日の合同礼拝です。いつも合同礼拝では、大人も子供も一緒に礼拝を守っています。そして、礼拝のお話しも、最初は子供のためのお話をして、その後におとなのためのお話しをしてきしした。ですから、今日も、同じように、最初に教会学校のみんなのためにお話しをし、そのあと、大人に人のためお話をします。もちろん、大人のためのお話しは、子供のみんなには少しつまらないかも知れません。でも、大人の人たちは、子供のみんなのために話される話を、静かにじっと耳を傾けて聞いてくれています。ですから、子供のみんなも、大人の話はチョット難しくて分からないかも知れないけれど、頑張って最後まで聞きましょう。そして、お話しが終わったら、最後にみんなで大きな声で、神様を賛美する歌をうたいましょうね。そこでお話しです。

誠君という男の子がいました。誠君のお母さんはお仕事が忙しくて、誠君はなかなかお母さんから遊んでもらえません。誠君のお父さんは、病気で死んでしまっていました。だから、毎日毎日、誠君のために、朝から、夜遅くまで一生懸命働いていたんです。だから、遊べなかったんだね。ある時、誠君のお母さんが、「誠くん、今度のこどもの日はお仕事が休みだから、ディズニーランドに連れて行ってあげよう。」って言ってくれました。誠君は嬉しくて嬉しくて、あと15回寝たらディズニーランド、あと7回寝たらディズニーランドと、お母さんとディズニーランドに遊びに行くのを楽しみに待っていました。ところが、ディズニーランドに行く前の日の晩、誠君のお母さんが誠君に言いました。「誠くん、ごめんね。お母さん急な仕事が入って、明日ディズニーランドの一緒に行けなくなっちゃったの。だから、お婆ちゃんと一緒に行っておいで。また仕事に休みが取れたら、今度はお母さんも一緒に行ってあげるから」それを聞いた誠君はがっかりです。いつもはなかなか遊んでもらえないお母さんが一緒に行ってくれるのでとっても楽しみにしていたのです。だからね、誠君は「嫌だ、嫌だ、お母さんと一緒でなくちゃ嫌だ。」って泣き出してしまいました。そして、「一緒のディズニーランドに行くって約束したじゃないか。お母さんの嘘つき」って行って、自分の部屋に閉じこもってしまいました。

翌日の朝の、こどもの日。お母さんと一緒のディズニーランドに行く約束をした日です。お母さんは、朝から、お仕事に出かけていきました。仕事に出かけていく前に「誠くん、ごめんね。でもお婆ちゃんと一日ディズニーランドで楽しんでおいで。それじゃ行ってきます。」と誠君に声をかけました。そのお母さんに、誠君は返事もしないで、ふくれっつらプイと横を向いてしまいました。お母さんは、ちょっと悲しそうな顔をして出ていきました。お母さんも、本当は誠君と一緒に行きたかったんだね。お母さんが出かけた後、お婆さんがディズニーランドに連れて行ってくれました。でも誠君は余り楽しくはありませんでした。そして、何度も何度も「お母さんの、嘘つき。お母さんなんか嫌いだ。」ってぶつぶつぶつぶつ文句を言って、お婆ちゃんを困らせました。あんまり、誠君がぶつぶつぶつぶつ文句をいうので、とうとうお婆ちゃんが怒ってしまいました。「誠、あんまりわがまま言うもんじゃありません。お母さんはお仕事でどうしようもなかったんでしょ」そう言って、誠君の頭をごつんとしました。お婆ちゃんから頭をごつんとやられた誠君は「なきながら、だって約束を破ったのはお母さんだよ。お母さんはいつも嘘言っちゃいけない。約束を破っちゃいけないって言っていたじゃないか。悪いのはお母さんだ。」って泣きながら「だだ」をこね出したんです。

