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メッセージ

羊飼い 『豊かな人間像』
コリント人への第一の手紙1章1−3節
2008/1/20 説教者 濱和弘
賛美  2、233、429

さて、先週でマルコによる福音書からの連続説教が終わりました。そこで、今週から新しい箇所から毎週の礼拝説教をお取り次ぎするわけですが、その新しい箇所とは、今、司式の兄弟にお読み頂いたコリント人への第一の手紙と、それに続くコリント人への第二の手紙からです。コリント人への手紙というのは、今お読み頂きました(コリント人への第一の手紙1章)2節にありますように、コリントという町にある教会の人々宛に書かれた手紙です。コリントという町はギリシャ本土とペロポネス半島をつなぐ交通の重要な拠点にある町です。このような交通の重要な拠点というのは、当然な事ながら、交易が行われ、商業が盛んになります。ですから町自体は反映した裕福な町であったといえます。このコリント人への手紙が書かれた古代ローマの時代は、政治の中心はローマでしたが、文化の中心はギリシャにありました。ですから、ギリシャにほど近いコリントもまたギリシャ文化の影響の下にあったと言えます。そのようなわけで、このコリントの町の守護神はギリシャの女神アフロディーテであり、コリントの町の南側にある山の山頂には、そのアフロディーテの神殿がありました。

このアフロディーテは愛と美と性を司る女神であって、そのせいでしょうか、コリントにあるアフロディーテの神殿には千人もわたる神殿娼婦がいたと言われます。町は交易で商業が盛んになりゆたかである。そして、町の守護神が祭られている神殿には千人もの神殿娼婦がいる。そうなると、当然のこととして、その町の倫理的な側面、道徳的な側面は乱れてきます。コリントの町も、ご多分にはもれなかったようです。ですから、当時「コリント人のように振る舞う」といいますと、それは不品行な行ないや不道徳な行ないをすると言うことを意味していたようです。しかも、コリントのような交易の盛んな町は、様々な人種の人々がそこにやってきます。実際、コリントの町の発掘がなされるようになり、コリントの町にはエジプトの神々やシリヤの神々、あるいはフルギヤの神の神殿などもあったことがわかってきました。ですから、コリントという町は、道徳的に乱れた町であったと同時に、様々な人種の人々が入り交じり、様々な宗教が入り交じりながら存在していた町であったと言えます。そのコリントの町にも、福音は伝えられ、教会が建てられていたのです。

イエス・キリスト様がパレスティナの地で宣教を始められたその地から、福音は遠く離れたギリシャの地、コリントの町まで伝えられていた。それは、福音を伝えた人がいるからです。逆に言えば、福音を携えてやって来て伝える人がいなかったならば、コリントの町に教会は建たなかったのです。そういった意味からも、福音を伝える伝道すると言うことは大切なことだと言えます。そして、コリントの町には、その福音を携えて来て福音を伝える人がいた。それがこの手紙の著者であるパウロでした。使徒行伝をみますと、パウロはアンティオケにあった教会の人々に送り出されて、3度にわたって、小アジア半島からギリシャ・マケドニア地方への大伝道旅行をしたことがわかります。その第2回の伝道旅行の時にコリントの町に行き、イエス・キリスト様の事を語り、福音を伝えたようです。そのあたりのことは使徒行伝の18章に記されていますので、後でお読み頂ければよろしいかと思います。

いずれにしましても、パウロはコリントの教会で伝道をし、そして教会を建てあげたのです。しかし、パウロは色々な町を行きめぐって伝道する巡回伝道者です。ですから、一箇所に留まって伝道する定住伝道者とは違って、いつまでもコリントの町にいるわけにはいきません。そんなわけで、パウロがコリントの町に留まっていたのは1年6ヶ月ほどでしたが、しかしその1年6ヶ月で、ともかくパウロは福音を伝え、クリスチャンになる人々を起し、教会を建てあげたのです。そのパウロによって建てあげられたコリントの教会は、パウロが去った後にアポロといった優れた指導者を迎え、そして発展していったようであります。そのコリントの教会に創設者のパウロが手紙を書いた。その手紙がこのコリント人への手紙なのです。手紙というものは、当然の事ながら伝えたい具体的な内容を持っています。もちろん、パウロがこのコリント人への第一の手紙を書いたのも、教会の創設者でありパウロから、コリントの教会の人々に対して伝えたいこと、語りたいことがあったからです。

