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メッセージ

羊飼い 『恐れを越えて』
マルコによる福音書16章1−8節
2008/1/6 説教者 濱和弘
賛美  18、275、363

さて、今日は、新年を迎えた2008年の最初の主日でありますが、その主日礼拝の最初の箇所が、イエス・キリスト様の復活の出来事が記されている、マルコによる福音書16章1節から8節の記事の出来事であります。その復活の出来事を記す16章の記事は「さて、安息日が終わったので、マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメとが、いってイエスに塗るために香料を買い求めた。そして、週の初めの日に、早朝、日の出のころ墓に行った。」という言葉で始まっています。ユダヤの一日というのは、夕方から始まり翌日の夕方までが一日です。そして、安息日とは通常土曜日ですから、金曜日の夕方から土曜日の夕方までが安息日と言うことになります。ですから、「安息日が終わって、マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメとが行ってイエスに塗るために香料を買い求めた。」ということは、おそらくは土曜日の夜の内に、イエス・キリスト様の体御遺体に塗るための香料を買い求めていたものと考えられます。この、遺体に香料を塗るというのは、当時のイスラエルの埋葬の習慣では一般的に行われていたことですが、ヨハネによる福音書によりますと、イエス・キリスト様のご遺体は、墓に埋葬される段階ですでに香油が塗られていました。そのご遺体に、更に香油を塗るということは異例のことです。

注解書などを見ますと、このように、マグダラのマリヤをはじめとして、イエス・キリスト様に従った女たちが、既に香油が塗られ、亜麻布に包まれた埋葬されたイエス・キリスト様のご遺体に油を塗るといった、通常ではあまりなされない行為をしようとしたのは、彼女たちのイエス・キリスト様に対する愛情の表われであったのだろうと解説されています。いずれにしても、マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメとが香油を塗りに墓に行こうとしたというのは、彼女たちがイエス・キリスト様が完全に死んだと考えていたと言うことを示しています。もちろん、実際にイエス・キリスト様は確かに死なれたのですが、しかし、イエス・キリスト様が十字架につけられ、埋葬されるまでの時間はあまりのも短い時間の中で行われました。通常、十字架刑というのは、長い時間をかけて死に至らせる処刑方法で、場合によっては数日かかって死んでいくと言うこともしばしばあったようです。ところが、イエス・キリスト様の十字架に架けられたのが朝の9時で、息を引き取られたのが午後の3時頃ですから、だいたい6時間ぐらいでなくなっています。

それは、通常ではあまり考えられない早さだったのです。だからこそ、アリマタヤのヨセフがイエス・キリスト様の遺体を引き取りたいと願いでたとき、マルコの福音書15章44節にありますように、ローマ総督ピラトは、イエス・キリスト様がそんなに早く死んでしまったのかと不思議に思い、ローマの兵隊の百卒長に、本当に死んだかどうかを確かめさせたのです。このように、ピラトが驚いたほど、イエス・キリスト様は十字架の上でなくなりましたので、人によっては、イエス・キリスト様は十字架の上で死んだのではなく、仮死状態になり、その仮死状態のまま十字架から降ろされ、後に蘇生して逃げたのだという人さえいるのです。もちろん、このマルコによる福音書が書かれた時代に、そのような説がすでに流布していたかどうかは定かではありません。しかし、今日でもキリストの復活を否定する人たちの中には、このようなイエス・キリスト様の仮死説を主張する人もおられるようですし、実際イエス・キリスト様の十字架の死と復活を合理的に説明するとするならば、それがもっとも説得力がある説の一つであると言えるでしょう。

ですから、マルコの時代にそのような仮死状態であったという主張があたったとしてもおかしくはありません。だとすれば、この、マルコによる福音書の15章42節からこの16章1節は、イエス・キリスト様は、決して仮死状態などでなく、本当に死んで葬られたのだと言うことを、読者に確認させる役割を持っていると言えます。いえ、マルコによる福音書の著者自身にそのような仮死節を論駁しようとする意図がなかったとしても、結果として、このマルコによる福音書の15章42節から、先ほど司式者にお読み頂いた16章1節の言葉は、本当にイエス・キリスト様は死んで葬られたのだということを主張していることにかわりはありません。そのように、イエス・キリスト様が本当に、しかも完全に死んで葬られたと主張することで、マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメとが、日曜日の朝、日の出の頃にイエス・キリスト様の墓で目撃した出来事は、「本当にイエス・キリスト様は死からよみがえった出来事だったのだ」と主張しているのです。このキリストの復活は、本来は喜びの出来事です。なぜなら、復活は死からの勝利だからです。ですから、教会の三大祝日の一つにイースター復活祭があるのです。日本では、キリストの御降誕を祝うクリスマスばかりが取上げられますが、クリスマスと同じように、いやそれ以上にイースターは教会にとって大切な日なのです。

