『神の与えた豊かな贈り物』
コリント人への第一の手紙1章3−9節
2008/1/27 説教者 濱和弘
賛美 359、316、392
さて、今日の礼拝説教の聖書の箇所であるコリント人への第一の手紙1章3節〜9節は、先週の礼拝でお話ししましたところの1章1節2節に引き続く、コリントにある教会に対するパウロの挨拶が述べられている箇所です。そこにおいてパウロは、1節2節において、あなたがたは全世界にある神の教会に結び付けられた神の教会であり、そこに集うあなたがたも、神に召し出され、きよめられた聖徒の一人であると言うことを述べています。そして、そう述べた後に、「わたしたちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたにあるように」と、コリントの人たちに神の恵みと平安とがあるようにと祈っているのです。この祈りの言葉の背後には、パウロのコリントの人々を思い、祈り支える気持ちがあるように思われます。もっとも、この「わたしたちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたにあるように」と言う言葉は、パウロの手紙に必ずと言っていいほど見られる常套句のようなものです。しかし、先週もお話し致しましたように、問題を抱え混乱していたコリントの教会の人々にとって、この常套句ともいえるような祈りの言葉は、それが常套句である以上に、その言葉の背後に「大丈夫だ、神は必ず、あなたがたに恵みと平安を下さるから安心していなさい。」というパウロのメッセージを感じ取ったのではないかと思われ卯からです。
そこで、ちょっと想像力を働かせます。聖書を読むときに想像力を働かせることは聖書を理解する大きな助けになりますので、ここでもその想像力を働かせますが、一般にパウロの手紙は、特定の人たちに書かれたと言うよりもは、むしろ手紙を送った先で、その手紙が回覧されるなり、あるいは朗読され多くの人に手紙に記されたメッセージが伝わるようにと意図されていると言われます。ですから、このコリント人への手紙第一の手紙もそのように、多くの人に読まれることを願って書かれているのです。おそらく、この手紙の内容から考えると、このコリント人への第一の手紙は、教会の人たちによって回覧され個別に読まれたと言うよりは、集会に集まった人たちの前で読まれ、みんなに読み聞かせられたのではないかと思われます。問題を抱えている教会です。その問題を抱えている教会にパウロから手紙が届く。手紙の主のパウロは教会の創立者でもありますし、当時のギリシャや小アジア半島の教会にある諸教会にとっては、もっとも権威ある一番の指導者でもあります。ですから、パウロがコリントの教会のが問題を抱え混乱していることを耳にしていたならば、当然、何か一言あって然るべきです。
一体パウロは何を書いているのか、どんなことを言っているのか。人々は心を騒がせながら、手紙が読まれるその言葉に耳を傾けていただろうと思います。そんな中で、手紙に記されたパウロ祈りの言葉が響き渡る。そうすると、どうでしょう。一体パウロは何を言おうとしているのか。何かを叱責するのか、誰かを責めるのは、そんな思いで心を騒がせながら聞いていた人たちの心に、「わたしたちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたにあるように」というパウロの祈りの言葉は、なにか心をなごませるような感じを与えたのではないかと、そんな感じがするのですが、どうでしょうか。確かに教会には沢山の問題がある。その問題を抱えて私たちは不安を感じている。その私たちのためにパウロは「わたしたちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたにあるように」と祈ってくれている。パウロが、「恵みと平安があるように」と祈ってくれている以上、確かに神の恵みと平安が私たちの内にやってくる。この祈りの言葉は、そんな感じを人びとに与えたのではないかと思うのです。実際、パウロは、そのような思いで、この言葉を書いたように思われます。ともうしますのも、パウロは、この手紙の常套句のようなこの祈りの言葉も、ただそれだけで終わってはいないからです。パウロは、この祈りの言葉に添えて、パウロは次のような感謝の言葉を述べているのです。