その伝えたいこと、語りたいことが何であったかと言うことは、これから、毎週の礼拝説教を通して、学んでいくことですが、しかし、まぁそれは、決して良いことではありませんでした。というのも、コリントの教会には、幾つかの問題が起っていたからです。パウロは、それらの問題に対して、その問題を取上げ、何とか解決の方向に持っていこうとしてこの手紙を書いたのです。そのような意図のもとで書かれたこのコリント人への第一手紙において、先ほど司式の兄弟にお読み頂いた箇所は、パウロが本題に入る前に、述べられてコリントの教会の人々に対する挨拶の一部です。もちろん、手紙の本題に入る前に挨拶の言葉述べられるということは、別段珍しいことではありません。しかし、だからといって、その挨拶の言葉から、私たちは学ぶことなど何もないというわけではありません。特に、このコリント人への第一の手紙の挨拶文は、これから難しい問題について語っていかなければならない状況の中で書かれています。それ故に、その挨拶には、私たちクリスチャンが問題にぶつかったときに心がけなければならない大切なことが含まれているように思われるのです。

ですから、その「問題に直面したときに心がけなければならないか」ということを、今日の聖書の箇所から学んでいきたいと思います。私たちもまた、問題にぶつかったときに、クリスチャンらしく、その問題に向き合っていきたいと思うからです。なぜなら、私たちは、たとえクリスチャンであったとしても多くの問題や試練に会うからです。そして、そこで悩み、苦しみ、心を痛めます。その時に、私たちが、私たちが直面する問題を解決するために、何を心がけなければならないかを知っているならば、それは、私たちの大きな手助けになります。だからこそ、私たちはあらかじめ、私たちはどうあるべきか、あるいはどのように考えるべきかを知っておくことは大切なことなのです。そのような思いの中で、コリント人への第一の手紙にあるパウロの挨拶の言葉を見て参りますが、パウロは、まずコリントの人々に、「神の御旨により召されてキリスト・イエスの使徒となったパウロと、兄弟ソテネスから、コリントにある神の教会、すなわち、わたしたちの主イエス・キリストの御名を至るところで呼び求めているすべての人々と共に、キリスト・イエスにあってきよめられ、聖徒として召されたかたがたへ。このキリストは、私たちの主であり、また彼らの主である」と呼びかけています。

呼びかけているのはパウロであり、ソテネスです。もちろん、実際にはパウロが一人がこの手紙を書いたのですが、しかしソネテスと言う人も、そこに名前が添えられるのです。このソネテスは、使徒行伝18章17節に出てくる会堂司のソネテスであろうと思われます。ですから彼もまた、このコリント教会が築き上げられていく最初の時に、パウロと共に働いた一人であると言えます。パウロは、そのソネテスの名前を手紙の共同発信人として加えることによって、コリントの教会の人たちの事を、思い心配している人は、私だけではない他にもまだいるのだということを示しているのだろうと思われます。また、彼の名前が挙げられる事で、そのような印象を読む人に与えます。この、あなた方を思っている人がいるということは、あなた方は一人ではないと言うことです。それは、さらに2節の「コリントにある神の教会、すなわち、わたしたちの主イエス・キリストの御名を至るところで呼び求めているすべての人々と共に、キリスト・イエスにあってきよめられ、聖徒として召されたかたがたへ。このキリストは、私たちの主であり、また彼らの主である」という言葉で、一層強調されます。コリントの教会に繋がる人々は、全世界の至るところで神を信じ、イエス・キリスト様の御名を呼び求めているクリスチャンたちと一つに結びあわされているのだというのです。

