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メッセージ

羊飼い 『人を生かす神の知恵』
コリント人への第一の手紙1章10−25節
2008/2/17 説教者 濱和弘
賛美  2、344、309

さて、先々週もコリント人への第一手紙の1章10節〜25節までを聖書朗読として読んで頂きました。ですから、今日、司式の兄弟に読んで頂きました箇所は、先々週の箇所と重複しております。それは先々週の説教が、その1章10節から25節までの前半部分からの説教であり、今日はその後半部分からの説教となるからです。先々週私は、1章10節から25節までを通して、教会を一つに結び合わせているものは、聖書の神を信じ、イエス・キリスト様を自分の救い主として信じ受け入れるという宗教的経験によってであると申し上げました。その翌週、つまり先週に新しくT姉妹が礼拝に出席して下さった。T姉妹は、既にクリスチャンでいらっしゃいますが近くに引っ越してこられたのでということで、近くにある教会を捜し、そして私たちの教会を訪ねて下さった。そして、今日も出席下さっているのです。そして、先週も申し上げましたし、先ほど申し上げましたように、教会は神を信じ、イエス・キリスト様を信じる信仰によって結び付けられているのですから、こうして新しくこられたT姉妹とも同じキリストの体なる教会として教会に迎え入れられ、そしてひとつに結びあわされていくことができる。それこそがキリスト教会の本来あるべき姿なのです。

なのに、コリントの教会はその本来あるべき姿から逸脱してしまい、「私はアポロのつく」とか「ケパにつく」とか、あるいは「キリストにつく」などと言って分派・分裂騒動を起していた。パウロはそのコリントの教会に対して、「あなたがたはイエス・キリストの十字架の死によって救われるという福音のメッセージを聞き、そして信じ救われたと言う経験を持っているだろう。そのことにおいてあなたがたは一つに結び合わされているのだ。だから、誰が私の指導者であるかなどということで言い争わないで、一つに結ばれたもとして仲良くやっていきなさい」と、平たくいえば、そう言っているのです。しかしながら、この誰を指導者として仰ぐかと言うことは、実は大きな問題を含んでいます。問題というのは、何かトラブルを抱えているという意味での問題ではなく、むしろ考えなければならない物事の本質としての問題と言うことです。誰かを指導者として立てると言うことは、その指導者に自分たちの方向性や考え方の方向性を導いてもらうとい事です。そして私たちは実際に生き、生活している。その実際に生きている生活の場で如何にクリスチャンとしてどのように考え生きていくかと言うことが、実際に起ってくるのです。

もちろん、実際に生活しているのは一人一人のクリスチャンですから、最終的にどのような判断をするかという言うことは一人一人にかかっています。自分の生活の決断や人生の決断は、決して誰に委ねるのでもなく、自分自身の祈りと、神との交わりの中で決断していかなければなりません。しかし、だからといって私たちクリスチャンは決して独りぼっちにされていくのではありません。私たちは教会という交わりの中に置かれ、その教会の群れの中で支えられます。私たちは、二人三に徒集まって祈ることもありますが、多くの場合、一人で祈る事が多いのでないかと思うのですが、どうでしょうか。その一人で祈ることが多いとしても、その一人で祈る祈りの背後には、多くの教会の仲間の祈りがあるのです。と同時に、毎週の礼拝の説教やあるいは様々な教会の信徒同志の交わりを通して、自分はいかにクリスチャンとして決断し生きていかなければならないかという信仰者としての生き方や在り方の根本的な所を学んでいるのです。ですから、私たちは、確かに自分自身の人生における主体的決断をするものなのですが、その決断は教会と切っても切れない深い関係の中でなされるものでもあるのです。

だからこそ、教会はいつも正しい信仰の在り方と生き方を示していかなければなりませんし、説教も交わりも、私たちクリスチャンがクリスチャンとして生きていくその信仰の命を養っていく糧となって行かなければなりません。つまり、教会は、一人一人のクリスチャンが信仰者として育ってあげられていくための社会でもあるというわけです。そういった意味では、教会は、神を信じる信仰によって結びあわされた一人一人によって築き上げられている「群れ」であると同時に、社会としての制度を持っていなければなりません。それが具体的に現れているものの一つが教職性であり、教会の牧師がおかれているのは、教会が正しい信仰の正しい在り方と、信仰の生き方を保ち示している社会でありつづけるためなのです。みなさんもご存知のように、明日、私はAGST(アジア神学大学院)でのヘブル語の試験を受けなければなりません。そんなわけで、ここ2週間はヘブル語付けでした。とにかく時間があるとヘブル語の聖書に取り組んでいました。

