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メッセージ

羊飼い 『価値観の逆転』
コリント人への第一の手紙1章18−31節
2008/2/24 説教者 濱和弘
賛美  3、354、248

さて、ただ今司式の兄弟にコリント人への第一の手紙1章18節から31節をお読み頂きましたが、先週は、その18節から24節を中心にして、次のような内容のお話しをさせて頂きました。それは、おおよそ次のような内容であったわけですが、「キリストを信じる信仰は、死と言うことを考える信仰ではなく生きることを考える信仰である。なぜならば、神は私達を生かして下さるお方であるからである。そのキリスト教で言う生きるということは、今を生きると言うことでもあるが、しかし、その今を生きるということは死と言うことでは終わらない。キリスト教おいて生きると言うことは永遠の命を越えて生きるという事でもあって、それゆえにキリスト教には死を越えた先からの希望の光が指しこんで来ている。この希望の光をもたらすために、イエス・キリストは十字架に架かって死に、よみがえられた。これは一見愚かな神話おとぎ話のような話であるが、この信仰の言葉こそが私たちを希望の光で照らし、私たちを生かす、神の知恵によるものなのである。」

とまぁ、そのような話をさせて頂いたわけですが、聖書はこのことを、宣教の言葉の愚かさと人間の知恵との対比、あるいは神の弱さ人間の強さとの対比で語っています。23から25節に書かれている言葉がそれですが、そこにはこう書かれています。「しかし、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べつたえる。このキリストは、ユダヤ人にとってつまづかせるもの、異邦人には愚かなものであるが、召された者自身にとってはユダヤ人にもギリシャ人にも、神の力、神の知恵たるキリストなのである。神の愚かさは人よりは賢く、神の弱さは人よりも強いからである。「神の愚かさは人より賢く、神の弱さは人より強い」といわれますと、「それはまぁそうかな」と納得できる感じもします。何せ相手は神様ですから、人間と比べて、仮に神に愚かさがあったとしても、人間の知恵と比べると、神の愚かさは人間の知恵よりもあるかにすぐれているであろうし、仮に弱さがあったとしても、それは人間の強さよりもはるかに強いものだろうということは、なんとなく理解できるのです。逆に、もしそうでなかったならば、神を神として信じ崇める意味などないとも言えます。

神は、私たち人間には決して到達できない高みにおられるお方だからこそ、信じ崇め、より頼むことのできる存在なのです。ですから、神と人との比較において「神の愚かさは人より賢く、神の弱さは人より強い」と言う言葉は成り立つであろうと思います。しかし、それが人と人との間の話となると、そうはいきません。私たち人間の世界における人間どうしの間では、賢さと愚かさ、力強さと弱さを比較すれば、当然のことですが、賢い方がよく、力強いつよい方が良いに決まっています。それは、ある意味常識と言っても良いほど、至極当たり前のこととして受け入れられる考え方です。ところが、その常識をやぶって、27節以降でパウロは、神は人間どおしの比較においても、愚かさと弱さにむしろ価値を見出しておられるというのです。コリント人への第一の手紙1章26節から29節、「兄弟たちよ、あなたがたは召された時のことを考えてみるがよい。人間的には、知恵ある者が多くはなく、権力ある者が多くはなく、身分の高い者も多くはいない。それだのに神は、知者をはずかしめるために、この世の愚かな者をえらび、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選び、有力な者を無力な者にするために、この世で身分の低い者や軽んじられている者を、あえて選ばれたのである。それは、どんな人間でも、神のみまえに誇るところがないためである。」

私たち人間の価値観でしたら、その集団の中に社会的に身分のある人や有力な人が沢山いれば、それはその集団にとって決してマイナスになることはなく、むしろプラスになることのように思います。たとえば、今、アメリカの大統領選挙のための予備選が行われています。アメリカは共和党と民主党という2大政党ですが、民主党ではヒラリー・クリントン氏とバラク・オバマ氏が激しい選挙戦を繰り広げているのです。その候補者たちの集会には、たびたび著名な人や実力者たちが登場します。先日も、バラク・オバマ氏の集会の様子がテレビに映し出されていましたが、そこには有名な歌手のスティービー・ワンダーが出てきてオバマ氏の支持を訴えていました。そのように、有名人や著名な人、有力な実力者、あるいは知識人たちを引っ張り出して、応援の演説をさせるのは、彼らの持つ身分や地位、実力者の持つ力と言った者が、自分の選挙戦にとって有益で役に立つ潜在だと思われるからです。もし、それが、自分の選挙戦にマイナスになるようであるならば、だれも自分の集会に彼らを呼びはしないだろうと思います。

