『靴を脱ごう』
ヨシュア記 5章13−15節
ヨハネによる福音書13章1−17節
2008/3/9 説教者 濱和弘
賛美 19、379、104
さて、今週はレントの第5主日になります。このイエス・キリスト様の十字架の死と復活を記念する時を控えたレントの期間の説教として、先週は、創世記24章のアブラハムが、神様からその最も愛する子イサクを捧げなさいと命じられ、それに従ったところからお話し致しました。もちろん、神様は、人間を生け贄として殺すことを望んでおられたわけではありません。そのような、親にとって過酷とも思われるような命令をアブラハムに命じることで、彼が自分のために神を信じるのではなく、神が神であられるから畏れ敬う信仰をもっているかをお確かめになったのです。それは、アブラハムを通して多くの民が祝福を受け、アブラハムが信仰の父、信仰者の模範と呼ばれるような人物に成るためには、どうしても明らかにしておかなければならないことだったのです。すなわち、信仰の本質、あるいは本物の信仰というものは、ただ神が神であるがゆえに、畏れかしこみ、かみを崇めるのが信仰であって、何か自分の利益のために、あるいは自分の願望のため神を信仰するということは、本当の信仰ではないからです。神が神であるがゆえに、神を畏れかしこみ、神の言葉に聞き従うということが、信仰と言うことの本質にある。
ですから、その神の言葉に聞き従う信仰というものは、自らを神に捧げるという献身でもあるのですということを申し上げました。そして、ローマ人への手紙12章1節に「あなたがたの体を、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それがあなたがたがなすべき霊的な礼拝である。」ことが、霊的な礼拝である」と言われておりますので、神を信じると言うことは神を礼拝するというとにも繋がるので、礼拝を大切にしよう。主日を大切にしようということをお話し致しました。特に、今の時代の中で、また日本という社会の中にあっては、会社や、地域とのつながり、あるいは学校関係のことや、どうしても礼拝を守ることができない現実があります。だからこそ、私たちは、仮に礼拝を休まなければ事情があって、礼拝を休むという事があったとしても、心の中に、礼拝というものを大切にする心を失なってはならないのだということをお話し致しました。そこで、今週の聖書の箇所です。今日の聖書の箇所は、イスラエルの民が、奴隷として苦しい生活をしていたエジプト地から助け出され、神が約束して下さった永住の地であるカナンの地にやって来た直後の事が記されているところです。先週もお話し致しましたが、イスラエルの民は、神がアブラハムに、「わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基のなる」という約束のゆえに、神の選びの民でした。だからこそ、神は彼らがエジプトに奴隷になって苦しんでいたとき、彼らの苦しむ声を聞いて、彼らを救い出されたのです。
しかし、エジプトという異境の地で400年間も暮していたイスラエルの人々は、かつてアブラハムが、神の言葉に無条件に従って自分も愛する子イサクを捧げようとして程に、神を畏れ敬い、神の言葉に聞き従うと神の選びの民としての姿を見ることは出来ませんでした。そこにあったのは、自分の置かれている現状に文句ばかりを言い、つぶやき、神の言葉に聞きしたがうのではなく、むしと自分の思いや願望を遂げようとするそんな姿だったのです。けれども神様は、そのようなイスラエルの民の姿をごらんになられても、彼らのことをお見捨てには成なりませんでした。神は、アブラハムに、彼の子孫を神の民とするという約束のゆえに、彼らを決してみすてることなく、荒野で40年間も放浪させることで、神の民として整え、神の民らしく成るように育て導かれてから、約束の地に招き入れられたのです。神は、イスラエルの民に対してじっと忍耐し、彼らを見守り続けてられたのです。まさに神の愛と慈しみがそこにあったと言えます。そして、イスラエルの民は、いよいよ神が彼らに永住の地として与えると約束したカナンの地に入っていくのです。それは、モーセによって奴隷となっていたエジプトの地から脱出するという救いの出来事が、今まさに完成しようとしている時であるといえます。
