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メッセージ

羊飼い 『よって立つ土台』
コリント人への第一の手紙1章10−25節
2008/2/3 説教者 濱和弘
賛美  201、36、396

さて、先週までは、コリント人への第一の手紙の冒頭のパウロの挨拶の言葉から礼拝の説教をお取り次ぎ致しましたが、今日からはいよいよその本題の部分に入っていきます。前回までにお話致しましたように、このコリント人への第一の手紙の背景には、パウロが設立したコリントにある教会に様々な問題が起り、教会が混乱しているという事情がありました。ですからその問題に解決を与え、教会の混乱を収めようとする意図のもとに書かれたのが、このコリントの人への第一の手紙であると言えます。そして、そのコリントにある教会が抱えていた問題の最も根幹にあった問題が、分派という問題です。つまり、教会の中が幾つかのグループに分れて対立していたというのです。12節を見ますと、「『わたしはパウロのつく』『わたしはアポロに』『わたしはケバに』『わたしはキリストに』」といって互いに言い合っていると言うことが記されています。つまり、それぞれパウロ派、アポロ派、ケバ派、キリスト派といった派閥があって、それが相対立しているというのです。

パウロはコリントの教会の創立者ですし、ギリシャ、小アジア半島の教会にとっては最も有名で、権威ある伝道者です。そのパウロが自分たちの指導者だと主張する人たちが「私たちはパウロに付く」といってパウロ派なるものをつくっている。それに対して、アポロは、パウロがコリントの教会を去った後に、コリントの教会を指導した指導者です。アポロはかなりの雄弁家だったようです。ですから説教は、ある意味、パウロよりも優れていたのかもれませんし、おそらくはそうであったろうと思われます。そして、先のパウロ派の人たちに対して、アポロ派とでもいわれるような一団をつくり、私たちの指導者はアポロであるといって対立していたというのです。ですから、パウロ派とアポロ派という対立構造だけから見れば、このような対立はいわば、世代交代の中で起った対立のように見えます。実際、そのような対立というのは、教会の中では起りやすいものです。教会の「前任の牧師が退き、後任に新しい牧師が来た」とか、「教会に新しく副牧師を迎えた」というような場合に、前任の牧師の牧会の在り方から後任の牧師を受け入る事ができなかったり、新しい牧師の考え方ややり方から、前任の牧師の在り方否定すると言ったことから、後悔が分裂すると言った事が全くないわけではありません。

そして、最も悲しいことは、それを牧師自体がやってしまうことです。新しく来た牧師、受け継いだ牧師が、自分を主張するあまりに、前任の牧師を否定することによって自分の立場と権威を確立しようとして、結果として教会を分裂させ、混乱させてしまうという事も無いわけではないのです。逆に、退いた牧師が退けないで、以前としてその教会における影響力を行使してしまうために分裂と混乱が起ってしまうということだって起こりうることです。そういった意味では、私たちの教会も教会の創立者である加藤亨牧師から、私に代替わりを経験致しました。しかし、幸いなことに、私たちの教会では、そのような分裂や混乱は起りませんでした。それはひとえに、教会員のみなさんの思慮ある信仰の故からだと思いますし、前任の加藤亨牧師の鮮やかなまでの引き際の見事さの故であったろうと思います。そういった意味では、私はみなさんと加藤亨牧師には心から感謝しています。そして、それに加えて、私と加藤亨牧師は、いわば恩師とその弟子というような関係ですので、私と加藤亨牧師との間には基本的に大きな考え方の違いはありません。存在の偉大さと信仰の偉大さと言うことでは、私と恩師の加藤亨牧師とは雲泥の違いがあって、私は加藤亨牧師を、おそらく生涯乗る越えることはできないだろうと思っていますが、考え方の基本、根底にあるものは同じものが脈々と流れていると思っています。

