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メッセージ

羊飼い 『キリストの受難』
イザヤ書 53章1−12節
ヨハネ第一の手紙3章16節 2007/3/16 説教者 濱和弘
賛美 : 114,108,102

さて、今週は受難週です。ですから14日が受難日になります。ですから、みなさんには、今週一週間は、ぜひイエス・キリスト様の受難の出来事を思い起こしながら過ごしていただければと思います。たとえば、カトリック教会や聖公会の教会には、十字架の道行きとよばれるものがあります。それは、実際は聖地エルサレムにある、イエス、キリスト様が、ローマ総督ポンテオ・ピラトから死刑宣告を受け、十字架につけられるまでにあった14の出来事のあとをたどる道なのですが、その14の出来事を絵画や彫像、あるいはステンドグラスにあらわし、一定の道筋に順序立てておかれているのです。その描かれた絵画や彫像がある場所はステーションと呼ばれます。ステーションというのは停留所という意味ですが、第1ステーションから第14ステーションまであってそのステーションの前に来ると、それぞれの場面でのイエス・キリスト様の苦しみを思い、静かに黙想し祈りを捧げるのです。私たちの教会はプロテスタント教会ですが、プロテスタントの教会は、絵画や彫像の前で黙想したり祈ったりしますと、なにか偶像礼拝をしているような感じがして躊躇してしまうのですが、十字架の道行きにおいて、絵画や彫像の前で祈り黙想するのは、決してその像や絵画に対して礼拝を捧げているわけではありません。

あくまでも、そのステーションにおいてイエス・キリスト様の苦しみを思い黙想し祈るのです。私は、このような習慣というのは、貴重なものではないかと思っています。そうやって、イエス・キリスト様の苦しみの一つ一つを黙想し、思いめぐらすことによって、私たちが救われるために、神のひとり子がどれほど大きな犠牲を払って下さったかと言うことが、深く心に刻まれるからです。そして、それが心に深く刻まれるのに、比例するように私たちの心に、神がいかに大きな愛と恵みを私たちに与えてくださったかということがわかるのです。先ほど、司式の兄弟にヨハネ第一の手紙3章16節「主は、わたしたちのためにいのちを捨ててくださった。それによって、わたししたちは愛ということを知った。それゆえに、わたしたちもまた、兄弟のためにいのちを捨てるべきである。」というのは、まさにそのようなことであろうと思います。「兄弟のためにいのちを捨てるべきである」といわれても、私たちはなかなかそのようにできないものです。もちろん、実際にいのちを捨てなければならないような場面に出会すことはないでしょうが、命を投げ出さないまでも、相手のためにどこまで親身になってあげられるかと問われると、やはりどこかに限界を感じてしまうと言うのが実際のところだろうと思います。

そして、私はそれそれでよいと思うのです。私たち人間は、やはりどこまで行っても人間ですから、イエス・キリスト様と全く同じようになることはできません。相手は、なにせ神なのですから、そのお方と全く同じように成るということは、土台無理な話です。しかし、一歩、一歩近づいて行きたいとは思うのです。今は少ししか愛せない、少ししか赦せない。けれども、その限界の枠を少しずつでも広げていき、より多く、より深く愛したい。そのためには、より深く神の赦しの愛を知り、より深く神の恵みを心に受け止めなければなりません。そうでなければ、頭で理解したり、教えとして納得したからと言って、愛する心は、広がり深まって行かないのです。そういった意味では、カトリック教会や聖公会が、十字架の道行きを用いて、イエス・キリスト様の受難を一つ一つ丁寧に黙想し祈るという習慣をもっていることは、素晴らしいことだと思うのです。残念ながら、私たちの教会には、十字架の道行きはありません。しかし、聖書がありますから、明日から4日間、4つの福音書の受難の記事を読んで、静かに黙想し、祈ってみると言うことをしてみても良いかもしれません。あるいは、聖書の中にイエス・キリスト様が十字架の上で語られた言葉が7つ、福音書に記されています。その言葉を一日に一つ選び出して、その意味を深く考えて見るといった過ごし方もできるだろうと思います。

