『信仰と信頼』
創世記 22章1−14節
ローマ人への手紙12章1節
2008/3/2 説教者 濱和弘
賛美 139、218、388
今年は、イースターは3月23日になります。イースターと言いますと、だいたい4月というイメージがありますので、3月23日がイースターといわれますと、何だか今年のイースターは随分と早いなと言う感じが致します。実際、イースターは春分の日(現在は春分の日を3月21日に固定して起算)の後にくる最初の満月の次の日曜日と定められていますので、3月の21日から4月の24日までの間のいずれかの日曜日がイースターとなりますので、3月23日というのは、3番目に早いイースターの日付と言うことになります。このイースター、イエス・キリスト様が十字架につけられ、復活なさられたことを記念する日でありますが、われわれ西方教会のでんとうにある教会は、このイースターの前の6週間、厳密には46日間をレントと呼ばれる特別な期間としています。レントというのは、四旬節というふうに訳されますが、それはこのレントが、イエス・キリスト様が救い主としての公の生涯に入られる前に、荒野で40日間断食をして過ごされたことにちなんで、イースターの前の40日間を、教会暦における特別な期間としたわけです。
イエス・キリスト様の救い主としての公の生涯は、十字架の死と復活という出来事が頂点にあります。この十字架と復活という出来事に向って、イエス・キリスト様の御生涯はあったと言っても過言ではありません。そして、その十字架と復活という出来事は、私たちの罪を赦し、私たちに神の命である、永遠の命を与えるためのものだったのです。ですから、イエス・キリスト様の救い主としての公の生涯は、私たちの罪の赦しと永遠の命をあたえるためのものであったといえます。その公の生涯に入られるまえに、イエス・キリスト様は荒野で40日間断食をし、悪魔(サタン)の試みに合われたのです。それは、救い主として、ふさわしく整えられる為でありましたが、救い主として、神のお心に添い生きる、神と神の言葉に従ってどこまでも従順に生きていく、そのための備えの時だったのです。このイエス・キリスト様が救い主として公の生涯に立たれる前の備えの時が40日間であったと言うことは、おそらくイスラエルの民が、エジプトの地で奴隷として苦しんでいたときに、神がモーセをお立てになり、そのモーセを通して、イスラエルの民をお救いになった出エジプトの出来事と関係しているのではないかと思われます。
この出エジプトの出来事は、イエスラエルの民が、先ほどお読み頂いた聖書の箇所に出てまいりましたアブラハム・イサク・そしてヤコブと神様が結ばれた約束に基づいています。神様はアブラハム・イサク・ヤコブと契約を結び、彼らの子孫であるイスラエルの民を神の民として選び祝福なさると約束したのです。だからこそ、神はイエスラエルの民がエジプトで苦しんでおられるときに、その苦しみを見て彼らをエジプトから救い出されたのです。それは、彼らが約束に基づく神の選びの民だったからです。ところが、彼らは神の約束のもとに神の選びの民でしたが、実情はとても神の選びの民と呼ぶにはふさわしいものではありませんでした。というのも、神は、エジプトから出てきたイスラエルの民が安住できるようにと、カナンと呼ばれる地域に導いてこられました。カナンと呼ばれる地域は、もともと彼らの祖先であるアブラハム・イサク・ヤコブが住んでいた地域で、彼らにとっては故郷のような所です。そして、そのカナンの地は乳と蜜が流れると言われるほど良い場所だったのです。神は、そのようなところにイスラエルの人を導いてくださいました。ところが、イスラエルの民がエジプトに滞在していた期間は、だいたい400年間ぐらいです。いくらかつては自分たちの祖先が住んでいたところであったとしても、400年もたちますと他の民族の人たちがそこに住むようになっています。