第一、こうして日曜日を主日として礼拝を守っているその理由の一つに、この復活の出来事があげられているからです。さきほど、本来の安息日は土曜日であると申し上げました。ですから、ユダヤ教においては、聖なる日は土曜日であり、土曜日に礼拝をささげます。しかし、キリスト教会は、その聖なる日を土曜日から日曜日に移し、日曜日に礼拝を守るのです。実際、私達、日本ホーリネス教団も、またその日本ホーリネス教団に属する私達の教会も聖日厳守と言うことを大切にしてきました。この場合の聖日厳守とは、日曜日を聖なる日として神に捧げ、教会で教戒しまいと共に礼拝を捧げると言うことです。このように、神を礼拝するために日を聖別する時を土曜日から日曜日に移した理由は、様々な社会的要因もありましたが、その神学的理由は、イエス・キリスト様の復活を記念してのことでした。それは、復活が私達の罪に対する裁きである死に対する勝利であると同時に、死からの復活、再生は神の新しい創造の業だからです。

土曜日の安息日は、旧約聖書創世記2章1節から4節を見ますと、神の創造の完成として土曜日を安息日として定められた事がわかります。そこには、こう記されています。「こうして、天と地と、その万象が完成した。神は第7日にその作業を終えられた。すなわち、そのすべての作業を終わって、7日目に休まれた。神はその第7日目を祝福して、これを聖別された。神がこの日に、そのすべての想像の業を終わって休まれたからである。これが天地創造の由来である。」このように、安息日は、天地創造の業が完成した事を覚えて特別な日、聖なる日として定められているわけです。それに対して、イエス・キリスト様の復活は、滅び行く運命にある罪人が、新しく神の子として産み出された、罪人であったのが再出発した、生まれ変わるということを示している出来事なのです。だから、イエス・キリスト様を信じクリスチャンとなった者は、みんな神様によって、もはやかつての罪人ではなく神の子として、かつての死によって失われていく肉の命によって滅び行く者ではなく、神の命である永遠の命を持って天国で生きる者として再創造されたものなのです。

そのことを覚え、記念し、感謝するために、同じように神の再創造の業にあずかった兄弟姉妹たちや、その再創造の恵みに招かれている人々と共に、神に礼拝を捧げる聖なる日を土曜日から日曜日に移したのです。それほど、イエス・キリスト様の復活の出来事は、私たちクリスチャンにとっては重要な日ですし、喜ばしい勝利の日なのです。ところが、その喜ばしい勝利の日である復活の出来事に最初に出会した人々にとって、それは恐ろしい出来事であったと言うのです。マルコによる福音書16章8節です。そこには、イエス・キリスト様のご遺体に香油を塗ろうとして墓に行った女たちが、すでに空っぽになった墓を見つけ、その墓の中で、真っ白な衣を着た青年に、イエス・キリスト様が蘇られたことを告げられ「ガリラヤに生きなさい」と命じられた後、恐れをなして逃げ出したと記されています。そして、彼女たちは、「人には何も言わなかった。恐ろしかったからである。」とそう記してあるのです。

最初に申しましたように、すでに死者のために塗る香油を塗り、亜麻布にくるまれて葬られたイエス・キリスト様に、死後3日目に、女たちがもう一度香油を塗ろうとして墓に行く行為は、通常ではあり得ないことでした。その通常ではない行為を、女たちがしようとしたのが、イエス・キリスト様への強い愛情の故であるとするならば、イエス・キリスト様の復活は、喜びの出来事のはずです。しかし、実際にイエス・キリスト様の空っぽの墓を見せられ、復活を告げ知らされた女たちは、喜ぶのではなく、恐れたというのです。この恐れ(φοβεω)と言う言葉は、恐怖心であると同時に、神に対する畏敬の念を現す意味での恐れというものを含む言葉であり、そこにはまだ見たこともないような偉大なる存在に触れた時の敬虔なる驚きと恐れを含んだ言葉でもあります。