ところが、神が、教会に招いている人々はそのような著名人や有力者を招くのではなく、むしろ愚かな者や、身分の低い者、あるいは力のない者ものだというのです。どうして神がそのようなことをなさるのか。それは、どんな人間も神の前に誇ることがないためであるというのです。どんな高い地位も、名声も、力も、それは神の前では何の誇りともならない。いやむしろ、それらは私たちが神の前に立つことを疎外する邪魔者であったりするのです。私は、今、皆様のご理解をいただいてアジア神学大学院というところで学ばさせていただいていますが、私の専門とするところは16世紀の教会の歴史です。16世紀というのは宗教改革の時期であり、この宗教改革運動を通して、プロテスタント教会が起ってきました。その宗教改革のきっかけを作った人物がルターという人ですが、そのルターという人は、「人間は神の前に良い事など何一つできない」といった人です。「人間が行うことは神の前には全部罪であって、人間は神の前に正しいことは選ぶことなどできない」と言うのです。私たちは、ルターのように「人間は神の前に良い事など何一つできない。人間が行うことは神の前には全部罪であって、人間は神の前に正しいことを選ぶことなどできないのだ。」などと言われますと、それはちょっと言い過ぎだと言うような感じがします。特にウェスレアンである私たちの教会では、特にそう思われるかも知れません。

もちろん、確かに、人間の心の中には、誰にでも汚れた心や醜い心があります。私の心の中にも、見にくい嫉妬心があったり、汚れた心があったりする。それは私だけでなく、きっとみなさんも同じように思われていることではないかと思うのですが、どうでしょうか。そういった意味では、確かに私も罪人の一人なのですが、しかし、何から何まで汚れた思いでものを考え、いつも醜い心で物事を見ているわけではありません。ましてや、具体的な行動になると、やることなすこと悪いことをしているかというとそうではない、むしろ良いこともしているように思うのです。ですから、ルターのように「人間は神の前に良い事など何一つできない。人間が行うことは神の前には全部罪なのだ。」といわれると、「そんな事はない、人間は確かに罪人だが、良いことだってする」と反発したくなるのです。実際、ルターの「人間は神の前に何一つ良いことなどできない」という言葉に触れた多くの人は、具体的に素晴らしい働きをしている人物、たとえばマザー・テレサなどをあげて、そんなことはないだろうと反対するのです。ところが、どうもルターの言わんとしていることによく耳を傾けて聞くと、ルターが「私たちは神の前に何一つ良い事などできない。人間が行うことは神の前には全部罪であって、人間は神の前に正しいことを選ぶことなどできない。」と言っている言葉は、私たちがその言葉を受け止め、心に描いている印象とはちょっと違った内容のことを言い表そうとしているようです。

実は、ルターは、「私たち人間は確かに良いことをする事ができる」ということを否定はしないのです。確かに私たちは人の目から見たら良いと思われることをしている。けれどもルターは、それは人の目から見れば良いこと、素晴らしい事ではあるが、それによって私たちは神の救いに与る事ができるほど良い物ではないというのです。ですから、どんなに良い働きをしても、それで人は救われるわけではないのです。人の目から見てどんなに素晴らしいことであり、周りの人から素晴らしいと賞賛されたとしても、私たちはそれによって救われることはできない。むしろ、それによって、自分は良いことをした、自分は正しいことをしたというような思いがあるならば、それは高慢な思いであり、逆にそれこそが罪なのだというのです。私は正直言ってルターという人はあまり好きではない。はっきり言えば嫌いなのです。しかし、そのようなルターの罪理解は、なんとも深い罪理解であり、そして何とも深い人間理解なのだろうかと感心させられるような思いになります。