その中で、詩篇23篇を訳していたのですが、詩篇23編は、このような書き出しから始まります。詩篇23編は詩篇の中でもっとも有名な詩でもありますので、暗誦している方もおられるとおもうのですが、そこにはこう書かれています。「主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことはない。主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる。主は、私の魂を生きかえらせ、み名のために、私を正しい道に導かれる。」「この主は私の牧者であって、」という主は、神の名であるヤウェーという言葉が使われています。その神は、割らした地の牧者であるというのです。この牧者という言葉、ロイーということばなのですが、そのロイーというヘブル語を英語に訳すための辞書を見ますとpastureとい言葉になっていました。このpastureと言う言葉は、放牧をすると言う意味ですが、名詞では牧場主となっています。その牧場主が、自分の土地の中で羊を放牧して養い育てるように、神は私を養い育てて下さるかただというので言うわけです。しかし、pastureは牧場主ですから、実際にその牧場主の意を受けて羊を飼う羊飼いがいます。その牧羊をするものがpastor、牧師というわけです。

ですから牧師職というものは、神の意を汲んで、私たちクリスチャンの一人一人が教会という場で養い育てられるために奉仕する奉仕職なのです。そしてその汲むべき神の意というのは、私たちの魂が生き返るためです。この生き返ると言う言葉は、まさに死から戻ってくるという意味での生き返ると言う言葉が使われています。そういった意味では、みなさんの魂が、生き生きと生かされるような場所であり、そのために奉仕するのが牧師職だと言えます。主が、私を緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われるのもそのためです。緑の牧場というのは草のある牧草地です。それはまさに、命を養う食べ物がある。そして、いこいのみぎわというのは、ヘブル語の原語を見ると、水のある所にとなっています。それも、休みを取るために水のあるところに導かれるとなっている。それはまさに生きる為なのです。

実は、今週の水曜日に、大学時代の同期の友人から電話をいただきました。アメリカンフットボールを一緒にやっていた仲間です。その同期生の一人が亡くなったというのです。びっくりしました。私と同期生ですからまだ、50手前です。それで金曜日に、お通夜に行って来ました。その仲間とは25年近く合っていませんでしたので、私の記憶の中では20代のままの姿でしたが、遺影の彼は白髪交じりのあたまになり、25年の年月を感じさせられるものでした。同期生を亡くすという経験は、これが始めてではありませんでした。会社勤めを始めて6年目にやはり、同期入社の仲間が無くなっています。けれども、今回はその時とは全く違った感じがしました。それは、大学時代の苦しい練習を一緒にやり、試合に勝っただの負けただのという喜びや悔しさや苦楽を分け合ったというそんな気持ちがあったと同時に、彼の死が、けっして遠い出来事のように思われもなかったからです。私も必ず死ぬべき運命にある。みなさんも同じです。

ですから、その仲間の葬儀の席で、祭壇に飾られた遺影をじっと眺めながら、彼の死のことを思い、自分の死のことを思っていました。そして、後から聞きますと、彼には大学2年生のお嬢さんがおられるということ。私と同じです。だから、きっと彼ももっと生きたかったのだろうなと思うのです。50歳にもならない前に、奥さんやお子さんを残して亡くなられる。彼もどんなに無念だったろうかと思いますし、残された家族の方にとっても、こんなに不条理なことはないだろうと思います。それは、けっして私たちには理解できないものなのです。私にもわからない。ですから、どんな言葉も、家族の方を本当に慰めることはできないだろうと思うのですさきほどのコリント人への第一の手紙1章19節から21節には、こう書かれています。「すなわち聖書に、『わたしは知者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしいものにする』と書いてある。知者はどこにいるのか。学者はどこにいるのか。この世の論者はどこにいるのか。神はこの世の知恵を、愚かにされたではないか。この世は、自分の知恵によって神を認めるには至らなかった。そこで神は、宣教の言葉の愚かさによって、信じる者を救うこととされたのである。」