そこに、一つの民族が丸ごと移住しようとするのですから、色々な軋轢や争い問題が起ってくることは容易に想像ができます。いやそれは、単なる軋轢と争いと言ったもの以上の、まさに戦争といって良い状態だといえます。今日もそうですが、たとえば、現在のコソボとセルビアの問題にも見られるように民族と領土の問題がからみますと、戦争という悲劇に至るということは、歴史の中でくり返されてきたことです。ですから、イスラエルの民は、当然戦争が起るであろうということを予測して、自分たちが戦う相手がどんな相手であるかと言うことを調べます。そして、そこには、自分たちには到底勝てそうもないと思われるような強そうな人々が住み、自分たちでは到底攻め落とせそうもない堅固な城壁に覆われた町が立っているというのです。そのため、イスラエルの民は神がカナンの地に導いておられるのに、その神の導きに従わず、カナンの地に入っていこうとしませんでした。彼らは神の民でした。神の民というのは、神の言葉にききしたがって生きる者達の群れです。イスラエルの民は、神との約束のもとで神の民ではあったのですが、しかし、実際には、神の民にはなっていなかったのです。正確に言うならば、神の民らしくなかったと言うことだと思います。
そこで、神様は、イスラエルの民を荒野に導いて良かれました。そして40年間に渡って荒野の放浪させ、神に言葉に聞き従って生きると言うことを学ばせたのです。その荒野の40年間に呼応して、キリスト様が40日間荒野で、断食しサタンの試みに合ったと考えられわけです。それはつまり、イエス・キリスト様がなされた救いの業、私たちの罪を赦し、永遠の命を与え神の今年、神の国で生きるものとしてくださるという、その救いの業のためには備えが必要だということです。イエス・キリスト様は神のひとり子でありますから、神であります。しかし、その三位一体の神における子なる神として存在しておられたお方が、私たちの救い主となるために、人間となられた。私たち人間を救うのですから、自らも人間となって神の言葉に聞き従って生きる者となって下さったのです。その神と人との間に立つ救い主として、神に聞き従って生きると言うことの備えを、イエス・キリスト様は荒野の40日間の試練を通してなして下さいました。それは、イエス・キリスト様の十字架の死を私の罪の赦しのためであり、イエス・キリスト様の十字架の死と復活が、私に永遠の命を与えてくれるのだということを信じ、信頼する者を神の子、神の民とするためです。
ですから、イエス・キリスト様が十字架の上で死なれ、復活なさったことは、私たちに対する新しい神の約束なのです。イエス・キリスト様を信じクリスチャンとなった者は、この十字架と復活によって結ばれた新しい約束のもとで、神の子であり、神の民なのです。しかし、先ほど出エジプト記のイスラエルの民の姿を通してお話し致しましたように、神の民であるということと、神の民になるということは必ずしも同じではありません。私たちは、イエス・キリスト様の十字架の死と復活のよってもたらされた新しい約束を信じるならば、だれであってもその約束のもとで神の子であり、神の民であります。ですから、神の子であり神の民であるならば、当然、神の子となり、神の民となっていかなければなりません。そのためには、私たちも神の子となり、神の民となっていくための備えが必要なのです。そんなわけでしょうか、このレントの期間には、神の前に罪を悔い改め、肉を食べないとか節食をするという事がなされてきました。もちろん、肉を食べないということや節食をするという行為自体に、何か特別な効果や効能があると言うことではありませんが、そうやって、神の約束にのもとで神の子、あるいは神の民とされているという自分自身の在り方を見つめるのです。