一昨日、食事中にこんな会話が出ました。それは娘が高校の授業で福祉の授業を取ったという事から始まった会話でした。内容としては、弱い立場にある人、困った人のために何がしてあげられるかといった話です。その中で娘は、バスを並んで待っているときに前にご老人がおられると、バスに乗るときに何かあったときに手を出して支えてあげられるように、すぐ後ろに付くようにしていると言うのです。そして、それが良い事だから、あえてそうしているのではなく、バスの乗車口は高くてご年配の方にはちょっと大変だったりするので、何か自己があったら大変だから、当然のそうするものだと思ってやっているようなのです。それが当然だからするというのと、良いことだからするというのでは、若干意味合いが違います。当然のことだからするのであれば、それは当然のことをしただけですから、そこに良いことをしたという自負心は起りません。けれども、それが良いことだからしたと言う思いでそれしたならば、そこには自分は良いことをしたという思いが起ってきます。

ルターが、「自分はよいことをした、自分は正しいことをしたというような思いがあるならば、それは高慢な思いであり、それこそが罪なのだ」というのは、まさしくそのような思いなのです。そして、それは、その行ないが人間の目にいかに良いもの映るものであったとしても、それの自負心をもって、神の御前に「私は、これこれこのような良いことをしてきました。だから私を認め受け入れ、救って下さい」と進み出てもダメなのだ。それこそ、自分の良い行ない、自らの貢績を神の前に誇ることであって、それは神の前に高慢な罪なのだというのです。良いことをする。それは良いことだからすることではなく、当然するべき事であるからするのであって、人間は神の前に誇るもの、誇るべき貢績など何一つないのだということをルターは言わんとしていたんですね。そしてそれは、まさに、このコリント人への第一の手紙でパウロが言わんとしていたこと「どんな人間でも、神の御前に誇ることがないためである」と言うことでもあるのです。パウロは、「兄弟たちよ、あなたがたは召された時のことを考えてみるがよい。人間的には、知恵ある者が多くはなく、権力ある者が多くはなく、身分の高い者も多くはいない。」と言っていますが、それがコリントの教会の原点だったと思うのです。そこに集まった人たちは、おそらくはコリントの町の中では決して有力者でもなく、なのある人物でもなく、身分も高いものでもなかったのでしょう。

しかし、そのようなところから集められた一人一人であったとしても、そこに教会という社会ができあがると、その小さな社会の中でも何だか序列のようなものが出来上がってくる。ハエラルキーと言いますが、下からだんだんと上に向ってピラミッド型の序列を作り出してくる。人間があつまり集団を作りますと、不思議と人間はこのような序列社会を作り上げますが、それは教会にも入り込んでくる。そして、そのハエラルキーとよばれる序列社会において、だれがより高い立場にあるかと言うことを決めるときに、その基準となるのが、如何に賢いかとか、如何に力があるかとか、どのような身分にあるか」と言ったことが基準となることが少なからずあるのです。そして、そう言ったところから派閥だとか分派と言った問題が起ってくる。実際、コリントの教会に分派・分裂といった騒動のただ中にありました。そのような、私たち人間社会に起ってくる出来事に対して、パウロは、それは違うのではないかというのです。確かに、私たちは、地位や立場に人を選ぶとき、確かに、その人の実力や、持っている権力や地位、あるいは立場と言ったものを見て、それを基準に人を選びます。それは、大人の世界だけのことはない。人間が集団をつくる時に働く原則のようなものです。