それもあって、私たちの教会では代替わりがかなりスムースに行われたと思うのですが、しかし、たとえ指導的な立場の人の間に争いや違いが無くても、信徒の方がそれぞれを担ぎ出して分派・分裂を起してしまうと言うことが起ってしまうこともあります。そういった意味では、この三鷹キリスト教会のみなさんは本当に、キリスト者らしく代替わりを迎えて下さったと思います。しかし、コリントの教会はそうではありませんでした。パウロとアポロの間に、確執や対立といったものがあったわけではありません。むしろ、一致していると言った方が良い。けれども、そのパウロとアポロを担ぎ出した人たちが、それぞれの優位さを主張して対立しているのです。しかも、コリントの教会では問題が更に複雑になっています。さらには、「私たちはケバにつく」という人たちや、いや「私たちはキリストにつく」という別の立場の人たちまでが出てきて、大混乱してしまっていたのです。ケパというのはペテロのことです。ケパというのはヘブル語で岩のことを意味します。ペテロという名前は、イエス・キリスト様が「あなたをペテロと言う」といってつけられたニックネームですが、そのペテロはギリシャ語、ヘブル語のケパと同じで同じ岩を意味しているのです。

ですから、ケバ派というのは、ペテロという当時の教会の第一級の指導者を担ぎ出して、ペテロこそが、私たちの指導者であって、私たちはそのペテロの言うことに耳を傾け、聞き従わなければならないというのです。いわば、「パウロだ。」「アポロ」だと言い争っているなら、いっそ別の所から指導者を招き入れようではないかと言った感じなのかも知れません。それこそ、今いる指導者たちではなく別の指導者によって教会を導いていこうとする分けですから、当然、教会は更に混乱してしまいます。たとえば依然、聖霊を強力に強調するあるグループの人たちがいました。私たち日本ホーリネス教団も聖霊なる神の働きを強調するグループですが、しかし、私たちは、むしろ聖霊なる神は、私たちの内側を照らし、自分自身の実態がどのようなものであるかを私たちに知らせ、私たちに神に対する全面的な信頼と信仰に導き、神の前にクリスチャンとしてあるべき歩みにお方として働くことを強調します。

ところが、そのグループの人たちは、聖霊の働きは癒しであり、預言であり、威厳であるとして、聖霊に満たされれば、歩けなかったものが歩け、目の見えなかった人が見え、神から特別な預言が与えられるようになると言ったことを強調していました。彼らは、あちらこちらで集会を持ち、色々な教会の信徒を集め、そこで感化を与え、あなたの教会に行って、私たちのグループの考え方を広めなさい徒指導しました。もちろん、そこで感化を受けた人たちが帰っていく教会には、ちゃんと牧師がおり牧会をしています。そのようなところに、別の所で教えられたと言って、その教会の在り方と全く違うものを持ち込んだら混乱するのは当たり前ですし、分派や分裂が起るのは当たり前です。このコリントの教会で、「私はケバに付く」などというのは、そのような混乱をもたらすものだったかも知れません。このような、グループというのは、たいていは、自分たちの考え方や信仰の在り方は、他の教会より優れているといいます。優れているからこそ、あなたの教会に帰ってそれを広めなさいと言うわけです。しかし、そういって信徒を感化され送り込まれた教会は大迷惑です。それが教会に益をもたらすどころか、混乱を与え、教会を分裂させてしまいかねないからです。

じつな、自分たちの考え、つまりは教えと言うことですが、自分たちの教えや信仰の在り方が、田のものよりも優れていると言うことが、分派、分裂を引き起こすもっとも大きな原因です。自分たちの教派、自分たちの教会、自分たちのグループ、そして自分自身が他者より優れてものであると考えたときに、このパウロ派やアポロ派。ケパ派といった分裂騒動が起り教会が混乱してしまっているのです。実は、私たち日本ホーリネス教団の前身、日本ホーリネス教会が設立された当時、私たちの教団の前身も、分裂のもととなるような過ちを犯しかけていました。当時の指導者は中田重治牧師でしたが、当時のキリスト教会が新神学と呼ばれる新しい神学の中で、混乱する中、中田重治牧師は、一人一人の信仰の覚醒と伝道をかかげて、教会を持たず、福音館と言うところで伝道集会と今日で言う聖会と言ったものを展開する運動を繰り広げていました。今日で言うなら超教派の働きです。そこに集っていた人たちは、多くの教会から集まってきていたのですが、それこそ、中田重治牧師は、すぐれてカリスマ性を持った牧師であり、説教に長けた人でもありましたので、そこに集ってきたクリスチャンたちの中で、影響を受ける人も少なくなかありませんでした。そう言った人たちの多くは、それこそ、色々な教会に既に集っている人たちです。