さぁ、ここでみんなに質問です。本当に悪いのは、約束を守らなかったお母さんの方でしょうか?それとも「だだ」をこねた誠君の方でしょうか?
子供の答え:・・・
大人の答え:・・・
確かに、お母さんは約束を守ることが出来ませんでした。でもそれはお仕事で仕方がないことだったんですね。お母さんも本当は誠君とディズニーランドに行ってあげたかったんですね。でも、どうしようもなかった。それで、我慢してお仕事にいったんです。同じように誠君も、お母さんとディズニーランドに行きたかった。そして誠君はどうしてもお母さんとディズニーランドに行きたかったからと言って、最後まで、「だだ」をこね続けたんです。そして、結局、お母さんを悲しい気持ちにさせただけでなく、お婆ちゃんまで怒らせちゃった。でも、誠君が本当にお母さんにしてあげなくちゃいけないことは、約束を守れなかったお母さんを赦してあげることですよね。でも誠君のわがままな心が、本当にしなければならないことを出来なくして、してはいけないお婆ちゃんを困らせるということをしてしまったんです。

だから、みんなはわがままな子供にならないようにしましょう。わがままの心は、本当にしなければならない良いことを出来なくします。そして、私たちがしてはいけないことをさせてしまいます。聖書は、このような私たちのわがままな自分勝手な心を罪といいます。しかも、もっとも悪い罪だって言うんです。というのもね、このわがままな心がね。ほかの沢山の罪を犯させる原因になるからです。だからね、昔のイスラエルでは、わがままばかり言って、お父さんやお母さんに怒られても言うことを聞かないで自分勝手なことをする子供は、石打ちっていって、町中の人が、こんなに大きな(子供の頭ぐらいの大きさ)石をぶつけて、死刑にしてしまったんです。それほど、わがままな心というのは、お父さんお母さんを悲しい思いをさせ、人に迷惑をかけるものなんですね。でもね、神様はそれほど悪いつみであるわがままな心、自分勝手な心も赦して下さいます。そして、私たちの心にたくさんある、わがままな心や自分勝手な心が、一つずつなくなるようにしてくださるんですね。

だから、もし私たちがわがままな心が出てきたら、神様のことを思い出しましょう。そして、神様に、「私のわがままな罪をおゆるし下さい。そして、私たちの心からわがままな心を取り除いて下さい。」ってお祈りしましょう。そうすれば、神様は、一つづつ私たちのわがままな心を取り除いて下さり、神様もお母さんも、お父さんも喜ぶ、きれいな優しい心になっていきます。そうやって、みんなもお母さん、お父さんの言うことを素直に聞ける子供になりましょう。そして、みんなが悪いことをしてお母さん、お父さんに、そして神様に悲しい思いをさせることがないようにしましょうね。

さて、大人の方に対してです。ことし、私の家では、長女が大学に入学しました。入学させる際に、私は長女に三つの約束をさせました。一つは、大学には自分の力で行くこと。二つめは、娘の大学はミッションスクールですので毎日礼拝がありますので、それには必ず出席すること、三つ目は、親には絶対に逆らってはならない、ということです。三つ目の約束を娘に言い渡しましたところ、娘は「でもお父さんやお母さんが間違ったことを言ったときはどうするのよ。」と切り返してまいりました。在る意味、当然のことです。筋も通っているように思われます。それでも私は娘に「仮に、お父さんやお母さんが間違っていても、それでも親には逆らうな。親には従わなければならない」とそう申し渡しました。そして、そのことを約束させたのです。一見「お父さんやお母さんが間違っていても、それでも親には逆らうな。親には従わなければならない」という言葉は、いかにも理不尽に聞こえます。しかし、今、大学に入学し、学問を学ぼうとする娘に、私はこの一見理不尽とも思われる約束をさせたのです。そして、もしこの約束が守れないなら、大学を止めさせると言い渡しています。そしてその気持ちは今も変わらないのです。どうして、私が、このような理不尽な約束をさせ、今でもその約束を変える気持ちがないかというのには、それなりの分けがあります。

