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メッセージ

羊飼い 元旦礼拝
『新しいことが始まる』
イザヤ書43章19節
2008/1/1 説教者 濱和弘
賛美  21、206、398

今朝、こうして皆さんと2008年の始まりを、共に神様を礼拝することから始められることを、心から感謝します。おそらくは、日本中で、初詣と称して、それこそ何千万人という方が神社や仏閣に出かけていくのだろうと思います。そして、そういった方々は、ほとんど全部と言ってもいいだろうと思うのですが、一年の健康や、家族の安全、そして幸せを祈るのだろうと思うのです。もちろん、そのような祈りが悪いというわけではありません。健康を願い、幸せを祈るということは、私たち人間の基本的な欲求ですから、それらを祈り、願い求めるということは、極めて人間の自然な姿だといえます。しかし、そのような中にあって、私たちは、こうして教会に集い、神に礼拝を捧げ、そして聖書の言葉を通して語られる説教を聴くということから始めるのです。それは、初詣のように、私たちの願いや望みを祈願し、神に聞いていただくためではなく、むしろ、逆に、この2008年という年に、神が私たちに抱いておられるお心、神の御旨というものを聞くために、こうして教会に集っているという事だといえます。

その、元旦礼拝の礼拝説教を、私はイザヤ書の43章19節のお言葉から取り次ごうとしています。そして、この言葉は、昨年末より、私が2008年に、神様は私たち三鷹キリスト教会をどの言葉で導いて下さろうとしているのかということを、あれこれ思い巡らしている中で、私の心の中にずっと留まっていた御言葉です。「見よ。わたしは新しい事をなす。やがてそれは起る。あなたがたはそれを知らないのか。わたしは荒野に道を設け、さばくに川を流れさせる。」この言葉は、神がイスラエルの民を贖われ、お救いになるということが述べられている43章の文脈にあります。ですから、今お読みいたしました19節もまた、神の救いが述べられているところだといえます。預言者イザヤは、このイザヤ書43章に先立つ、イザヤ書42章、18節から25節において、心をかたくなにして神の言葉に耳を傾けず、神がなされる御業を認めようとしないイスラエルの民が、神の裁きの下に置かれることを告げます。ところが、それに引き続く43章になりますと、そのような神の裁きを語るイザヤの言葉は、一転して神の贖いの業、救いの業を語りだすのです。そして、その救いの業の中で、「見よ、わたしは新しい事をなす。やがてそれは起る。あなたがたはそれを知らないのか」というのです。

いうなれば、ここにおいて、神がイスラエルの民を贖い救い出される業は、今までとは全く違う新しいものであるということだろうと思います。つまり、今までイスラエルの民が考えていたのとは全く違った方法、違ったやり方、出来事を通して、神はイスラエルの民を救おうとしておられるというのです。だからこそ、イザヤは19節に先立つ18節で、「あなたがたは、さきの事を思い出してはならない、またいにしえのことを考えてはならない。」というのだろうと思います。というのも、このイザヤの言う「さきの事」「いにしえのこと」とは、「出エジプト」の出来事をさしていると考えられるからです。御存知のように、「出エジプト」の出来事は、旧約聖書出エジプト記に記されている、イスラエルの民が、エジプトで奴隷であったとき、神がモーセを指導者としてお立てになってイスラエルの民を救い出されたという出来事です。その出来事を忘れ、思い出してはならないというのです。

ところが、神はそのように出エジプトのことを忘れなさいといわれるのに、その神ご自身がイザヤ書43章1節以降においては、繰り返し出エジプトのことを語るのです。たとえば2節、「あなたが水の中にずぎるとき、わたしはあなたと共にいる。」とか、16節17節の「海のなかに大路を設け、大いなる水の中に道をつくり、戦車および馬、軍勢および兵士を出てこさせ、これを倒して起きることができないようにし、絶え滅ぼして、灯心の消えうせるようにされる。」とあります。これらは、明らかに、イスラエルの民が、モーセに率いられて、紅海をわたった出来事を思い起こさせるものです。そのように、神は、一方では出エジプトの出来事をイスラエルの民に思い出させながら、もう一方ではそれを忘れなさい、思い起こしてはならない、といわれるのです。どうして、そのようなことをなさるのか。そもそも、出エジプトの出来事は、イスラエルの民が自分たちが神に選ばれた選びの民であるということを自覚させる、いわば民族的アイデンティティーにかかわるような重要な出来事です。ですから忘れようにも忘れられない出来事ですし、忘れてはならない出来事です。

けれども、その出エジプトの物語で、本当に忘れてはならないのは、奴隷であるイスラエルの民をあわれみ観救って下さった神の愛と恵みであって、どのようにして神がイスラエルの民を救って下さったのかという、方法ややり方ではないのです。ですから、神が繰り返し、出エジプトの物語を思い出させるようなことを御語りになられたのは、その出エジプトの物語の背後にある神の愛と恵みを思い起こさせ、その愛と恵みは今もあなた方と共にあるのだということを教えるためだったろうと思うのです。そして、逆に、神が「出エジプト」の出来事を忘れなさいといわれるのは、神がどのようにして、彼らをエジプトから脱出させたのかという救出の方法なのです。つまり、変わることのない神の愛と恵みは、かつて出エジプトの出来事が起ったときと同じように、今、あなたがたにも注がれおり、それゆえに、神はかつての出エジプトのときとは全く異なる新しい手段によってあなた方を救われるのだといわれるのです。そして、その新しいことが起ろうとしているというのです。起ろうとしているということは、まだ起っていないということです。