そこに集っている人が、中田重治牧師の感化のもと受けた影響を、教会で強調し始めますと、それこそ先ほど申し上げたグループのようなことになりかねないわけですし、事実そう言ったこともあったようです。そのようなわけで、中田重治牧師と東洋宣教会の宣教師たちは、超教派としておこなっていた伝道運動としてのホーリネス運動を、超教派としてではなくホーリネス教会という一教派を設立し、その一教派の働きとして展開するようになっていったのです。これは、ある意味、中田重治牧師と当時の東洋宣教会の宣教師、カウマン夫妻やアーネスト・キルボルン宣教師の英断であったろうと思います。自分たちのしていることが、日本の教会に亀裂を入れてしまうようなものとなるのであるならば、その方向性を変えるということは、あるいみ、高い視点からの判断であったと言えます。もちろん、中田重治牧師らが、日本ホーリネス教会という教会を築き、超教派としての働きから、一教派の働きへと映っていった理由は様々なことがありますので、ただ教会の分裂を裂けるためだけはなかっただろうと思いますが、しかし、そこに英断があったことは間違いの無いことだろうと思います。

いずれにしても、私たちが自分たちの信仰や信仰の在り方、そして考え方に自信を持ち、それが優れたものであると自負することは決して悪いことでありません。そのような誇りが合ってこそ、私たちの教団だけでなく、いずれの教団に置きましても、教団としての自己意識(セルフ アイデンティティ)を持つことができるからです。けれども、もしそれが、他者よりも自分たちが優れたものであるとしておごり高ぶり、他者を認めないとすればそれは問題です。なぜならば、この世界にあるすべての教会、教派、それがいわゆる正統的な信仰、伝統的な信仰に繋がるものであるならば、それらすべての教会は、神がお立てになった教会だからです。だから、自分たちには優れたものが与えられていると自負するのと同様に、他者にも優れたものが与えられていると言うことを認めて、それを尊重すべきです。そうしなければ、キリストの教会は成り立ちません。なぜなら、神がお立てになった教会は、すべてキリストのからだなる教会だからです。

そのキリストの体なる教会を分裂させ、分断させるような事をするとすれば、それは最早、父なる神の欲していることでもなければ、子なる神、教会の設立者であるイエス・キリスト様のねがっておられることでもありません。ですから、自分たちの働きが、日本の教会の中を分裂させてしまうような働きになりつつあると感じたとき、自らの原点である運動体としての団体を教会と替え、一教派の働きに治めた、私たちの教団の出発となる決断は、今に私の目には英断と映るのです。そして、それはこのコリント人への第一の手紙を書いたパウロの思いに通じるものです。パウロは、この手紙の1章10節でこう言います。「あなた方に勧める。みな語ることを一つにし、お互いの間に分争がないようにし、同じ思いになって、固く結び合っていてほしい」。そして、13節では「キリストはいくつのも分けられたのか」と問いかけるのです。パウロは、クロエの家の者たちから、コリントの教会の近況を聞きました。クロエと言う人が誰なのか、またクロエノ家の人たちというのがどんな人たちかは、今日なおわかってはいません。しかし、パウロは、彼らから今リントの教会に、「私はパウロにつく」だとか「アポロにつく」「ケパにつく」などといって分派分裂がおきそうになって混乱していると聞いたのです。

それにたいして、パウロは、この手紙の中で、自分が教会の設立者なのだから自分を指導者として仰いで、教会を一つにまとめなさいとか、アポロが今の指導者なのだから、アポロに聞き従いなさいなどとも言ってはいません。ただ、教会はキリストの体であって、体は一つであって、幾つにも分けられるものではない。だからキリストの体もまた幾つにも分けられるものではないから、分裂して争うようなことをせず、一つになっていて欲しいというのです。教会はキリストの体である。これはパウロの持つ教会観です。それは特にエペソ書1章23節にはっきりと言い表されています。そこにはこう書いてあります。「この教会はキリストのからだであって、すべてのものを、すべてのうちに満たしている方が、満ちみちているものに、ほかならない。」このように、教会はキリストの体であるというパウロの教会観は、このコリント人への手紙の至るところに反映されています。そのキリストの体なる教会は、同時に、私たち一人一人、神の民として召し集められたクリスチャンによって出来上がっています。だからこそ、「その教会に繋がる私たちは、教会という『キリストの体』を引き裂いてはいけない。」というのです。