そもそも、「イエス・キリストにあってきよめられ」ということは、一面で罪や汚れがイエス・キリスト様によって洗い清められたということを意味します。しかし同時に、洗い清められたからこそ、あなたがたは神に属するものになったのだという事でもあるのです。そのように、あなたがたは神に属するものになった。だからこそ、同じように神に属するものとなった全世界にあるすべてのキリスト教会、そしてそこに集う全世界のクリスチャンと共に、神を信じる者の群によって構成される信仰共同体の一員として一つに結ばれている。だから、あなたがたは一人ではない。あなたがたの教会は、孤立無援でもない。あなた方には多くの仲間がいるのだというのです。この一人ではないということは、とても大切なことです。教会ではクリスチャンのことを兄弟姉妹とそう呼び交わします。それは、全世界にあるすべてのキリスト教会、そしてそこにつどうクリスチャンによって築き上げられている信仰共同体は、一つのファミリーとして言い表すことができるものだからです。ひとつの神、一人のイエス・キリスト様によって神の命である永遠の命を分け与えられた、まさに神の家族なのです。

だからこそ、私たちは一人ではありませんし、私たちの教会も、孤立してぽつんとおかれているわけでもありません。私たちが、神を信じ、イエス・キリスト様を信じてその御名を呼び求めている限り、私たちは、世界中の教会やクリスチャンと一つに結びあわされているのです。そして、そのように世界中の教会やクリスチャンたちと一つに結びあわされている限り、私たちの事を心配し、私たちのことを祈ってくれる人がいるのです。たとえば、このコリントの教会のことを考えてみても、コリントの教会のことを思い、心配している人はパウロ一人ではない、ソネテスもパウロと共に心配し、コリントの教会のことを思いやっているのです。当然、パウロもソネテスもコリントの教会に何か問題が起ったならば、コリントの教会のために熱心にお祈りをしただろうと思います。教会は、また神を信じるものは、そのような神の家族の愛の中に置かれるのです。

先日も、私の親友でもあり、牧師としての同労者でもあるS牧師が訪ねてくれました。S牧師は、宣教師として働いていますが、奥様のお父様が亡くなられて、急遽帰国なさられ、それで訪ねて来て下さったのです。それで一晩お泊まりいただき、色々なことを話しました。その話のなかで、共に聖書学院で学んだ仲間の思い出話や、今の現況なども、話の中にいろいろと出てきました。あいつは、今どうしている。あの人はどうなった。彼は今こんな状態にある。それこそ、一人一人の名前を挙げながら、かつての同級生や先輩、後輩のことについて思いはせたのです。同じ聖書学院の同級生といえども、教団も違えば、住んでいるところも違います。それこそブラジルやアメリカにいる人もいる。中には、消息がわからなくなった者だっているのです。そういった一人一人の名前を挙げ、心配したり、感謝したりする。それは、仲間だからです。同じ聖書学院で学んだからと行っても、一緒に学んだ時間は長くて3年、先輩や後輩となると1年、へたをすると一緒学んだことなどない人もそこに含まれています。けれども、その名前が挙げられると、その人の近況に応じて、心配し、喜び、感謝するのです。

主イエス・キリストにあって仲間、神の家族だからこそ、心配もするし、喜びもする。同じように、同じ主、イエス・キリスト様にある仲間であるならば、その仲間が問題にあるならば、それを耳にしたら、その仲間のことを放ってはおくことはできないのです。そのS牧師との話の中で、ブラジルにおられるT姉の事が出ました。ご存知かと思われますが、T姉はS兄弟の妹さんで、この三鷹キリスト教会のご出身で、結婚してブラジルに移民として渡ってもう45年になるそうです。しかし、その45年間の間だ、一度も日本に帰国されたことはないそうです。そのT姉が、今はご高齢にもなられ、一番近くの教会でも250kmも離れており、車でも5時間以上かかるため教会に行くこともできない。そして、その250km離れた教会の牧師も、年に一回訪問できるかどうかという状況だというのです。ですから、日本語による聖書からの説教を聞くこともできない。他のクリスチャンの兄弟姉妹と交わりを持つこともできない。そういった状況がもうずっと長く続いているといいます。けれども、普段の生活の中では、聖歌を口ずさみ、日曜日には、息子さんたちと一緒に賛美をし、聖書を読み、一緒に祈っているというのです。