だとすれば、イスラエルの民がしなければならないことは、やがて起ろうとしている事を期待して待つこと以外にはありません。しかもそれは、彼らがかつて経験したことのない救いの御業なのです。当然、経験したこともない出来事なのですから、何が起るかはわかりません。わからないけれども、神は期待して待ちなさいというのです。そのような御言葉が、今年の新年の始まりのときに私たちに語られているのです。「見よ。わたしは新しい事をなす。やがてそれは起る。あなたがたはそれを知らないのか。わたしは荒野に道を設け、さばくに川を流れさせる。」昨年、教会設立50年を記念する記念誌を出そうということで準備を進めてまいりました。50年間の資料を整理したり、原稿を整えたりする作業が思ったより大変で、作業が半年近く遅れてしまって、皆さんも御迷惑をかけていますが、なんとかめどがつきそうで、この春には何とか、発行できるようにと考えています。その作業の中で、50年間教会がどんな事をしてきたのかという足跡をみますと、実に多くの事を行ってきています。それこそ、良くこれだけの事をやってきたなと感心するばかりです。もちろん、教会が行ってきたことですが、それらの事々をなさせて下さったのは神様であり、教会のすべての出来事は神の御業だといえます。

神様の愛と恵みがあったからこそ、教会はここまで歩んでくることができるのです。その教会の50年の歴史に私たちは感謝しつつも、そこに留まってはいけませんし、また私たちの教会はそこにとどまってはいません。ですから、私たちは、今までとは全く違う新しい事、新しい神のみ業が起こってくることを期待しなければならないのです。そして、それはやがて起ろうとしている。その新しい事が何か、それがいつ起るのか、それはわかりません。それはやがて起るとしかいえない。けれども、神がやがて起るといわれるなら、それは必ず起るのです。だからこそ、今日、私たちは、この新しい年の始めに、神がなして下さるであろう新しい事を期待し、待ち望むところの歩みの、第一歩を踏み出したいと思うのです。私たちの教会に、神が何か新しい事を起こして下さろうとしている。神は愛と恵みを私たちの今日機会に注ぎ続けて下さったお方ですから、けっしてそれは、私たちの教会にとって悪いことではないはずです。たとえ、その新しい事が起こるために、産みの苦しみといえるような事を経験する事があっても、それは産みの苦しみなのであって、その先には、喜びと祝福のときが来るのです。

同じように、教会だけではない、私たち教会につながる一人一人についても同じ事が言えるのではないかと思います。お一人お一人の上に新しい事が起ころうとしている。そしてそれはやがて起るのです。私たちは、その事を期待して待ち望まなければなりません。それは、私たちが期待する以上に、近いまさに「やがて」かもしれませんし、私たちが思っているよりも、ずっと先のことかもしれません。けれども、神が、私たちの人生に「わたしは新しい事をなす。やがてそれは起る。」といわれるならば、それは必ず起るのです。そして、神がそのような新しい事を、私たちの教会に、そのような新しい事を起こして下さるのは、また、私たち一人一人の人生に新しい事を起こして下さるのは、その事を通して私たちが神の誉を表すためです。神を信じて生きる生涯は、素晴らしいと、神を誉めたたえて生きるためです。

イザヤ書43章19節の後半部分は「あなたがたはそれを知らないのか。わたしは荒野に道を設け、さばくに川を流れさせる。」となっています。また20節には、「野の獣は、わたしをあがめ、山犬および、だちょうもわたしをあがめる。わたしが荒野に水をいだし、さばくに川を流れさせて、わたしの選んだ民に飲まさせるからだ。」とあります。砂漠は、いうまでもない道などないまさに、どこをどう歩けばよいかわからない途方にくれるような場所です。それだけでなく、水のない、まるで死の世界のようなところだといえます。荒野だって似たようなものです。そこに道を設け、水を出だし、川を流れさせるのです。それは砂漠の中や荒野の中に居て、道に迷い、乾ききっている者にとっては、最高の贈り物ですし、最高の喜びです。そのように、私たちが、どんなに厳しいつらい歩みをし、途方に暮れていたとしても、やがて起る神の新しい事は、私たちに大きな喜びと祝福を与え、心を潤してくれるものなのです。だからこそ、神を信じる者の人生は、また神を信じる者たちの群れの歩みはこんなに惨めなもの、こんなに悲惨なものなのかと言われる事がなく、むしろ、人々がそれを見て神を褒め称える事が出来るような新しい事を成してくださるのです。

その事を信じ、神の成してくださる新しい事を期待して歩み生き方の第一歩を、今日、皆さんと共に踏み出そうではありませんか。そして、多くの困難や苦しみの中を通ろうとも、必ず新しい事が起こるのだという事を信じて、神をあがめながら前進していきたいと思うのです。「見よ。わたしは新しい事をなす。やがてそれは起る。あなたがたはそれを知らないのか。わたしは荒野に道を設け、さばくに川を流れさせる。」このお言葉に立って、今年一年も神の前に共に礼拝し、互に祈りあい、支えあいながら、愛し合う群としての教会を築き上げていきましょう。

お祈りしましょう。