実は、このような感謝の言葉もパウロの手紙の冒頭に必ず書かれるパウロの手紙の一つの特徴なのですが、しかし、そこで感謝する内容については、それぞれの手紙事で違っています。つまり、この感謝の言葉は、その手紙が書かれた具体的な背景を背負いながら書かれていると言うことです。その感謝の言葉をで、パウロはこう綴っています。「わたしは、あなたがたがキリスト・イエスにあって与えられた神の恵みを思って、いつも神に感謝している。あなたがたはキリストにあってすべてのことに、すなわち、すべての言葉にもすべての知識にも恵まれ、キリストのあかしがあなたがたのうちに確かなものとされ、こうしてあなたがたは恵みの賜物にいささかも欠けることなく、私たちの主イエス・キリストの現れることを待ち望んでいる。」「わたしたちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたにあるように」とコリントの人に「神の恵みと平安」を祈るパウロは、しかし、その恵みが、既にあなたがたの中に既に与えられているから、感謝しているというのです。そして、その恵みというのが「すべての言葉」と「すべての知識」であるというのです。言うなれば「すべての言葉」と「すべての知識」があれば、私たちは神の恵みと平安を十分に受けることができるようになるということです。
この「すべての言葉」というのは、パウロによって伝えられた福音であろうと思います。あなた方に、主イエス・キリストが、私たちの神であり、私たちを罪と死から解放し、救いを与えて天国の希望を与えて下さると言う福音の言葉が伝えられている。そして、その言葉が何をあなたがたにもたらし、その言葉にたって生きるとき、あなたがたはそのように生きていくべきであるかと言うこと、それをあなたがたは十分に理解し受け止めている。そのように、パウロがコリントの教会の人びとに伝えた福音の言葉をちゃんと聞き、理解している限り、あなたがたには神の恵みが既に与えられているというのです。つまり、パウロが4節において「わたしは、あなたがたがキリスト・イエスにあって与えられた神の恵み」というのは、イエス・キリストによって与えられた福音といっても良いだろうと思います。この福音の言葉が、あますところなくあなたがたに伝えられ、あなたがたはそれをちゃんと理解し、それを受け止めている。「キリストのあかしが、あなたがたのうち確かなものとされた」というのはそう言うことだろうと思います。だから、パウロは神に感謝するというのです。
そして、そのような恵みの中にあるがゆえに、あなたがたは神が恵みとして与えて下さる賜物においては何一つ欠けるものがないし、イエス・キリストの再びこられるときに、神から見捨てられ裁かれることはないのだから、安心してキリストが再び現れる再臨の時を待っていられるのです。このように、イエス・キリスト様を私たちの神であり、主、すなわち主権者として信じていると言うことは、私たちが神から恵みを受け、救いに与る事ができるという信頼の根拠だといえます。更にパウロは、その信頼の根拠ゆえに、神もまた私たちを、世の終りまで支えて下さるであろうというのです。私たちが頑張って自分たちを支えていくのではない。神を信じ信頼するときに、神の方が、私たちを堅く支え、最後まで守り通して下さるというのです。そして、その神は、真実なお方だというのです。この神の真実と言うことは、神には変説がないと言うことです。あのときはああ言ったが、今は状況が違う。だからあの時言ったようにはできないというならば、それは、神の真実という事ではありません。神の真実とは、いつでも、どんな状況でも決して変わらないと言うことです。
ですから、パウロによって伝えられた福音、すなわち、イエス・キリスト様を私たちの罪とその裁きである死から解放する救い主であるとして信じ、また神の子として信じるものは、主イエス・キリスト様との交わりの中に入れられているのですし、その交わりのうちに留まり続けるのです。だからこそ、「わたしたちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたにあるように」という祈りは、単なる挨拶のための常套句でもなく、空しい言葉でもない。神の交わりの中にあり続ける限り、神の恵みと平安は、イエス・キリスト様の福音を信じる者には、必ず与えられる者だからです。今は不安の中にあっても必ず与えられます。なせなら、それはもう、クリスチャンとなったときに既に与えられているものだからです。目の前の試練や問題、悩み事のために、それが見えなくなってしまっていると言うことも確かにあるに違いありません。それはだれにもあるのです。しかし、この福音という「すべての言葉」が私たちの内に留まり、私たちがその福音が私たちに何をもたらし、その福音にどうか変っていけばよいか、つまり信じ受け入れるべきものであると言うことを知り受け入れている限り、私たちには既に神の恵みは与えられているのです。それは無くなってしまったわけではありません。ただ見失っているだけなのです。