どんな知者や学者、この世の論者をつれてきても、納得できる死の意味など語ることなどできないだろうと思いますし、現実の悲しみや苦しみの意味など説明できる者ではありません。そもそも、死の意味や苦しみなどを説明すると言うことは、その現象を解釈するということです。悲しみや苦しみ、そして死と言った者を解釈しても、それは悲しんでいる現実、苦しんでいる現実と何ら結びつく者ではないのです。ですから、この世の学者、知恵、論者を連れてきてもダメだというのです。そして、だからこそ神は、宣教の愚かさによって、信じる者を救うことができるとそう言われるのです。なぜなら、宣教の言葉は、ただただ私たちを生かすために語られるからです。緑の牧場に伏させ、牧草をはみ、いこいのみぎわで水を飲み静かに休む、それはただただ生かされるためです。死んでいた魂がそこからcome back・戻ってきて生かされるためなのに神は私達をみちびいておられる。それはつまり、死すべき運命にある私たちに、神は生きることを語られておられると言うことを意味します。それは、私たちは死や苦しみを考え、その意味を理解することによって救われるのではなく、死の悲しみや苦しみと言う現実の中にあっても、「生きる」ということを考えることによって救われるのです。

そう思いますと、新約聖書ヨハネによる福音書3章16節、17節に、「神はそのひとり子を賜ったほどにこの世を愛された、それは御子を信じる者がひとりも滅びないで永遠の命を得るためである。神が御子を使わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである。」と書かれているこの言葉は、実に重みがあるように思われます。この言葉は、聖書全体を指輪にたとえならば、その指輪の宝石にあたる部分がこのヨハネ3章16節だと言われる言葉であり、福音の中心が語られていると言われている箇所です。そこで言われていることは、罪の赦しでもなく、永遠の命なのです。もちろん、罪の赦しと言うこともキリスト教にとっては大切なメッセージの一つですが、しかし、中心は永遠の命にある。この永遠の命と言う言葉は、永遠の生きると言うことでもあります。神の御子であるイエス・キリスト様がこの世にこられたのは、私たちに、生きるという希望をもたらすためであり、その希望は私たちを永遠生かす希望なのです。この生きる希望によって、この世は救われる。私たちは救われるというのです。

それは、まさに今日の聖書の箇所であるコリント人への第一の手紙で言われている「神は宣教の愚かさによって、信じる者を救うこととされたのである」という言葉と、軌を同一にするものだといえます。当然です。なぜなら、宣教の内容は福音であり、福音とはイエス・キリスト様がこの世に生まれ、生き、私たちを救うために十字架で死なれ、復活なさり天に昇ったというキリストの御生涯だからです。そういった意味では、私たちは「生きる」ということを考えなければなりません。私たちは必ず死ぬべき運命にあるからこそ、なおさら生きると言うことを考えなければなりません。今という時を大切にして、一瞬、一瞬を大切にしっかりと生きると言うこと考える必要があるのです。この一瞬、一瞬を大切に生きると言うことは、歯を食いしばって頑張ると言うことではありません。先ほどの詩篇23篇の言葉に立ち帰るならば、生きるためには緑の牧場に伏し、いこいのみぎわである水のある場所で水を飲み休息することなのです。そうやって、死ぬことが運命づけられている私たちの魂は、その死からcome backしてきて生きるのとなるのです。すくなくとも、聖書は人間が生きると言うことは、私たちがいこい安らぐことから生まれてくるのです。

そのいこいと安らぎとが、イエス・キリスト様の十字架の死によってもたらされるなどと言うことは、通常では考えの及ばないことです。このコリント人への手紙では、ユダヤ人はしるしを求め、ギリシャ人は知恵を求めるとありますが、死すべき運命にある者が生きることを考える。ユダヤ人は如何に生きるかと言うことを、律法に求めます。神の秩法を守るとき、その生き方に対して、神の恵みが注がれると考えるのです。そしてそれは、この世の出来事における神の祝福となって現れます。たとえば、ユダヤ人の挨拶として、シャロームと言う言葉があります。このシャロームという言葉は平和という意味を持つ言葉であり、その平和は神が共にある平和です。同時に、このシャロームと言う言葉は、物事が完成すると言う意味の完成、たとえば建物が建てられ完成したという意味での完成と言う意味ですが、その完成という意味があります。また、健康や繁栄と言った意味もこのシャロームと言う言葉は持っているのです。つまり、神が私たちと共にいて下さるとき、私たちは平和に暮らし、健康と繁栄が与えられ、物事がすべて完成する、まさに大願成就するというわけです。