私が尊敬する宗教哲学者であるバブらハム・ヘッシェルという人は、人はかつて経験したこともないような出来事、たとえば自然の壮大さのような出来事に出会うと、言葉を失い、ただ驚きの感情しか表せないと言います。つまり、人はかつてない出来事、未だ見聞きしたことのないような新しい出来事、事態に出くわしたときに驚きを感じ、その背後に畏敬の念を感じるのだというのです。この畏敬の念も、その驚きが大きいければ大きいほど、その恐れの部分も大きなものになります。つまり、それは恐怖に近いものとなります。それは、自分が知らない世界、触れた事のない出来事に触れるからです。確かに、私たちは自分の知らない世界の中に飛び込んでいくとき、不安を感じ、恐れを感じるものです。これから何が起るかわからない。どんなことが始まるかわからない。どんな状況が起ってくるかわからない。武者震いをするというのはそんな時かもしれません。あるいは、新しいこと、まだ知らないことは、不安をかきたて恐れを伴うからこそ、何か新しいこと、革新的なことを始めようとするときに、必ず保守的な人たちが出てきて、その新しいこと革新的なことに反対するのも、あるいはそのような人間の心理状態の表われなのかもしれないと言うことができるでしょう。

そのように、私たち人間は、何か新しいこと、新しい状態、新しい試み、また新しい導きと言った、「新しい」ということに、期待を感じつつも、漠然とした恐れを感じるものなのです。今年の元旦に、私は、一年の冒頭としてイザヤ書43章19節の御言葉をもって説教をいたしました。それは、私達の教会を、神様がこのイザヤ書43章19節の御言葉をもって導いてくださるということであり、その出発を私達はするのだということです。そのイザヤ書43章19節の御言葉は、次のようなものでした。「見よ、新しい事をなす。やがてそれは起る。あなたがたはそれを知らないのか。わたしは荒野に道を設け、さばくに川を流れさせる。」ここに記されていることは、神様が、私たちの教会に新しい事を起してくださる、新しい導きによって教会を導いて下さると言うことです。そして、それがやがて起ると約束するのですから、それは確実に起ってきます。

私は、私たちの教会に神様がなして下さる「新しいこと」が何であるかを考えるとき、それがなんであるかはわかりませんが、やはり漠然とした期待と同時に漠然として恐れも感じます。神様がなさることであるならば、きっと教会にとって益となるものであろうという点においては大いに期待しています。しかし、それがどんなものであり、どのようにして成し遂げられるかということがわかりませんから、いったい、私はそのことに出会したとき、どうしたらいいのだろうか、冷静に受け止めることができるのだろうか心配なのです。いえ、私だけの問題ではない。教会もまた、神の新しい導きや御業に触れたとき、それが今まで教会が経験したことのない新しいものであったときに、それが神のなされる新しい御業であるとして受け止められるのだろうかということも気にかかります。それは、新しい出来事、新しい事態に、驚き怪しみ、我を忘れてしまうのではないか。そして、神様に対し、「これはいったい何事なのですか。どうしてこのようなことが起るのですか」「と恐れ、つぶやくのではないだろうかといった心配なのです。そして、それこそが、まさのイエス・キリスト様の復活の出来事に接した、マグダラのマリヤやヤコブの母マリヤ、あるいはサロメが取った態度と同じ性質のものなのです。

前田護郎という新約学者がいますが、この人は東大の教養学部で教えられておられ、私どもの教団の藤巻充先生などが指導を受けた先生です。その前田護郎氏が新約聖書を個人として訳しておられますが、このマルコによる福音書16章8節の、「女たちはおののき恐れながら、墓から出て逃げ去った」という部分を、「彼女らは、ふるえて我を失っていたので、墓から逃げ去った」と訳しています。イエス・キリスト様の復活という新しい事態、予想もしていなかった空っぽの墓という現実を見て、考えても見なかった御使いの言葉を聞いて、彼女らは、全く自分の知らないこと、考えの及ばないことが始まっていることを知って、自分自信を見失ってしまったのです。先ほど申し上げましたような、自分が知らない世界、触れた事のない出来事に触れる事によって引き起こされる敬虔な恐れや不安は、そのように聖なるものの前に立ったときに感じる自分自身を見失う、我を失う恐れであると言うことができるのかもしれません。いや確かにそうなのでしょう。

全く予想していない自体、自分の考えが及ばない事態になったとき、私たちは自分を見失い、どうしたらよいのか、どう振る舞ったらいいのかわからずにパニック状態になってしまいます。まさに、そのような状況に、マグダラのマリヤもヤコブの母マリヤもサロメも陥ってしまった。それが、このマルコによる福音書16章にある恐れなのです。そして、私たちの教会に、神様が「見よ、新しい事をなす。やがてそれは起る。あなたがたはそれを知らないのか。わたしは荒野に道を設け、さばくに川を流れさせる。」と言われるような出来事を起されるとするならば、私達もまたそうなりかねないのです。けれども、私たちはその恐れを超えていかなければなりません。なぜなら、神によってなされた新しい事態は、たとえ、それに遭遇した当初には、我を失うほどの恐れと混乱を引き起こしても、それは必ず喜びと祝福をもたらす新しいものを産み出すからです。