私は、その話を聞いたとき、T姉を放ってはおけない気がしました。何年も何年も日本語で説教を聞くことができないでいる人が地球の裏側にいる。そのことを聞いたならば、放ってはおけない衝動が心に起ってきたのです。しかも、それが私たち三鷹キリスト教会の出身の姉妹だという。しかし、この三鷹キリスト教会の出身だといっても、45年前に移民し、それ以来日本に帰ったことがないのですから、当然、私はT姉とお会いしたこともなければ、お話しをしたこともない。全く知らない方です。けれども、その方が置かれている状況、その方の問題を知ったならば、放ってはおけないのです。そして、ふと、教会に残っている加藤先生の説教テープを送ってあげられればと言う思いが起ったのです。それも、1本や2本ということではなく、できるだけたくさん。それこそ、段ボール箱一杯に詰めて、「私たちはあなたのことを思っていますよ」と言うメッセージを添えて送ってあげたいとそう思ったのです。

T姉は、遠いブラジルで一人でいらっしゃる。もちろん、家族はいらっしゃいますが、教会に行くことはできませんから、クリスチャンの交わりと言うことでは家族だけという状況です。でも決して彼女は一人ではない。T姉の主であるイエス・キリスト様は、私たちの主でもある。共にイエス・キリスト様の御名を呼び求め、賛美している者が、それが地球の裏側であっても思いを馳せ、心配し、支えになってあげたいと思う。それが主イエス・キリスト様にある者の交わりなのです。そして、私たちはそのような主イエス・キリストにある豊かな交わりの中に置かれている。だから、私たちは、どんなに大きな問題にぶつかって試練の中にあっても、苦しみや苦悩の中にあっても決して一人ではないのです。私たちは、主イエス・キリスト様にあるこの豊かな交わりの中にあり、主イエス・キリスト様を信じる仲間の中に置かれている。そのことを知り、心にしっかりと留めていなければなりません。孤独ではない、むしろイエス・キリスト様にある豊かな交わりの中に置かれ、祈り支えられているのです。

そして、そのような主イエス・キリスト様を信じる者の豊かな交わりの中に迎え入れられた私たち一人一人は、キリスト・イエスにあってきよめられ、聖徒として召されていると一人一人です。もちろん、その一人一人によって構成される教会も聖徒として召されていることです。聖徒と言う言葉は、正直、私には縁遠い言葉のように思えて仕方がありません。と申しますのも、聖徒というと、それこそ車田秋次先生や、笹尾鉄三郎先生、バックストン宣教師というような、高潔で人格者と呼ばれるような人を想像してしまうからです。確かにこういった方々は、聖徒と呼ばれるのにふさわしい方です。しかし、自分はどうかというと、あまりに欠点が多く、粗野で、とても聖徒というイメージとはかけ離れている。ですから、罪赦された罪人ではありますが、聖徒と呼ばれるような者ではない。むしろ、蛮人と呼ばれる方がふさわしいと思われるのです。

ですから、実際にこのコリント人第一の手紙で、あなたがたコリントの教会は、神から聖徒として召されて方々の集まりなのですとパウロから言われて、その言葉を聞いたコリントの教会の人たちが、そのパウロの言葉を、どのように受け止めたのだろうかと思わずにはいられません。なにせ、このコリント人への第一の手紙は、信仰上の問題を抱えた教会に書かれた手紙ですから、その教会に集う一人一人が問題の当事者であり、自分たち自身が問題に向き合わされているのです。そして、確かに、このコリント人への第一の手紙を読み進んでいきますと、そこに現れてくるコリントの教会の人々の姿も、これまた聖徒と言う言葉の持つイメージからは遠く離れています。そのコリントの教会の人たちが、このようにパウロから「あなたがたコリントの教会は、神から聖徒として召されて方々の集まりなのです」と言われて、いったいその言葉をどのように受け止めたのか?