それは、娘が大学という学問の場で、学問を学ぶからです。学問というのは、その学問をする領域における秩序を学ぶことです。例えば、物理学なら自然の中にある様々なものがどのような法則に従って存在しているかという、自然の秩序を学び知る学問ですし、法学というものは、人間社会の社会秩序を保ち守るものは何かを追求する学問です。そして、神学は、最終的には、神と人との間にある秩序というものを知るための学問だと言えます。その秩序を学ぼうとしている者に、「お父さんやお母さんの言うことを聴き、逆らってはならない。」と言うのは、それが家庭の中の秩序を守ることだからです。ですから、私は娘に秩序を守ることを約束させたのです。でなければ、学問という秩序を学ぶ者としての基本姿勢が保てないと考えたのです。だからこそ、その秩序が守れないのならば学問を学ぶ資格が問われますので、大学を止めさせると言っているのです。

このような、秩序というもの抜きに、私たちは存在できません。自然には自然の秩序があるからこそ、私たちはこの自然の中で生きていけるのです。また社会には社会の秩序があり、その秩序を法が守ろうとするからこそ、社会が成り立つといっても過言ではありません。だからこそ法を守るのです。そして、私たちは、自然の中に生きる一生物として、自然の法、秩序に従う者です。また社会の中で生きる者として社会人として社会秩序にしたがい、社会のルールである法に従わなければなりません。同時に、私たちは神の前に生きる神学的存在として、神の与えた秩序に従う者でなくてはなりません。今日、司式の兄弟にお読みいただきました聖書の箇所は「わがままで父の言葉にも、母の言葉にも従わない子供は、町の人たちによって石打ちにされて殺されなければならない。」という厳しい戒めが書かれた場所です。もちろん、この戒めは、何千年も前のイスラエルの置かれた社会環境や文化的背景を背負った言葉ですから、今日も同じようなことが行われると言うことでありません。しかし、神が、如何に文化的社会的背景を背負っていたからと言って、このような厳しすぎるような戒めを聖書の留めたのは、それなりの分けがあります。

というのも、ここにおいて、父の懲らしめに従わない、母の言うことをきかないということの理由が、この子供のわがままな心にあるからです。そして、そのようなわがままな心が、父と母に従えという、家庭内の秩序を守らせない。そのような、だから、そのようなものを、町中の者が石打ちにして打ち殺すのです。それは、家庭の秩序を守れないわがままな心は、社会の秩序も守れないからです。今日の聖書の箇所には、町の長老に両親が訴え出る時に、どのように訴え出なければならないかというその言葉まで記されています。そこにはこう言われています。「わたしたちのこの子はわがままで、手に負えません。わたしたちの言葉には従わず、身持ちが悪く、大酒のみです。」身持ちが悪いということは、家庭内だけの問題では留まらす、人を巻込んでいるということです。もはや、家庭という中での問題では収まらず、他者を巻込んでしまっている。大酒のみだというのも、お酒を飲むといったことだけが問題だとは思われません。酒飲みだというのではなく、大酒のみと言われる以上、飲み過ぎて人にまで迷惑をかけるようになってしまっているということでしょう。だから、町の長老の所に問題を持ち出すのです。そして、その問題の原点にあるのが、「わがまま」ということなのです。そのわがままな心、自己中心的な心を聖書は罪ということは、すでに子供たちに話したとおりです。しかも、それは全ての罪の原点なる人間の原罪と呼ばれるものなのです。