私が子供のころの遊びは、主に野球でした。学校が終わると、それぞれがボールやバット、グローブを持ち寄って、小学校のグランドに集まって野球の試合をするのです。試合ですから当然チーム分けをするのですが、二つのチームの力のバランスがとれていなければなりません。そこで、代表を二人きめて、ジャンケンをして、勝った方から一人ずつ集まった子供から自分のチームに入れる選手を選びます。今のプロ野球で言うならばドラフト会議のようなことをするわけです。当然試合に勝ちたいですから、どちらも野球が上手な子から選んでいく。誰が決めたわけでもないのですが、自然とそうやっているのです。まさに、子供の世界ですら、力や実力で価値を決め選んでいくといったことが自然と根付いている。けれども、神はそうではない。教会はそうではないとパウロは言うのです。この世の中の在り方が、まず力のあるもの、知恵のあるもの、地位や身分のあるものから選んでいくとしても、神はそうではない。神の子という身分を与えるのに、神は、「人間的には、知恵ある者、権力ある者、身分の高い者」を選ばずに、むしろ愚かなものや、身分の低いもの、弱いものを選ばれたというのです。

それはつまり、私たち人間が、自ら選ばれるにふさわしいと思われるような「誇り」となるものが神の前にはなんの価値もないものであると言うことです。ここのところは大事なところです。神は知恵ある者を知恵があるから選ばなかったと言うことではありません。力ある者も力があるからという理由で選ばなかったのではない。地位や名声があると言うことも同じです。そう言う理由で神は選ばないと言うことではなく、彼らがそれを自らの誇りとして神の前に立つならば、神はそのような者をけっしてお選びにならないと言うことです。知者がはずかしめられるのは、神の前に、その知恵を誇りたいからです。強いものがはずかしめられるの、その力を誇るときなのです。つまり、神の前には、人の前には賞賛され、誇ることができるものであっても、神の前には何の価値もなければ、意味もないのです。その価値のないものを持ち出しきて誇ったとしても、それは何の価値もないものなのですから、役には立たないのです。ですから、如何に知者であっても、その知恵を神の前に誇ることがなければ、神はその知者を辱めることはありません。どんなに力ある者であっても、その力を神の前に誇ることが内ならば、力があるからと言う理由だけで神は人を辱めるようなことはなさらないのです。

むしろ、神が私たちに望んでおられるのは、自らが神の前に誇るところが何もないという、謙遜で謙虚な心になることです。謙遜で謙虚な心とは、心の底では「私はそこそこ良い人間だ」、「私は実はやればできる」と思いながら、それをおくびにも出さず、人には見せないでいるということではありません。本当に、心の底から「私には神の前に誇れるようなものは何もない」ということを、素直に受け止められる心なのです。人と人とを比べれば、私たちの中には優秀なところもたくさんあるでしょう。人よりも力があり実力もある。そして周りもそれを認めてくれている。そういった人の目から見て素晴らしいと思われるものを、私たちは沢山持っている。それはそれで素晴らしいことなのですが、しかし、そう言ったものは、私が、神に神の子として受け入れて頂くために、神に受け入れて頂いて永遠の命を与えて頂くために、つまり、私が救われるということのためには何の意味もなさないのです。どんなに人に誇るができるようなものであったとしても、その誇りは、神の子という身分を手に入れるには不十分なのです。その誇りを持って永遠の命と交換することはできないのです。それほど私たちが神の子とされ、永遠の命をいただくと言うことは、絶大な価値なのです。

それはそうです。命に優る価値などありません。それは滅んでいくこの肉の命であっても同じです。ましてや永遠の命となりますと、私たちは自分の価値を誇ってなどはいられません。ただ、自分は、神の前に誇るものなど何もないのだと言うことを知り、そのことを素直に認め受け入れるしかないのです。新約聖書マタイによる福音書5章3節に「こころの貧しい人たちは、さいわいである。天国は彼らのものである。」とありますが、この「こころの貧しいひと」というのは、まさに、この「自分のこころに神に誇るものなど何もないのだということを知って、そのことを認め謙虚になっている人」のことだと言えます。そして、だからこそ、イエス・キリスト様が必要なのです。神は、私たちが誇りと思うようなことには価値を見出しておられません。私には何も誇ることなどないという謙虚なへりくだった心に価値を見出して下さっているのです。