とても聖徒と呼ばれるにふさわしい者ではないと感じるかもしれませんし、皮肉かお世辞、あるいは外交辞令的あいさつと受け取ったかもしれません。事実、私も、何度もこのコリント人への手紙を読んでいますが、この箇所はずっとパウロの外交辞令的挨拶だとそう思っていました。そのように思って読んでいた背景には、「人間、そうそう聖徒と呼ばれるような人間はいない。」という思いがあったからです。そして自分自身も、自分自身の問題点を知っているつもりですから、とても聖徒として召されているなど、自分自身に対して言えないと思っているのです。しかし、これはある意味、自己意識が低いと言うこと意味しています。もちろん、「おれは聖徒だ」といって胸を張られて闊歩されるのもどうかと思いますが、「私はダメなんです。」と言う自己意識が低いのも問題です。なぜなら、自己意識の低さは、自分自身の中にある価値や可能性までも低く捕えてしまうからです。ましてや、私たち西方教会の伝統にある教会、そのなかでもプロテスタントの教会は、「私たち人間は、神の前にみんな罪人だ」という「罪人としての人間」の側面を強調しがちです。

私たちは罪人で、神の前に良いことなど何一つできない者だから、イエス・キリスト様の十字架によって救って頂かなければならないし、イエス・キリスト様の十字架が罪を赦し救って下さるのだというのです。このような人間の見方は、人間は神の前に罪人で全く堕落しただめな存在だというマイナスの所から人間を見ています。しかし、確かに私たちは神に救って頂かなければ自らを救うことなどできない存在なのですが、その私たちを、神が救って下さるのは、神が私たちを愛して下さっているからなのです。そして、神がそのように私たちを愛して救って下さるといことは、神が私たちを愛するにふさわしい素晴らしい存在としての価値を見出してくださっているということを意味します。たとえ自分自身が自分の事をどう思おうと、また現実の姿はどうであろうとも、神が私たちに価値を認めて下さっているのです。だから、たとえ私たちの自己意識がどんなに低いものであったとしても、神が私たちを教会へと召して下さったとするならば、私たちは、神の御前に聖徒なのです。そしてそのように、私たちを愛し、私たちに価値を見出して下っているからこそ、神は私たちの中に豊かな可能性を与えて下さるのです。

そしてその可能性の豊かさは、私たちが思うに優る豊かさです。というのも、神を信じる者には、イエス・キリスト様が私たちの主となって下さっているからです。このイエス・キリスト様が私の主であるということは、私たちはイエス・キリスト様と一つにされていると言うことを意味しています。エペソ人への手紙5章21節から33節までは、夫婦に関する教えが書かれていますが、そこに置いて書かれているのは、夫婦は一つに結びあわされた存在だと言うことです。この一つにむすばれた一体の存在であるということが、実はキリストと教会の関係をあらわす秘儀なのだ言うのです。この秘儀が示していることは、キリストと教会徒の一体化、つまり教会に召し出された一人一人は、キリストと一体となっているということです。ですから、私という一人の存在は、欠陥だらけで何もできない者なのかもしれませんが、私たちと一つに結び合わされているイエス・キリスト様によって、私たちには限りない可能性があるのです。つまり、この私たちと一つに結ばれているイエス・キリスト様の可能性が私たちの可能性となっているのです。

いうなれば、私たちクリスチャンがもつ可能性とは、イエス・キリスト様の可能性なのです。だからそれは豊かな可能性なのです。私たちは、そのことを知り、心に留めなければなりません。そして、クリスチャンというものは、そのような豊かな交わりと豊かな可能性を与えられている者だからこそ、問題に向き合うことができるのです。そこに立ってパウロは、大きな問題を抱え込んだコリントの教会の人々に対して手紙を書き、彼らを導こうとしている。そのことをコリントの人々と同じように、イエス・キリスト様を自分の主と崇める私たちは心に留めておかなければなりません。

お祈りしましょう。