見失ってしまったのならば、もう一度発見すればいい。ではどうやって発見するのか?どうやって発見するのでしょう?神の恵みが「すべての言葉」つまり福音とその福音を知り、捕え、自分のものとする知識によってもたらされるのであるならば、その原点に帰ればよいと言うことです。道に迷ったときに一番有効な方法は、出発点に戻るということですし、問題を解くときにわからなくなったら、最初に戻ってもう一度考えることが最良の方法です。同じように、神の恵みを見失い、恵みや平安を見失ってしまった時には、その原点である、福音に立ち帰り、その福音をしっかりと捕え直し確認し、もう一度自分のものとすることで、見失ったものを見つけ出すことができるのです。そういった意味では、今日の日本に生きる私たちは、本当恵まれていると思います。なぜならば、聖書が身近にあり、いつでも、どこでも聖書を読もうと思うならば、自由に読めるからです。また、聖書を学ぼうと思ったならば、たとえば、先週ご紹介しましたが、聖書学院での信徒講座と言ったものがありますし、野口兄弟が行っていましたが、上智大学にもそう言う講座があります。また、近くではルーテル学院でも学ぶことができるのです。
しかし、なぜ、聖書を読み、聖書を学ぶことが、信仰の原点である福音に立ち帰り、その福音をしっかりと捕え直し確認し、もう一度自分のものとすることになるのか?それは、聖書の言葉は、福音の中心であるイエス・キリスト様について語り、イエス・キリスト様を証するからです。私たちを救い、罪と死から解放する福音は、イエス・キリスト様の御生涯によってもたらされました。もっというならば、神二の「ひとり子」である子なる神イエス・キリスト様が人とならえた受肉の出来事と十字架の死と復活という出来事を伝えるものです。そして、聖書は、そのイエス・キリスト様のことを伝えるのです。もちろん、聖書には、イエス・キリスト様がお生まれになる前の旧約聖書もあれば、イエス・キリスト様以後の弟子たちの姿を伝えるものや教会にあてた手紙などが記されています。しかし、それら全てをふくんで、聖書は神がイエス・キリスト様を証するために、企画され、神が人を導いて記させた神の言葉なのです。ですから、聖書を読むときに、私たちはその聖書を通して、イエス・キリスト様の御生涯によってもたらされた福音に触れることができるのです。
だから、聖書を読み、聖書を学ぶと言うことが、見失ったものをもう一度発見するために、福音という原点に返るたいせつな出発点にたつと言うことなのです。その聖書が、自分たちの母国語で自由に読める。それは本当にありがたいことだと思います。今では、ひとりひとりが聖書を持ち自由に読めると言うことは、当たり前のように思いますが、ほんの500年前まではかならずしもそうではありませんでした。500年前の教会、特に西方教会といわれるローマ・カトリック教会では、一人一人が聖書を自由に読むことができなかったのです。というのも、ローマ・カトリック教会では、聖書を正しく解釈することができるのは、ローマ・カトリック教会だけであり、信徒が勝手に聖書を解釈してはならないと言うことで、一人一人が聖書を自由に読むことを好ましいこととはしていなかったのです。第一、当時は、ラテン語が聖なる言葉であるとして、ラテン語の聖書、これをウルガータといいますが、それ以外の聖書は認めなかったのです。ラテン語というのは、今もそうですが、すでに500年前には、一般では使われていない死語となっていましたから、ラテン語を読めるのは聖職者と学者と一部の教養人に限られていました。ですから、仮に聖書を持つことができたとしても、読むことができたのは、ほんの一握りの人たちだけだったのです。
しかし、宗教改革において、神の言葉である聖書はすべてのクリスチャンに与えられているし、すべてのクリスチャンが聖書を自由に読むことができるとして、聖書の母国語へのほんやくがなされるようになって、ようやく人びとが聖書を読むことができるようになりました。今日では、カトリック教会でもラテン語のウルガータではなく、母国語に翻訳された聖書を読むことができるようになっています。だから、私たちは自由に聖書を読み、聖書によって伝えられる福音に触れることができるのです。もちろん、今日でも、自由に聖書の言葉を読むことができない人たちもいます。たとえば中国などもそうです。現在では多生は改善されたようですが、以前は、聖書が無く、中国のクリスチャンたちは、一冊の聖書をバラバラにして、それぞれのページを回し読みしながら聖書を読んでいたそうです。また、現在でも聖書が翻訳されていない原語は2700程度あるそうで、それらを母国語としている人たちは、自分の言葉で聖書を読むことができません。ですから、そう言った状況をかんがえますと、今の日本にいる私たちのように、自由に聖書が読め、大学や神学校で聖書について学ぶことができる講座が開かれているというのは、実に恵まれた状況なのです。