そのレントの期間に、もう既に入っている。昨年までは、私たちの教会では、特別にレントという教会暦にあわせて礼拝説教を行うということをしてきませんでした。けれども、今年から、少しずつレントという教会暦にそった説教もしてきたいと思っています。その最初として、私は、先ほどお読み頂いた創世記22章の箇所から御言葉をお取り次ぎしたいと思っています。それは、既に申し上げましたように、神の子となるということは、神の言葉に聞き従う者となるということだからです。私たちは、イエス・キリスト様の十字架の死と復活の出来事によってもたらされた神の約束のゆえに、一切の罪が赦され、神の子として神の永遠の命をいただいています。そのように、神の約束のもとで神の子とせられ、神の民の群れである教会に加えられたのですから、私たちは、神の民らしく神の言葉に聞き従って生きる者とならなければならないのです。そういった意味では、この創世記22章のアブラハムの姿は、神の言葉に聞き従って生きると言うことを厳しく突きつけられた人であったといえます。ここにおいて、アブラハムは、自分の愛する子イサクを燔祭として捧げなさいと命じられます。
燔祭とは、生け贄となる動物を殺して祭壇で残部焼きつくすことによって神への捧げものとすることで、旧約聖書の時代に行われていた宗教的儀式です。ですから、イサクをその燔祭の捧げものとして捧げなさいということは、イサクを殺して、それを全部祭壇の焼きつくしてしまうということに他なりません。それを神はしなさいとアブラハムに命じるのです。自分の愛する子供、しかも、自分が100歳になって与えられた最も愛する子供を生け贄として殺しなさいといわれたアブラハムの心の内はどんなものであっただろうかと思うのですが、聖書は、そのアブラハムの心情などまったく無視するかのように、たんたんと神の言葉に従うアブラハムの姿を描いています。神はイサクを生け贄として捧げることを命じられ、アブラハムはその命令に黙々と従い、自分の愛する子を捧げるための神が示された山に息子のイサクと二人だけで向って出かけていきます。そして、祭壇を築き、犠牲となる生け贄を焼くためのたきぎが並べられ、その上にイサクを寝かして、刃物ととってその子を殺そうとしたときに、神が、アブラハムを留めるのです。そして、神はこう言われる。「わらべに手をかけてはならない。あなたの子、あなたのひとり子さえ、わたしを惜しまないので、あなたが神を恐れる者であることを私は今知った。」
アブラハムと神との関わり合いは、何も昨日、今日始まったことではありません。アブラハムがまだアブラムと呼ばれていた75歳頃から、神様はアブラハムに関わられ、彼をメソポタミヤのウル、現在のイランあたりから、現在のパレスチナに導いてこられたのです。その際、アブラハムはただ神が私の示す地に行きなさいという言葉に従って、当時、文明が栄え繁栄していたメソポタミヤの地にあるウルの町から、当時はまだ未開の地であったパレスティナへと旅だっていったのです。なのに神は、アブラハムが、神の命令に従ってイサクを犠牲として捧げるために殺そうとしたその時になって、始めて「今日、私はあなたが神を恐れる者であることを知った。」といわれるのです。これは一体どういう事でしょうか。実は、アブラハムが、神の言葉に従って、ウルの町からパレスティナに出ていくとき、神は、私の示す地に行きなさいというときに、こう言われているのです。「あなたは国を出て、親族に分れ、父の家を離れ、わたしの示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基となるであろう。」(創世記12章1節、2節)そのあとも、神はアブラハムに何度も祝福の約束を繰り返し、切り返ししています。そのような、祝福を約束される中で、アブラハムは神に従ってきたのです。そして、彼の愛する子イサクは、神がその約束を確かに実現して下さるという証だったのです。