いずれにしても、ぜひこの受難週に、イエス・キリスト様が十字架で苦しまれたその苦しみを思い、また、なぜそのように苦しまなければならなかったのかを、思いめぐらす時を持っていただきたいのです。そして、神がどれほど私たちを愛しておられるかを知って、私たちの愛の限界を少しづつ広げていって、キリストの弟子らしく互いに赦しの愛で愛し合う教会を築き上げていきたいと思うのです。そういった意味では、今日の聖書の箇所、特に旧約聖書のイザヤ書53章は、そのイエス・キリスト様の十字架に示された愛と言うことが非常に良くわかる箇所ではないかと思うのです。ここを読みますと、なぜ、ヨハネが「主は、私たちのためにいのちを捨ててくださった。それによって、わたしたちは愛ということを知った」というのかが、わかるような気がするのです。そこで、このイザヤ書53章は、「苦難のしもべの詩」と呼ばれる箇所ですが、私ははじめてこのイザヤ書53章を読んだとき、本当に驚きました。イザヤ書は、イエス・キリスト様が生まれる700年も前に書かれたものです。しかし、このイザヤ書53章を見ますと、まさにイエス・キリスト様の御生涯と十字架の苦難がそこに描かれているような感じを受け驚いたのです。

もちろん、イザヤ書53章の著者がイエス・キリスト様という存在を知っていたわけではありません。それでは、このイザヤ書の著者は一体誰のことを思いながらこのイザヤ書53章を書いたのだろうかというと、それにはいろいろと諸説があります。たとえばこの苦難のしもべは、イザヤ自身のことを言っているのだ」と言っている人もあれば、「いや、これはそのような個人を指して言っているのではなく、実際にバビロンで苦しみを受けるユダヤの民全体を指して言っているのだ」という人もいます。そして、その議論は未だに続いています。しかし、私たちは、このイザヤ書53章が書かれた紀元前700年前後、はるか2700年も後の時代の今というときから、この聖書の言葉に接するのです。当然、私たちはイエス・キリスト様というお方も知っている。その私たちが、このイザヤ書53章を読む限り、そこに記されている「苦難のしもべ」の姿は、まぎれもなく、イエス・キリスト様の受難の姿と重なるのです。それは、聖書が神の言葉であるからだと言えます。おそらく、このイザヤ書の著者は、自分が置かれている状況の中で、イスラエルの民の苦しみを見ていたのだろうと思います。そして、その苦しみの中から、この「苦難のしもべの詩」は書かれたのだろうと思いますが、しかし、この「苦難のしもべの詩」の著者の背後におられたのは神であられます。

神は、イザヤ書の著者の背後にあって、彼を導き、神の言葉を書き記させたのです。ですから、イザヤ書の著者は、自分が置かれている状況の中で言葉を語りますが、その言葉を用いられ神は、やがて救い主として御遣わしになられる、御子イエス・キリスト様のことを、彼の言葉を用いながらお示しになっていたのです。だからこそ、恐ろしいほど、「苦難のしもべ」の姿がイエス・キリスト様の姿とかさなるのです。では、その「苦難のしもべ」に重なるイエス・キリスト様のお姿とは何かと申しますと、それは「担うお方」ということです。イザヤ書53章の3節、4節、5節を見ますとこのように書かれています。「彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で病を知っていた。また顔をおおって、忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるにわれわれは思った、彼は神に打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。しかし、彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。」ここには、苦難のしもべは、「病をおい」「悲しみをにない」「われわれのとがのために傷つけられ、また不義のために砕かれる」お方であると述べられています。この、「負う」とか「ために」と言う言葉は、結局のところ「になう」と言う言葉に集約できます。

というのも、「になう」という言葉を辞書で引きますと「自分の責任として引き受けるということ」と説明されているからです。つまり、イエス・キリスト様は、私たちの病を、自分の責任として、そのみに引き受け、私たちの悲しみを自分の責任としてその身に引き受け、そして、私たちのとがや不義の責任をそのみに引き受けてくださったお方なのだというのです。病や悲しみは、人間が受ける苦難です。そしてその苦難の頂点に、私たちが決して避けることのできない人間の死があります。また、とがや不義は、私たちの苦悩だと言っても良いでしょう。私たちは、罪を犯さざるを得ない自分お姿に苦しみ、自分の試みにくさや汚れの中で苦悩するのです。そういった、私たちの苦難や苦悩の責任をすべてご自分の身に引き受けてくださったのです。だからこそ、イエス・キリスト様は死ななければならなりませんでした。しかも十字架の上で苦しみ、苦悩死ながら、死ななければならなかったのです。それは十字架が罪に対する裁きだったからです。イエス・キリスト様は、私たちの苦難をご自分の身に引き受けられたからこそ、十字架のうえ死なれ、私たちの苦悩を引き受けられたからこそ、十字架の上で「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」と苦悩の声を挙げなければならなかったのです。