けれども、そのカナンの地には、既に住んでいる人々がいるのです。そこに一つの民族が移住して行くのですから、当然、そこに争いが起ってくる。その最初の戦いになるのが、先ほどお読み頂いたヨシュア記5章13節から15節に続く、6章以降に記されているエリコという町との戦いです。そのエリコとの戦いに入る直前の出来事がしるされているのが、ヨシュア記5章13節から15節なのですが、そこでは、主の軍勢の将がヨシュアの前に現れたことが出ています。ヨシュアというのは、この時のイスラエルの民の指導者です。イスラエルの民をエジプトから導き出してきたモーセは、彼らが約束の地カナンに入る前に死んでしまいましたが。しかし、モーセがそのなくなる前に、彼は自分の後継者としてヨシュア選んでいました。ですから、このときはヨシュアがイスラエルの民の指導者として民を導いていたのです。そのヨシュアの前に、主の軍勢の将が現れたのです。そのとき、ヨシュアは主の軍勢の将の前にひれ伏して、「わが主は何をしもべに告げようとなさるのですか」とたずねます。そうすると、主の軍勢の将は、ヨシュアに「あなたの靴を脱ぎなさい。あなたが立っているところは聖なる所である。」と、そう言うのです。
この「あなたの立っているところは聖なる所だから靴を脱ぎなさい」という言葉は、モーセが神からイスラエルの民をエジプトから助け出すという使命を与えられたときに語られた言葉と同じ言葉です。そして、その救いの出来事が、今まさに完成しようとしているときに、再びヨシュアに「靴を脱ぎなさい」と命じられるのです。ですから、神は救いの始まりにおいても、「靴を脱ぎなさい」と言われ、まら救いの完成の時においても「靴を脱ぎなさい」と命じておられる事になります。それほど、「靴を脱ぐ」という行為においてしめされることは、私たちにとって大事なことなのです。この「靴を脱ぐ」という行為は、第一には、神に対する敬意を、神を畏れ敬いなさいと言うことを意味していると考えられます。というのもこの当時、聖書に入るときには靴を脱いで入ったからです。神と出会うときには、敬虔な畏れと敬う心を持って神様とお会いする、その心を靴を脱ぐという行為を通して示したのです。この靴を脱ぐという行為の持つ二つ目に意味は、自分は僕であるということを示す行為だと言われます。というのも僕は普通、靴を履いていないからです。ですから、モーセも、ヨシュアも「靴を脱ぎなさい」と命じられたのは、私は神の僕であり、神の御言葉に聞き従う者ですという信仰の告白が求められたと言うことなのです。
この靴を脱ぐという行為が示すもう三つ目の意味は、罪と汚れから離れると言うことです。靴というものは、地面と接していますから、最も汚れる部分です。それは、まさにこの世の罪と汚れに汚れている私たちを象徴するような者だと言えます。その靴を脱ぎなさいというのは、靴に象徴される罪と汚れから離れて聖いものとなりなさいと言うことを意味しているというわけです。このように、神の軍勢の将は、抜き身の剣を手に持って、これから神の始められた救いの業が完成しようとしているときに、ヨシュアに、神を畏れ敬う心をもう一度しっかりと心に据えることを求め、また神の言葉に聞き従いますという信仰の告白を求め、さらには、罪から離れて聖い者となりなさいと言われるのです。イスラエルの民に指導者であるヨシュアに「靴を脱ぎなさい」と命じられたと言うことは、ヨシュア一人だけではない、ヨシュアに導かれているイスラエルの民のすべてが、同じように「靴を脱ぐことを求められているのです。イスラエルの民は、エジプトから救い出されました。神は葦の海を二つに割り、それによってできた海の道を、イスラエルの民に歩いて渡らせ、また水が濁流のように溢れるヨルダン川も干上がらせて、そこもまた人々を歩いて渡らせ、彼らを約束後へと導いてこられたのです。そうやって、彼らはエジプトの地から脱出し、奴隷であったところから救い出されたのです。そのように、神の救いに与っているからこそ、靴を脱がなければならないのです。
私たちは、いま2008年のレントの期間を過ごしています。おおよそ2000年前にイエス・キリスト様は、十字架にはり付けられ、私たちの罪に赦しをもたらし、罪によって断絶していた神との関係に和解をもたらして下さいました。それによって、死すべき運命にある、私たちに神の命である永遠の命を与えて下さいました。ですから、神を信じる者は、イエス・キリスト様が、この世の終りに再びこられる再臨の時に、神が罪をお裁きになる最後の審判の時に、決して裁かれることなくして、神の国へと導き入れられるのです。確かに、私たちは、この肉体の死というものを一度は経験します。死は誰にでも平等にやってくる。けれども、神を信じる者にとって、その死は決して終りではないのです。イエス・キリスト様が、十字架のつけられ死んで葬られ、三日目に復活なされたように、たとえ一度は死を経験したとしても、私たちもまた、この世の終り、終末の時に神の命をいただくという救いに与ることができるのです。もちろん、それを証明しろと言われても、それを証明する術はありません。私たちには、それが神の約束であり、聖書に記されているイエス・キリスト様の十字架の死と復活の出来事ゆえに信じるしかない信仰の内容です。しかし、それを神の約束であるからと信じ受け入れる者は、この神の約束のゆえに救われているのです。