けれども、このような考え方は、その裏側に大きな影の部分を含んでいます。それは、健康が損われ、繁栄が失われ。心に平安がないと言うことは、神が共にいて下さらないということも意味するのです。その、もっとも典型的なものが、旧約聖書のヨブ記だと言えます。このヨブ記にでてくるヨブという人は、神を敬虔に信じ、神に対して従順に生きた聖徒と呼んでも良いような人でした。そのヨブを見て、悪魔(サタン)は神に、ヨブは、あなたから繁栄を与えられたから、ヨブは神に対して敬虔な信仰をもっているのです。もしその繁栄が失われたら、きっとヨブの信仰も損われていくでしょう」と言います。つまり、神を信じる信仰と、個人の繁栄と言うことが密接に結びついているというのです。その言葉を聞いた悪魔は、ヨブの子どもたちを事故に遭わせみんな死なせてしまいます。そして、ヨブの財産のすべてが失われてしまうのです。もちろん、ヨブ自身は神と悪魔との間でなされた会話などしるよしもありません。しかし、それでもヨブは神に対する敬虔な気持ちと従順さは失われませんでした。そこで、悪魔は更にヨブの健康を損い始めます。そして、全身に腫れ物ができて、かゆさで体を改作ほどの苦痛を味わうことになるのです。

ここから、ヨブの苦しみが始まります。なぜ自分はこのような苦しみにあうのだろうかと苦闘し始めるのです。そこに、ヨブの三人の友人が登場します。この三人の友人は、ヨブの苦しみの意味を解釈し、ヨブに彼らが解釈したヨブの苦しみの意味をつたえました。それは、まさに先ほど申し上げたシャロームの理解から産み出されたような解釈です。つまり、ヨブが神に対して何か罪を犯したから、その裁きとして苦しみが与えられているのだというのです。この三人の友人の言葉は、決してヨブの心を納得させる者ではありませんでした。ヨブは、自分が神に対して罪を犯したなどとは決して考えられなかったのです。それほど、ヨブは神に対して十分に敬虔で、神に従順に生きてきたのです。それでも、三人の友人は、ヨブに罪がなければ、このような災いが次々と襲ってこないと言い張ります。そのため、この三人の友人とヨブの間で論争がおきますが、結局、この三人の友人のヨブの苦難の意味についての解釈と理解はヨブを苦しめるだけだったのです。

このような、論争を通して、ヨブは神にその苦しみの意味を問いかけます。それは論争と言うよりもは、むしろ「私には、このような苦しみを受けなければならないような罪は、神の前にはありません。」と主張するのです。このヨブの言葉は、ヨブ自身もまた、神が共にいて下さるならば、この世にあっては成功をし、繁栄と健康が与えられると考えていると言うことを現しています。ところが、神を敬虔に敬い従順に生きている自分を神は顧みてくれずに、災いを与えられ定ると言うことに苦しみ、その苦しみを訴えているのです。そこに、もう一人の友人であるエリフと言う人が。ヨブのお見舞いに来ます。エリフは、ヨブの苦しみはヨブの罪に対する神の裁きではないが、神がヨブを訓練し教育をするために苦しみを与えているのだというのです。しかし、このエリフの解釈と理解もヨブを納得させることはできませんでした。というのも、ヨブは、それまでヨブができる精一杯の敬虔と従順を持って神を信じ生きてきたからです。なのに、これ以上、神がヨブに求めるとすれば、それは最早ヨブを苦しめるだけのものなのです。そして、そのエリフの解釈は、ヨブを慰めるどころかは更に苦しめます。

このような議論が積み重ねられた後、神はヨブに語りかけられるのです。旧約聖書ヨブ記では、主なる神は「つむじかの中からヨブに答えたれた」とかかれてありますが、しかしその神の答えとは、ヨブの苦しみにどのような意味があるかと言うことでもなければ、神と悪魔の間だの会話について語られたのでもありません。ただ、ヨブに様々な質問が投げかけられるのです。その質問とは、「わたし(神)が地の基を据えた時(すなわち天地創造の時)、あなたはどこにいたのか。」とか、「あなたは雪の倉を見たことがあるのか、雹の倉を見たことがるのか(つまり、雪や雹がどうして降るのか)と言った質問です。このような質問の中には、現代の科学知識なら答えられると思われるような者もありますが、ヨブ時代の人たちがの持つ知識では答えられないようなものでした。この神の問いかけを通して、ヨブは自分が何も知らない無知な存在だと言うことに築きます。それは、どんなに苦しみや悲しみの意味を知ろうとしても、自分はそれを知ることができない存在名のだと言うことなのです。