そのように、イエス・キリスト様が「になう」お方となられたのは、私たちを苦難から解放し、苦悩から解放するためだからです。具体的にいうならば、私たちを死から解放し永遠の命を与え、また私たちの罪に完全に赦しを与えるためだといえます。そして、それは私たちを愛するがゆえのことだったのです。ヨハネが「主は、わたしたちのためにいのちを捨ててくださった。それによって、わたししたちは愛ということを知った。それゆえに、わたしたちもまた、兄弟のためにいのちを捨てるべきである。」とそう言ったのは、この「になう」お方として、十字架の上で死なれたイエス・キリスト様の死に様を見ていたからだと言えます。先ほど十字架の道行きのことをご紹介致しましたが、ヨハネは、おそらく、その14の場面の一つ一つで苦しむイエス・キリスト様のお姿を見ていたのだろうと思います。少なくとも、十字架にかけられたイエス・キリスト様のお姿は確実に見ている。仮に、その14の場面のすべてを見ていなかったとしても、その時に見た打ち傷の後から、イエス・キリスト様が捕えられ、裁判にかけられ、その結果、むち打たれ、いばらの冠をかぶせられ、十字架を背負ってゴルゴダの丘まで歩かれ、そして十字架につけられるまでに、どれほど厳しい苦しみを味わったかは、推し量ることができただろうと思うのです。

そのように、苦しみぬかれたイエス・キリスト様の死に様を見ていたヨハネにとって、それが、私たち「病をおい」「悲しみをにない」「われわれのとがのために傷つけられ」、また「わたしたちの不義のために砕かれる」為であったとするならば、その行為に、愛、それも自らを人に与えるアガペーの愛を認めないわけにはいかないのです。そして、そのような大きな愛、気高い愛に触れたならば、その生き様が変わらざるを得ないのです。それこそ、とても到達できないような高い目標であり、おそらくは到達できないでしょう。しかし私たちは、私たちの主イエス・キリスト様に倣って、「わたしたちもまた、兄弟のためにいのちを捨てるべきである。」という生き方に向って、一歩、一歩前進して行かざるを得なくなるのです。もちろん、それは決して義務でもない、命令でもない。むしろ、キリストの愛に深く触れれば触れるほど、たとえ到達できないにしても、「わたしたちもまた、兄弟のためにいのちを捨てるべきである。」という生き方に向って、変わって行かざるを得ない、そんな深い感動と衝動が、私たちの内側に起こってくるのだということなのだと思います。

だとすれば、もち私たちが、「わたしたちもまた、兄弟のためにいのちを捨てるべきである。」といわれるところの、互いに赦し愛し合うことにおいて、そうなりたい、そうなろうと言う意欲がない、あるいは意欲が湧きあがってこないとしたならば、それは、私たちはまだ、イエス・キリスト様の愛の深さ、広さ、高さにおいてそれを、経験的に十分には知っていない、深く味わっていないということなのです。いや、ひょっとしたら、かつて、このイエス・キリスト様の愛に触れ、「わたしもまた、兄弟のためにいのちを捨てるべきである。」と願ったことがあるのかも知れないが、今はその時の気持ちを忘れているだけかも知れません。そもそもが、私たちがクリスチャンであるということは、人生のどこかで、このキリストが十字架に至る道で、そして十字架の上で苦しまれ、苦悩なさった愛にふれたからこそ、クリスチャンになったということがあるはずです。そういった意味では、「神が私たちを愛してくださっている」「キリストは私たちを愛してくださっている。」という言葉は教会では聞き慣れた言葉です。そして「イエス・キリスト様の十字架の死は、私たちの罪を赦すためである。」とか「イエス・キリスト様は、私たちが神から受けなければならない罪を、すべて身に負って、私たちの身代わりとなって十字架に架かって死なれたのだ」ということも、教会では、きわめて常識的に知られていることです。

しかし、私たちは考えたいのです。その聞き慣れた言葉、常識的にしられていることが、私たちを「わたしたちもまた、兄弟のためにいのちを捨てるべきである。」と言う生き方に駆り立てているのかどうかを考えたいと思うのです。いや考えなければならない。それは、本当に私たちは、聖書が語るところに従って生きているかと言う問題につながるからです。先週ももうしあげましたが、私たちが具体的に生きている中で起る様々な問題に対して、具体的に聖書はどうしなさいと言っているかについてを求めても、聖書は直接的に「どうこうしなさい」という規範的には書かれていません。もちろん、旧約聖書の律法のような規範倫理的な記述もありますし、道徳的な言葉も記されています。それはそれで、私たちの生き方を導く大切な内容なのものです。しかし、その言葉自体が、数千年もまえの時代背景や地域的、文化的背景を背負っているのです。そのため、現代の日本という状況の中で生きている私たちに、聖書に戒めや勧めのことばを字義的にそのまま適用するならば、無理が生じるといった場合も多々あります。ですから、その戒めの言葉や勧告を解釈したり適応しながら、どう対処していくかを考えなければならないということも起こりうるのです。