ですから、この神の約束に立つ私たちは、このレントの期間に、この「あなたの靴を脱ぎなさい」とヨシュアに命じられた言葉を、自分自身のこととして受け止めたいのです。そして、本当に自分自身は靴を脱いでいるかどうかを問いたいと思うのです。そういた意味では、先週の礼拝説教も同じ問いかけであったと思います。先週の礼拝説教を一言で言うならば、最初に申しましたように、「神を畏れかしこみ、神の言葉に聞き従わなければならない」と言うことでした。そして、その神を畏れかしこみ、神の言葉を聞き従うということを具体的に示すならば、それは神を礼拝すると言うことであり、だからこそ、聖日の礼拝を軽んじめてはならない。大切にしよう申し上げたのです。だとすれば、靴を脱ぐと言うことの三つ目のこと、「罪や汚れから離れ、聖い者となる」ということは、具体的には度のようなことで示されるのでしょうか。もとより、罪や汚れから離れるということは、法律上の罪や倫理道徳的に悪いと思われることをしないといったことを含んでいます。しかし、法律上の罪や倫理道徳的な罪というのは、非常に相対的なものです。たとえば、法律上の罪といっても、国々によって法律は違います。ですから、何を持って罪とするかは国々によって違います。ましてや倫理上の罪となりますと、国々の違いだけでなく、世代間によっても違います。いえ、極端な話、倫理道徳的善悪観というものは、一人一人の受け止めかたによっても違ってくるのです。
もちろん、私たちクリスチャンにとっては、聖書という一つの基準がありますから、それに基づいて考えることができます。しかし、その聖書の記述であっても、聖書は書かれた時代背景を背負っていますから、聖書が現代の私たちが生きている時代のすべてのことを網羅しているとは言えません。ですから、神学の世界でもキリスト教倫理という学問分野がおかれ、そこにおいて、現代における様々な問題の中で、私たちは、クリスチャンとして如何に生きていけばいいのかが問われ、様々な問題に直面したときにどのような原理で行動すべきか考えられているのです。もちろん、それは大変な作業です。そこには、さまざま考えや主張があります。それこそ、規範倫理や状況倫理と呼ばれるような様々な考え方がある。しかし、そのようなある種多種多様な考え方中で、一つだけはっきりとしていることがあります。それは、「私たちが『罪や汚れから離れ、聖い者となる』と言うことの中心にあるものは、愛するということである」というです。私たちが他者を愛するとき、私たちは、罪や汚れといったものから離れた純粋な動機で行動できるのです。ですから、「罪や汚れから離れ聖い者になる」ということの具体的な現れは愛すると言うことなのです。
だからこそ、イエス・キリスト様は次のように弟子たちに言い残されたのです。それは、ヨハネによる福音書13章34節、35節の言葉です。そこにはこう書いてあります。「わたしは、新しい戒めをあなたがたに与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによって、あなたがたが私の弟子であることを、すべての者が認めるであろう」イエス・キリスト様の弟子というのは、イエス・キリスト様の言葉に聞き従う者であり、それはつまり神の言葉に聞き従う者です。弟子は師匠の言うことに耳を傾けて聞き、師匠にならうものだからです。ですから、イエス・キリスト様の弟子は、イエス・キリスト様に倣って、互いに愛し合う者となるというのです。実は、この「わたしがあなた方を愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と言うイエス・キリスト様の言葉は、先ほど司式の兄弟に読んでいただいた同じヨハネによる福音書の13章1節から17節までの出来事と深く関わっています。
このヨハネによる福音書の13章1節から17節までの出来事は、一般に「洗足」と言われていますが、イエス・キリスト様が弟子たち一人一人の足を洗い、「あなたがたも互いに足を洗いあいなさい」と、そう言われた事が記されています。この汚れた足を洗うというのは、通常は僕がすることであり、主人や師たるものが自分の僕や弟子たちの足を洗うと言うことはしません。しかし、イエス・キリスト様は、その普通紙ないことをあえてなさったのです。つまり、「私はあなたの罪を赦し、あなたの汚れをきよめるのだ」ということを、汚れた足を洗うという行為を通して示されたのです。そして、イエス・キリスト様が「わたしが愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」といわれた「わたしが愛したように」というのは、この「足洗」の出来事で示した愛なのです。ですから、「あなたがたも互いに愛し合いなさい」ということは、「互いにお互いの罪や汚れを赦しあうほどに愛し合いなさい」と言うことなのです。そして、それは決してできないことではありません。なぜなら、すでに私たちはイエス・キリスト様が、私たちの罪を赦し、私たちの汚れをきよめて下さっているからです。私たちは既に、神のひとり子であるイエス・キリスト様の十字架の血潮で聖い者とされているのです。