そういった意味では、コリントの教会の人たちを含め、私たちすべてのクリスチャンは、誰につくのでもなく、キリストの体を作り上げている者、つまり「キリストにある(εν Χριστου)」者だといえます。だとすれば、コリントの教会にいた「私はキリストにつく」という立場はどうでしょうか。彼らがもっとも正しい立場にいた人たちであり、パウロは彼らを支持していると言うことなのでしょうか。実際、この「わたしはキリストに」という12この部分に対して、これはパウロが、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケパに」と言い争っているコリントの人たちに対して、「わたしはキリストに」つくのだというパウロの立場の表明であると言う解釈もあるのです。それは、もともとのギリシャ語の写本には句読点が無いために、句読点の打ち方によっては、違った意味で捉えることができるからです。そのため、読み方によってはそのような読み方も可能なのです。しかしながら、一般的には、この「わたしはキリストにつく」というのは、キリスト派と言っても良い人たちがいて、その人たちもまたこのコリントの教会の分派闘争の一端を担っていたと考えられています。そしてパウロは、そのキリスト派と言うような人たちにもまた、否を突きつけているのです。

なぜならば、キリスト派の人たちも、自分たちは直接キリストから学んでいるのだといって、他者より自分たちが優れた者であるとしているからです。「私たちは、直接キリストから学ぶのだ」という考え方は、一見すると正しい者のように思われます。なぜならば、先ほど申し上げましたように、教会はキリストの体であって、そのキリストのからだなる教会のかしらはイエス・キリスト様だからです。その教会の頭であるキリストの体から学ぶと言うことは、クリスチャンのある方としては正しいことのように思われるのです。しかし、考えてみますと、直接「キリストから学ぶ」といっても、実は、「学ぶ」と言うことで教会が一致を保てるかというと、かならずしもそうではないのです。この2000年間、私たちはキリストを証する所の聖書を学び続けてきました。しかし、その結果、色々な神学が生まれ、色々な教派が生まれてきました。つまり、学ぶことで一つになるのではなく、学ぶことが色々な教派に別れる事になったのです。もちろん、そのように別れていく中でも、それぞれがお互いを尊重し合うならば、それはそれで一つの「キリストのからだなる教会」を保っていると言うことができますが、学ぶことが、それを一つに保つ原因ではありません。

私たちの教会は、聖書を誤りのない神の言葉と信じる立場の教会ですが、同じように聖書を誤りない神の言葉と信じる別の教会とかならずしも全てにおいて一致しているわけではありません。たとえば、ある教会が、聖書のある箇所を直接引き出して、一つの信仰の立場を表明するときに、同じようにして、聖書の別の箇所を直接の根拠として、それとは逆の立場が出てくると言ったことは、今でも経験するところのことです。そのように、聖書の言葉を学ぶという立場からは、実は、教会の一致は生まれてこないのです。つまり、「キリストから学ぶ」ということと、キリストのからだを作り上げている「キリストにある」者となると言うことは違うのです。パウロと言う人にはパウロ独特の言い回しが幾つかありますが、そのパウロの言い回しの中で、最も特徴的な言い回しの一つが、この「キリストにある」という言い方です。ギリシャ語では、「εν Χριστου」といいますが、たとえば、先週まで学んでいた1章1節から9節まででも、2節に「キリスト・イエスにあってきよめられ、聖徒として召されたかたがたへ」とあり、4節には「わたしは、あなたがたがキリスト・イエスにあって与えられていた恵みを思って、いつも神に感謝している」とありますが、この「キリスト・イエスにあって」と言う言葉が、その「εν Χριστου」です。