先週の木曜日には、週報にも記してありますように、S姉妹のお宅で家庭集会がありました。実は昨年のクリスマスから、S姉妹のご主人も集会に出て下さるようになりました。そこで、私は集会でする聖書のお話しをどのようなものにすればよいか色々と考えていました。そのとき、私が以前お世話になったPBAが出しているラジオメッセージ集が目に入りました。あのメッセージ集は、まだ教会に行ったことがない方にキリスト教をご紹介するためメッセージが中心ですので、分かり易いメッセージが多くのっています。それで、何か参考になればと思い、村上宣道牧師のメッセージに目を通しました。そのメッセージに道と言うことが書いてありました。それはヘブル語で「道」という意味を持つディテクという言葉は、「踏みつける」と言う意味の言葉でもあると言うようなことでした。それを読みながら「そうそう、確かにそう言う意味だったな」と、かつて学んだヘブル語の授業を思い出しながら、ふと「道」と言うことについて考えさせられました。というのも、私がこれから書こうとしている論文において、私も「道」と言うことを取上げようと思っていたからです。もっとも、そちらの「道」は極めて日本的な感覚の「道」であって、人間が自らを高め、自らを練り上げていく所の道、いわゆる柔道の「道(どう)」剣道の「道(どう)」茶道の「道(どう)」にあたる「道」でした。

ところが、ヘブル語で言う「道」は、自らを高めると言うことと真逆にある「踏みつける」という意味があるというのです。それは、道は人が踏みつけ踏み固めることによってできるからです。獣道と言う言葉がありますが、動物が何度も同じ場所を通って草や地面を踏み固めることによって自然にできた道が獣道です。そのように踏みつけられることで道ができるという感覚がヘブル語における道なのです。そしてその「道」は、イエス・キリスト様は、ヨハネによる福音書14章6節で「私は道であり、真理であり、命である。だれでも私によらなければ父のみもとに行くことはできない。」と言っておられる道なのです。父のみもとに行くというのは、永遠の命をいただいて神の国に行くと言うことであり、神の子となると言うことです。この永遠の命をいただいて神の子となるためには、イエス・キリスト様という道を通って行かなければならないと言うのです。イエス・キリスト様はユダヤ人ですから、イエス・キリスト様が「私が道である」と言われた「道」は日本的感覚の「道」ではなく、ユダヤ人の原語であるヘブライ語の感覚で道という言葉をお話しになったはずです。だとすれば、イエス・キリスト様の頭の中には踏みつけられていく道、それが私だというのです。

自らを切磋琢磨し、自らを鍛錬して高めていくのも「道」です。しかし、そうやって自らを高めていった先で、自らを誇るものとなってしまったならば、その道では父のみ元に行くことができないのです。父のみもとに行くことができる「道」は、神のひとり子であられるのに、人に踏みつけられるまでに身を低くなさったイエス・キリスト様というお方以外にはないというのです。私たちはそんなに自らを高める道を歩んだとしても、最終的には神の前に、何も誇る得るものを持つことなどできません。むしろ、高慢になってしまう可能性の方がはるかに高いのです。そういった意味では、確かに私たちはルターの言うように、「人間は神の前に良い事など何一つできない。人間が行うことは神の前には全部罪であって、人間は神の前に正しいことを選ぶことなどできない」存在です。ですから、私たちの内側には神の子として頂き、永遠の命をいただける理由などは何もないのです。しかし、そんな私たちでも、私たちがイエス・キリストというお方を信じ、心に受け入れるならば、このお方は私たちの心の中に住んで下さいます。人から踏みつけられるまでに、自らを低くされ方が、私たちの心の中に住み、私たちの中にいて下さるのです。

確かに、私たち自身は神に誇る事など何もない者です。しかし、私たちの心の中に住んでいて下さるイエス・キリスト様というお方は、神に対して誇ることができる謙虚さと謙遜さを持たれる「道」なるお方です。ですから、私たちは、自分自身を神に誇ることはできませんが、私たちの心の内にいて下さる「主なるイエス・キリスト様を誇る」ことができるのです。 そして、このお方の故に、私たちもまた神の子としての身分が与えられ、神の国に受け入れて頂き、永遠の命のうちに入れて頂くことができるのです。ですから、私たちはこの世の価値によって自らを誇る者ではなく、この世の価値とは全く逆の所に身をおかれたイエス・キリスト様を誇るものとなっていきたいと思います。

お祈りしましょう。