私自身もそうですし、おそらくみなさんもそうであろうと思いますが、私たちは自分自身の心の中を見るならば、「決して汚れなどない。罪などない」と言い切ることはできないのではないかと思うのですが、どうでしょか。いやむしろ「自分は何と心の汚れた、心の醜いものであり、本当に罪人である」と認めざるを得ないとさえ思うのです。その私の罪や汚れを、イエス・キリスト様は全部赦して下り、さらには、父なる神に執り成し、父なる神もまた、その私の罪と汚れを赦して下さったというのです。私たちが、心からその自分の罪や汚れを認め、それを悔いているならば、その赦しは大きな喜びです。そして、本当に罪赦され汚れがきよめられたことを感謝し喜んでいるならば、私たちも、イエス・キリスト様と同じように、他の人たちの罪や汚れを赦すことができるはずです。父なる神に、またそのひとり子なる神に罪赦され汚れを赦された者だからこそ、私たちもまた、人の罪や汚れを赦す者となれるのです。神が罪と汚れを赦して下さったのですから、私たちはもはや地の誇りや土で汚れた靴を履くことはできません。ですから靴を脱がなければ成りません。そして、靴を脱ぐとは、そのように私たちもまた、人の罪を赦し、愛し合う者と成ると言うことなのです。
この「互いに足を洗いあう」ということを、礼拝のような宗教儀礼として行うということを、私たちの教会ではしていませんが、しかし今日でも、実際にこのイエス・キリスト様の言葉に従って、互いに足を洗いあうことを行っている教会が少なからずあります。普通は、このレントの期間中の受難週の水曜日に、洗足の水曜日といって、それを行っているのです。そして、そうやって互いの足を洗いあうことで、私たちは互いの罪を許しあい、互いに愛しあうキリストの弟子なのだということを確認しているのです。もちろん、互いに赦し合い、そして愛し合うと言うことは儀式や制度によって成り立つものではなく、心によって成り立つものです。ですから、洗足の水曜日を行わないからといってキリストの弟子ではないと言うことではありません。しかし、そうやって儀式によってくり返し確認しなければならないほど、私たちの心は人を赦し、愛すると言うことにおいて、弱くもろい者なのです。ですから、私たちは、このヨシュア記において神の軍勢の将が、抜き身の刀を持って、ヨシュアに「あなたの靴を脱ぎなさい。あなたが立っているところは聖なる所である。」と迫った言葉を心に留めていなければ成りません。
ヨシュアが靴を脱ぎ、そしてイスラエルの民が靴を脱ぬいで、神を畏れ敬い、神の言葉に聞き従い、罪から離れ、互いに愛し合う者として一つに結ばれなければ、せっかく奴隷の地エジプトから救いだされた約束の地であるカナンの地に入ってきたのに、それを勝ち取る事ができないのです。みなさん。私たちはもう既に救われています。イエス・キリスト様を信じ受け入れたときに、私たちはもう罪赦され神の子とされ、永遠の命を約束されているのです。そのイエス・キリスト様が十字架でながされた血潮によって結ばれた新しい契約のゆえに、私たちは神の民なのです。だからこそ、私たちはその約束された救いを確かなものしていかなければ成りません。もちろん、それはやがて来る主イエス・キリスト様の再臨の時、世の終りの時に完成されるものです。けれども、ただ将来に完成されるものというだけでなく、私たちが生きている今と言うときにも、その救いを目にみえる形で著わしていけるのです。それは、やがて来る神の国にある赦しの喜び、愛し合う事の喜びです。私たちが教会で、互いに罪を赦し合い、愛し合うことで、お互いを喜びあうそのような教会、愛し合う共同体を築き上げていくならば、そこで具体的に神の国の前味を味あう事ができきるのです。
もし私たちが、赦すことができず、愛することができなければ、そこには憎しみや嫉妬が生まれてきます。そして、それらを神は決して喜ばれません。それは罪の温床になるからです。ですから、私たちは、ヨシュアのように靴を脱ごうではありませんか。私たちが靴を脱ぐならば、私たちは必ず、神の救いの恵みと愛の中を生きていけるのですから。
お祈りしましょう。