ですから、私たちはこの恵まれた状況を大切にしたいと思います。そして、イエス・キリスト様によってもたらされた福音に触れ、学び、福音の上に立ち続けたいと思うのです。それこそが、私たちが神の恵みを賜っている喜びに満たされ、神の与える平安に包まれているために、なさなければならない大切なことなのです。先日も、三多摩教区に教区会があり、私と妻とが出席しました。今回の教区会には三多摩教区担当の教団委員のS牧師も参加され、そこで教団の現状が話されました。今はちょうど、来年度の任命を決める時期ですが、もうすでに来年の任命の内示はすべて終わったそうです。ですから、今の時点で転任の内示が無いと言うことは、来年も同じ教会でご奉仕すると言うことなのですが、しかし、来年度には、7組13名の牧師が引退や、休職と言うことで牧会の場から退かれるそうです。それに対して、聖書学院の新卒の牧師を含めて、新しく教職者として派遣される方は3組4名の方だそうです。つまり4組9名の教職者がへるのだそうです。当然、牧師のいない、いわゆる無牧の教会や兼牧の教会が出てきます。
そのような話が出てまいりました、現状の教団の姿と、これからの教団についての話が話され、それについて、そこに集まった牧師や信徒の方からの意見などをきいていますと、これからの教団の先行きはどうなるのだろうかと、暗い思いになってきました。そういった意味では、私たちの教団は、様々な問題を抱え込んできているのです。しかし、それは教団だけのことではない、私たちの教会も問題を抱えていますし、私たち自身、一人一人も、何らかの問題を抱えているのではないでしょうか。それこそ、仕事のことや、学校のこと、家族のことなど、大なり小なり悩み事を抱えているものです。教会だって、会堂のことや、駐車場のこと、これからの伝道のことなど、様々なことがあります。そして、教団が問題を抱えていると言うことは、その教団に繋がる私たちの教会も、それと無関係でいられません。そのような中で、今の日本の教会の状況を考えれば、それこそ、不安や恐れを感じずにはいられないのです。
だからといって、暗い気持ちのままでいるとすれば、それは、神を信じる者の生き方としては決して正しいものとは言えません。なぜならば、キリスト教は希望の宗教だからです。どんなに重苦しい状況であっても、将来にある希望を語り、その希望を見ながら生きていくのが、クリスチャンの生き方だからです。そして、その希望とは、イエス・キリスト様によってもたらされる神の国、天国の希望です。この天国の希望というのは、単に死後の世界の希望と言うことではありません。それは、やがてイエス・キリスト様が再び来られるという再臨の希望です。もちろん。その再臨の出来事が起るまでに死んだ人にとっては、その時に再び復活するという希望ですから、その意味では死後の希望ということにもなるのかもしれませんが、しかし、単なる死者の世界という意味での死後の世界ではありません。復活ということを伴う、生ける者の希望なのです。そして、その希望がある限り、現状がどんなに暗く重苦しくて先行きの見通しがきかなくても、私たちはその問題に押しつぶされることはありません。神の国の希望、それはただあてのない希望ではなく、真実な神の約束にもとづく希望ですから、決して揺るぐことのない確実な将来なのですが、その希望という神の恵みの賜物によって、喜びと平安を得ることができるのです。
ですから、私たちはこの神の恵みの賜物と、それが与える「わたしたちの父なる神と主イエス・キリストから」あたえられる「恵みと平安」を見失わないように、いつも聖書の言葉に触れ、この聖書の言葉を神から私たちへの語りかけの言葉として思いめぐらし、聖書を学ぶ者でありたいと思います。そうすることによって、私たちは聖書の言葉に触れ、これを思いめぐらし、これを学ぶことを通して、私たちは福音に触れ、福音に土台し、福音にたつという信仰の原点、出発点に、絶えずたち続けることができるのです。私たちは、今、すべての言葉にも、すべての知識にも恵まれています。だからこそ、これらの神からの恵みの贈り物をおろそかにしないで、キリストを証する証しを確かなものとして、キリストの現れる日を待ち望んで生きていきたいと思います。そして、この神からの恵みの贈り物を大切にするならば、かならずそうすることが出来るようになっていくのです。
お祈りしましょう。