このように、「キリストにある」と訳されている εν Χριστουと言う言葉を、パウロは頻繁に使うのですが、それは直訳すれば、キリストの内側にあると言うことです。それは、ちょっと神秘主義的な証言ですが、私たちがキリストのうち側に取り入れられて、キリストと一体となっているのだと言う感じをパウロは「キリストにある」、εν Χριστουという言葉で言い表しているのです。ですから、私たちはキリストと一つに結び合わされているからこそ、きよめられ聖徒として召されているのですし、キリストと一つに結び合わされているからこそ、神の恵みが与えられているのです。そのように、キリストと一つになる εν Χριστου ということ、それクリスチャンであるということの最も重要なことなのです。このように、クリスチャンはキリストと一つに結ばれているものだからこそ、そのキリストのからだとして具体的に現れている教会に、具体的に参加し加わるのです。私は神を信じキリストを信じているからそれで良い、教会には繋がらなくてよいということだと εν Χριστουではないのです。だから、神を信じた者は、みなさんが、この具体的な三鷹キリスト教会の具体的な構成員であるメンバーとして存在しているように、どこかの教会のメンバーとして繋がり、信仰生活を送らなければならなければならないのです。

もちろん、そのような教会に繋がると言うことの前提には、神を信じ救われるという経験が必要です。キリストにある εν Χριστου ということは、単に教会のメンバーとなると言うこと以上に、何よりも神を信じ、キリストを信じて救われるという信仰の経験、宗教経験が必要です。つまり、教会とは、この宗教経験によって結び合わされたものの群れなのです。ただ牧師や宣教師の人柄や知識によってではなく、キリストに学ぶということでもなく、神を信じ救われたということを何らかの形で自分自身の中に受け止めたという宗教経験が、私たちを一つに結び合わせているのです。それは何か不思議な経験とか、神秘的経験ということではありません。私の人生のどこかで、私は神を信じ、キリストを自分の救い主として信じます。という信仰の主体的決断をすることです。みなさん、私たちは誰であっても、私は神を信じ、キリストを自分の救い主として信じます。という信仰の主体的決断する人の、その信仰的決断を尊重できないことなどありません。その信仰的決断故に、私たちはその人をクリスチャンとして受け入れ迎え入れることができます。そして、私たちは、そのやってこの三鷹キリスト教会のメンバーとして個々に招かれているのです。

パウロはこのコリント人への第一の手紙で、「いったい、キリストが私をつかわされたのは、バプテスマを授けるためではなく、福音をのべつ耐えるためであり、しかも知恵の言葉を用いずに宣べ伝えるためであった。それは、キリストの十字架が無力になってしまわないためである。十字架の言は滅び行く者にはおろかであるが、救いにあずかる私たちには神の力である」と言っています。それは、私たちが救われ、クリスチャンになったのは、また教会のメンバーとなったのは、教えを語る権威者や指導者の教えや、その人の持つ知恵や知識によってではないということです。そうではなくて、私たちが神を信じるという主体的な信仰の決断をするという宗教的経験を通してのみ、私たちは救われるのです。ですから、クリスチャンとしての私たちのよって立つ土台は、ただそこにのみあります。そして、ただ、そのことのゆえに、私たちは教会に召されているのです。ですから、教会はその宗教的経験によって結びあわされているのだといえます。

私たちは、神によって救われ、教会に召し集められた。これは私たちの主体的な信仰の決断によるものですが、しかし、神の憐れみと導きなしには起らなかったことです。ですから、牧師であろうと、信徒であろうと、また求道者であろうと、クリスチャンホームに生まれた子供であろうと、私たちがこの三鷹キリスト教会の教会員であること、この教会の礼拝に出席するようになったこと、この教会と関わり合いを持つようになったことに背後には、深い神様の意志と目的があるのです。なぜなら、誰も神様の招きがなければ、世界中のどこの正統的な教会の礼拝や集会に集うことなどないからです。ましてや、その教会のメンバーとなってキリストのからだなる教会を構成することなどできません。だからこそ、みなさん。私たちは、共にこの教会に集うようになり、関わりを持つようになった一人一人を尊重し大切にしましょう。そして意見の違いや考え方の違いはあっても、同じ救いの体験を共有する一人一人として一つに結び合わされ、共にキリストの体なる教会を建てあげていこうではありませんか。私たちはそのような一人一人としてこの教会に召されているのです。

お祈りしましょう。