イエス・キリスト様の復活の出来事は、後の教会の人々に、罪の裁きである死に対する勝利を確信させ、私たちが、神によって、神の命という新しい命を与えられた者へと再創造されたと言うことを確信させました。その喜びが、その新しい再創造の業を覚え、記念し、感謝する為に、土曜日だった安息日を、新たに日曜日を聖日、あるいは主イエス・キリストの日である主日として、礼拝を捧げるという新しい歩みを歩ませ始めたのです。その歴史の出来事を知る私たちは、私たちの教会に新しい事態や、新しい出来事が起ってきたとしても、性根を据えて、その出来事を受け止めていきたいと思います。たとえ、その出来事が、私たちの全く予想していなかったような事態であり、出来事であり、それゆえに不安や恐れることがあったとしてもです。それが、神様が私たちになして下さる新しい事であるならば、それは必ず、喜びの出来事、祝福の出来事となって行くからです。この新しい事態に出くわした者の恐れを語るこのマルコによる福音書16章の記述は、思っても見ない出来事に出くわしたものたちに、この女たちの恐れを語ることによって、恐れなくても良いと語っているのだろうと思います。

特に、マルコによる福音書が書かれた意図と言うことを考えたときに、恐れるなというメッセージはより一層私たちに強く語りかけてきます。と申しますのも、このマルコによる福音書は、イエス・キリスト様の受難の物語に重点を置き、実に多くの部分を裂いているからです。それは、このマルコによる福音書の著者が、イエス・キリスト様もまた私たちと同様に、苦難や苦しみ、試みに合われたのだと言うことを伝えるためであったろうと考えられます。つまり、苦難や試練、具体的には、あちらこちらで起こり始めたユダヤ人たちからの迫害、あるいはローマ帝国からの迫害にあって苦しんでいる人たちに、主も同じ苦しみに会われたのだということを示し、励ます意図があったと考えられるのです。もちろん、だれでも試みに会おう、辛い思いをしようとして信仰の道にはいる人はいません。神様から罪赦されて、祝福を得たい、恵みを得たいと願い、それを期待して信仰の道を求めてきます。ところが、そのような期待や願いと全く逆の考えてもいなかった迫害という新しい事態が展開して来るのです。

そのような新しい事態、新しい状況の中にいるクリスチャンたちに対して、マルコによる福音書の著者は、この女たちの恐れを語ることによって、恐れなくても良いと語っているのです。おそらく、私たちの教会に、神様が「見よ、新しい事をなす。やがてそれは起る。あなたがたはそれを知らないのか。わたしは荒野に道を設け、さばくに川を流れさせる。」と語っておられるのですから、私たちの教会が向き合う、新しい事、新しい事態、状況といったものは、マルコの福音書の著者が考えていた読者たちが経験していた迫害といったような厳しい状況ではないだろうと思います。けれども、そのような厳しい迫害の状況にある者に対してですら、「恐れなくても良いのだよ」というのですから、なおさら、私たちは、新しい事態、新しい状況が起ろうと恐れることはないのです。いえ、仮に恐れが起ってきても、私たちはその恐れを越えて進んで聞かなければなりませんし、進んでいくことができるのです。

イエス・キリスト様の復活の出来事、性格には、復活され墓が空っぽになっていたと言う事態にでくわした女たちは、その時は恐ろしくて、逃げだし、人には何も言えませんでした。けれども、逃げ出しっぱなしではなかったのです。また、人に何も言えないままでもありませんでした。その出来事は、後に語られ、人に伝えられ、そしてこうして聖書に書きとどめられ、初代教会が、土曜日の安息日の礼拝を、日曜日の主日礼拝に移していくという事態を引き起こしていったのです。そのように、それが神によってなされた新しい出来事であるならば、必ずそれは祝福の基となって広がっていくのです。そのことを、私たちは心に受け止めながら、今年、神が私たちの教会に与えて下さった「見よ、新しい事をなす。やがてそれは起る。あなたがたはそれを知らないのか。わたしは荒野に道を設け、さばくに川を流れさせる。」と言う言葉をしっかりと心に留めて、恐れることなく、また恐れを乗り越えて、歩んでいきたいと思います。

お祈りしましょう。