ところが、このイサク献際の出来事を見て参りますと、神は、アブラハムにイサクを神への生け贄として殺しなさいと命じられたときに、そのような祝福の約束を一切アブラハムに語ってはいません。ただ、生け贄として捧げなさいといわれているのです。大きな祝福を与えてあげるから私に従ってきなさいと言われて従っていくことと、このアブラハムのように、苦渋の選択であっても私に従って来なさいと言うのでは、従うという行為であってもその質は全く違う者です。以前、ある方が子育てについてこのようなことを言っておられたことを記憶しています。それは随分と昔の話ではありますが、このような内容であったと記憶しています。「子供にお手伝いを頼むときに、たとえば『これこれのお手伝いをしてくれるたら、あとでお菓子をかってあげるわよ。』とか『お小遣いをあげるから、お使いにいってきてくれる』というような言い方は、あまり良いとはいえないのではないか。お手伝いは、家族が協力しあい、親を助けるために子供がすることであって、物やお金でつるようにしてお手伝いをさせてはいけないと思う」とその方は言われるのです。私は、その言葉を聞いてなるほどそうだなと思った者ですから、その言葉を覚えていたわけでありますが、それと同じ原理を、このアブラハムがイサクを神に捧げると言う物語の中に感じるのです。「私に従ってきなさい。そしたら、あなたは沢山の祝福を与えてあげよう。」と言われて、「はい、そうですか。それではあなたに従いましょう」では、たしかに神様に従っているのではありますが、それは御利益信仰であり、自分中心の自分勝手な信仰です。
しかし、ここで神様が求められたのは、そのような自分中心の信仰ではなく、本当に神を畏れ敬うところの信仰であり、自分中心の信仰ではなく、神中心の信仰なのです。神様が、ここにおいて「あなたが神を恐れる者であることをわたしは今知った」といわれている「神を恐れる」ということは、何も神に恐れ怯え、怖がると言う意味で「神を恐れる者であることを今知った」というのではありません。そうではなく、「神を畏れ敬う者、神が神であるから畏れ敬う、そう言う者であることを今知った」と言われるのです。言い換えれば、神が私に何か良いことをしてくれるとか、何か恵みや祝福を下さるから神を信じ、敬うといった自己中心的な信仰ではなく、神が神であるから、私は神を信じ、神にすべてを捧げてお従いしますという神中心の信仰であるということです。まさに、そのことを明らかにするために、アブラハムを試み「あなたの子、あなたの愛するひとり子イサクを連れてモリヤの地に行き、わたしが示す山で彼を燔祭としてささげなさい」とそう言われたのです。もちろん神は、私たちに絶えることのできない苦しみを与え、試練を与えて困らせようとするお方ではありません。むしろ、神は私達を愛し、祝福し、恵みを与えたいと願っておられるお方です。
だからといって、神は私達が、神がそのように、私たちを愛し、私たちを恵み、祝福して下さるお方だから神を信じるといった信仰を望んでおられるわけではありません。神様は、「ご自身が神であり、私たちの主権であられるがゆえに、神を信じ、神の言葉に従って生きる」、そう言う信仰をアブラハムに求めておられたのです。このアブラハムこそが私たちの信じる神です。ですから、神はアブラハムと同じように、私たちの主権者であられます。そして、神は、私たちに、「神様、わたしはあなたが私に荷恵みを与えて下さるお方だからあなたを信じます」というような信仰を求めておられません。神は私たちにも「神様、あなたが私の神であられますから、私はあなたの御言葉に聞き従います」という、そのような信仰を求めておられるのです。それは、まさに自らを神に捧げる献身ということなのです。献身とは何も伝道者になる、牧師になりということを意味しているわけではありません。それは実に狭い意味での献身ということです。献身と言う言葉の本来の意味は、「私は神の言葉に聞き従っていきます」ということであり、キリスト教の信仰に置いては、信仰は献身であって、信仰と献身とは同義語なのです。つまり、神を信じるということは、献身すると言うことでもあるのです。