このように、苦しみや悲しみの意味を理解することなど出来ないと言うことを知ったとき、神はヨブを再び祝福し、前にまさる財産や子どもたちを与えられたというのが、ヨブ記という物語なのです。このヨブ記は、結局、最後までヨブに対してヨブが苦しんだことの意味やその理由は与えられていません。むしろ、ヨブが苦しみや悲しみの意味や理由を知ることを放棄して、むしろ自分が知らないことをあたかも知っているかのように言いっていたじぶんの姿を悔い改めることによって、神がヨブを祝福し繁栄を与えたという形で終わっているのです。そういった意味では、ヨブ記というのは、よく訳がわからないm納得しがたい終り方をしているといえます。だからこそ、現代でもヨブ記は研究の対象ですし、多くの人がヨブ記をどう理解したらよいか苦闘しているのです。そのような中で、先日、マルガレーテ・ズーズマンというユダヤ人の方のヨブ記の解釈について書いてある本を読みました。

そこに書かれていたことを要約すると「創造世界は(つまり神がお造りになった私たちの世界は)把握不可能で、私たちはその世界で生きている。その世界を人間の頭で理解できる法則や原理で理解しようとするならば、それは決して理解できず、むしろ苦しみがますばかりだ。ヨブが経験した出来事はまさにそのようなものだが、ヨブがその理解不能であると言うことを認め受け入れたとき、ヨブは人間の力で把握不可能なものを理解しようとすることから解放された。それは、その理解不可能なことを人間の側から、因果関係を明らかにする法則としてではなく、神の側から意識するということで、苦しみの中にあるヨブにとってはそれは死にゆく者から生きる者になったと言うことである。だから、ヨブの物語の最後に神がヨブに与えられた繁栄というのは、死からよみがえった者が、それまでとは違った生き方を与えられたと言うことなのだ」というのです。そして、ユダヤ人であるということは理解不可能な出来事に出合うという生きることの限界において、生きると言うことの全体、生きることへの可能性を生きると言うことだと言うのですが、それはユダヤ人だけのことではありません。クリスチャンであると言うことも、同じことなのです。そのことを、このコリント人への第一の手紙の今日の聖書箇所は私たちに語っているのです。

マルガレーテ・ズーズマンの言うように、私たちの生きている世界は理解不可能なことで一杯です。不条理な悲しみや苦しみが一杯あります。どんなに理由や原因がわかってもどうしようもない悲しみや苦しみが沢山あるのです。そのような悲しみや苦しみに、私たち人間がそれを解釈し意味づけや価値を与えたとしても、それが私たちを生かす力とはなりませんし、そのもっとも不条理な悲しみの頂点にある死に対して救いをもたらす者ではありません。ただ、十字架の上に無惨な死に方をしたイエス・キリスト様。それこそ罪のない方が妬みと嫉妬のために貼り付けられ死なれるという不条理な死に方をしたお方が、その死から三日後によみがえったと言う出来事が、その不条理なしを克服する救いを私たちに示しているのです。それは、人間の理性では理解することのできない愚かな、寓話か神話のような物語に思えることかも知れません。しかし、そのことを通して、神は私たちに、不条理な悲しみや苦しみ乗り越える生きる力を与えてくれるのです。そういった意味では、イエス・キリスト様の十字架の死の更に先にある復活の出来事から、私たちに希望の光が差し込んでいると言うことができます。

そして、その光は、私たちの死という最も条理な出来事の先から私たちを照らす、永遠の命の輝きであると言っても良いだろうと思います。ですから、教会はその光に照らされていなければなりません。最初に私は、教会はいつも正しい信仰の在り方と生き方を示していかなければなりませんし、説教も交わりも、私たちクリスチャンがクリスチャンとして生きていくその信仰の命を養っていく糧となって行かなければなりません。そしえ、教会は、一人一人のクリスチャンが信仰者として育ってあげられていくための社会でもあるともうしあげました。それは結局のところ、教会とは死を思い死を考える場所なのではなく、生きると言うことを思い決断する場所だと言うことです。そして、どんな不条理な悲しみの中にあっても、イエス・キリスト様が私たちにもたらして下さった福音には、その悲しみを乗り越えさせ、生きる決断と生きる力を与えてくれるのです。ですから、私たちは、そのことを信じ、神に祈り、神の言葉を語り、神の言葉に耳を傾けて生きるという生き方していきたいと思います。それが、互いに神を信じ、イエス・キリスト様を救い主と信じたところの宗教経験によって結びあわされた教会が、クリスチャンの寄り集まった場所ということだけではなく、神の民の群れ、神の家族としての社会を築き上げていくということにつながるのです。

お祈りしましょう。