わがままな心、自己中心的な心、それは人間の原罪ですから、誰にでもあるものです。それを、父の懲らしめや母の教え諭す言葉、あるいは教師の導く言葉によって、自らの心をコントロールすることを学びながら、私たちは社会の中で生きているのです。いわば、社会というものが、社会秩序という声なき言葉で、私たちに自制を促しているのです。ところが、今の時代はその社会自体がおかしくなってしまっている時代です。それこそ、父や母に従うということさえも、おろそかにされ、ないがしろにされがちですし、社会自身の秩序も崩れがちです。そのことが、今日の日本の社会の中でもっとも顕著な形で表われているのが性のモラル、性の秩序の崩壊です。もちろん、今日の性の問題に関しては、性同一性障害といった医学上の問題もありますが、それは、単に社会秩序の問題だけではなく、医学上の問題、生物学上の問題でもありますから、ここでいう、性の秩序の崩壊といったことではありません。私が言う性の秩序の崩壊というものは、若い人たち、子どもたちの間にある、全部とは言いませんがだんだんと広がりつつある、余りにも無秩序な考え方や在り方です。それは、単に若い人たちや子供たちだけを責めることが出来ません。ひょっとしたら、大人の世界の方が、もっとその秩序が崩壊しているのかも知れません。けれどもそのような秩序の崩壊が、私たちの家族や家庭を苦しめ悲しませているのです。ですから、そのような秩序の乱れを、社会風潮だとか、新しい秩序だとか行って見過ごしていくわけにはいかないのです。

秩序は、本来すべての人に、出来るだけ多くの人を悲しませないためにあるものだからです。そして、そのような秩序の崩壊は、性の秩序の崩壊といった社会的なもの、しかも、その中の一つのことがらということだけではありません。例えば、公害や自然環境の破壊といった問題は、自然の秩序が崩壊していくその過程にあって起っている問題です。そして、その根底には自分の利益や国の利益といったものを求める、人間のわがままな心、自己中心な心、つまりは罪があるのです。だからこそ、私たちは、自分の罪というものに向き合わなければなりません。そして、その罪を赦す神の愛に向き合わなければなりません。そして、神が私たちの罪を赦して下さるからこそ、私たちは神の前に、犯した罪を後悔し、神に罪を赦していただき、正しく生きていこうと努めなければなりません。教会では、「罪の悔い改め」ということを言いますが、罪を悔い改めるということはそう言うことなのです。

私たちの周りの多くの秩序があります、親子の間の秩序、夫婦の間の秩序、会社における秩序、教師と生徒の間の秩序、そして教会の秩序。これらの秩序は、今、様々な形で危機にさらされています。そして、そのような秩序の崩壊していく中で、社会は力無くそれを見つめているだけです。だからこそ、私たちは、教会に集う大人一人一人が、教会の子どもたちにむかって、「お父さん、お母さんの言うことに従いなさい。」「教会のおじさんやおばさんの言うことを聞きなさい。」といって、子どもたちを教え諭していかなければなりません。そのためには、まず、教会に集う大人の一人一人が、神の前にある親子の間の秩序、夫婦の間にある秩序、教師と生徒の間にある秩序、そういったもの一つ一つに対して身を正したいと思うのです。もちろん、私たち一人一人の心の中には「わがままな心」があり、自己中心的な心があります。ですから、如何に教会に集っている者であっても、過ちや失敗を犯してしまうことがあります。けれども、そのような過ちや失敗を犯してしまったならば、悔い改めるのです。

悔い改めるとは、先程申しましたように、犯した罪を悔い、神から赦していただいて、神の前に正しく生きていこうと衿を正すことです。ですから、私たちが、心から罪を悔い、神を信じ、神の赦しをいただいて神の前に正しく生きていこうとするならば、それは教会という社会が、子どもたちを教え導く、立派な声にならない言葉なのです。ですから、みなさん、私たちは子供に秩序を教える教会になりましょう。それは神を信じ、神を神として崇めることから始まります。大人の皆さんに語る最初に、私は娘との約束の話をしました、それは「親の言葉に逆らうな、お父さん、お母さんの言うことに従え」というものでした。私がそのように親の言葉というもの通して、家庭の秩序を述べた背後には、親と子供の関係は、神と人との関係が隠されているからです。親に従えと言うことは、神に従えと言うことでもあるのです。ですから、「お父さん、お母さんの言うことを聞きなさい」ということは、神の言うことを聞きなさいということにもつながるのです。私たちは、神に愛された神の子供です。ですから、神の言葉に聴き従い、神の家族としての秩序の中で生きていく者でありたいと思います。

お祈りしましょう。