もちろん、神が私たちを苦しめ、いじめ、痛みつけられるだけのお方であるならば、とてもそのお方を信じることはできません。しかし、神は決してそのようなお方ではないことを、歴史の中で、私たちに明らかに示して下さいました。それは神が、まるでこのアブラハムの物語のように、ご自分のひとり子であるイエス・キリスト様を私たちの罪の赦しのために、十字架の上で犠牲とされることで、私たちを救って下さったからです。それは、その十字架につけられた神イエス・キリスト様は、私たちと同じ肉体を取ることで、私たちの味あう苦しみや悩みを共に負って下さり、共に味わって下さったのです。アブラハム・ヘッシェルという人は、聖書の神を、私たちに共感する神であると言いましたが、まさに私たちの罪を共に負い、共に悲しみ、共に苦しみ、そして私たちと寄り添って下さるお方なのです。だからこそ、私たちはこの神を、恵みや祝福をご褒美として下さるから従うというのではなく、このお方がただ私の神であるがゆえに信じ、このお方の言葉に従うことができるのです。そして、私たちが神は私達に寄り添って下さるお方であると信頼するときに、私たちは神に自らを捧げ、このお方の言葉に従っていくことができるのです。ですから、信仰は信頼でもあると言うことができます。信頼とは、相手に自分のすべてを与えることだからです。つまり、信仰は神に対する献身であり、かつ神に対する信頼なのです。
私は、今日の礼拝説教で、旧約聖書創世記22章の1節から14節を開かせて頂きました。同時に、新約聖書のローマ人への手紙12章1節の箇所も読んでいただきました。そこには、私たちが自分自身を聖なる供え物として神に捧げることの大切さが語られているからです。そして、それこそが献身と言うことなのですが、その献身が神の前に現されている場所が、礼拝という場所なのです。だからこそ、私たちは聖日の礼拝ということを軽んじめてはなりません。礼拝を大切にし、誠実を厳守すると言うことが重んじられなければならないのです。考えてみれば、私たちが礼拝をするためには、時間を捧げなければなりません。大切な休日の午前中の時を捧げ、労力を捧げて奉仕もする。また献金と捧げると言うこともある。礼拝はまさに捧げる場であります。
先日、私の剣道の師範が、私の昇段の件で話しかけてこられました。この三鷹を含む東京多摩地区では、毎年11月23日に昇段試験を行っています。実は、私は今年で3段の昇段試験を受ける資格が与えられるのですが、今年の3段の昇段試験の日付である11月23日が日曜日と重なっているのです。そして、閏年の関係で来年も同じ状況です。そんなわけで、何とか日曜日に休みをとって、昇段試験を受けられないかというのです。もちろん、そんなことはできようはずもありませんので、「無理ですね」とお答えしますと、「一日だけ代休を取ると言うこともできないのか」と言われるのです。しかし、そのようにお考えになるのもわからないわけではありません。礼拝が、単に自分の仕事の一貫としてあり、それが単なる職務であり、職務上の義務あるならば、一日だけ代休をとるという事もできるのかも知れません。しかし、礼拝は神に対して自らを捧げる献身ですから、剣道の昇段試験という自分の都合で休むわけにはいかないのです。もちろん、みなさんお一人お一人は、会社や地域のつながり、学校荷関することといった様々な環境の中におられますから、どうしても礼拝に出られないというやむを得ない事情もあろうかと思います。病気のためや恒例になられたために出られないと言うことだってあるでしょう。
ですから、確かに礼拝に出られないということも実際にはあるのです。そして、それは決して責めることはできませんし神様もそれをお責めになるということはなさらないと確信しています。けれども、もし、そのような事情を越えて、私たちの中に礼拝を軽く考えている気持ちが合ったとしたら、「まぁ、いいや」と言う気持ちがあったとしたら、それは少し考えなければなりません。それは献身を軽んじめることであり、すなわちそれは信仰を軽んじることでもあり、さらには神に対する信頼すると言うことを傷つけていることにもなってしまうからです。私たちは今、イエス・キリストサマの十字架の死と復活に備えたレントの期間にあります。だからこそ、神のひとり子が神である身分を捨てて、人となって私たちの為に自らを捧げて下さったことを覚えながら、私たちもまた、神に自らを聖なる供え物として捧げて生きる信仰を歩みたいと思います。神も私たちの自らを捧げて下さったのですから、私たちも神に自らを捧げるものでありたいのです。
お祈りしましょう。