しかし、聖書の中には、時代をこえ、文化を越え、地域をこえて絶対に揺るがない絶対的な基準となる者があります。それが「赦し、愛する」ということです。たとえば、マタイによる福音書22章34節から40節には、イエス、キリスト様が律法学者から、「律法の中でどのいましめが一番大切ですか。」とたずねられています。その質問に対して、イエス・キリスト様は「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ。』これがいちばん大切な、第一のいましめである。第二もこれと同様である。『自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ』これらの二つのいましめに律法全体がかかっている」と答えておられます。要は、律法に多くの戒めや規範が書かれているが、それらの数多く書かれている規範は、すべて神を愛し、隣人を愛するというところに立って書かれている規範であるということです。ですから、すべての戒めや、お勧めは、神を愛し、隣人を愛するということによって理解し受け止められなければならないということになります。つまり、愛すると言うことが、聖書の中にある絶対にぶれない、揺るがない基準なのです。

そして、その愛するということを具体的に示すならば、それはイエス・キリスト様の十字架であり、このイザヤ書53章に示された「苦難のしもべ」の「になう」姿だといえます。「病をおい」「悲しみをにない」「われわれのとがのため」「われわれのふぎのため」に生き、そして十字架の上で苦しみ抜いて死んで行かれたイエス・キリスト様は、私たちをになってくださるお方なのです。ですから、愛するということは、具体的には「になう」と言うことなのです。教会の中で、教会の中だけでなくても、社会の中で悲しんでいる人がいたならば、その人の悲しみを自分自身の悲しみとしてになう。そして手を差し伸べてあげるというところから「愛する」と言うことは始まる、「わたしたちもまた、兄弟のためにいのちを捨てるべきである。」という生き方に向って歩む歩みが始まるのです。そのためには、何度も申し上げるようですが、いや大切なことだから何度も申しあげるのですが、私たちが、イエス・キリスト様が、十字架の上で、そして十字架に至る道行き示された苦難を通して示された愛に触れて「主は、わたしたちのため死んでくださった。それによって、わたしたちは愛と言うことを知った」とそう言うことができる、霊的な経験を持たなければならないのです。

この受難週のひとときは、そのことを思うには本当によい機会です。おおよそ2000年前のこの週の金曜日にイエス・キリスト様は、十字架の上で死なれたのです。そのことを、覚えながら、私たちはキリストの苦しむ姿を黙想しながら、キリストの愛に、神の愛に思いを馳せたいと思います。そして、私たちみんなで、共に手を取り合って「わたしたちもまた、兄弟のためにいのちを捨てるべきである。」といわれるところの、「互いに赦し愛し合う」生き方にむかって、一歩一歩歩んでいく者でありたいと思います。そのような願いを込めて最後にもういちど、イザヤ書53章をお読みしてお祈りしたいと思います。

「だれがわれわれの聞いたことを信じえたか。主の腕は、誰にあらわれたか。主は若木のように、かわいた土から出る根のように育った。彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、われわれの慕うべき美しさもない。彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で病を知っていた。また顔をおおって、忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるにわれわれは思った、彼は神に打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。しかし、彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれいやされたのだ。われわれは羊のように迷って、おのおの自分の道に向っていった。主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた。彼はしいたげられ、苦しめられたけれども、口を開かなかった。ほふり場にひかれて行く小羊のように、また毛を切る者の前に黙っている羊のように、口をひらかなかった。彼は暴虐なさばきによって取り去られた。その代の人のうち、だれが思ったであろうか、かれはわが民のとがのために打たれて、生けるものの地から断たれたのだと。彼は暴虐を行わず、その口には偽りがなかったけれども、その墓は悪しき者と共に設けられ、その塚は悪をなす者と共にあった。しかし、彼を砕くことは主のみ旨であり、主は彼を悩まされた。彼が自分を、とがの供え物となすとき、その命をながくすることができる。かつ主のみ旨が彼の手によって栄える。彼は自分の魂の苦しみにより光を見て満足する。義なるわがしもべはその知識によって、多くの人を義とし、また彼らの不義を負う。それゆえ、わたしは彼に大いなる者と共に物を分かち取らせる。彼は強い者と共に獲物を分かち取る。これは彼が死にいたるまで、自分の魂をそそぎだし、とがある者と共に数えられたからである。しかも彼は多くの人の罪を負い、とがある者のためにとりなしをした。」

お祈りしましょう。